第35話 恐怖の音
1
トラウマ。
死。
炎。
暗闇。
虫。
人が本能的に感じるそれらの恐怖とは一線を画す、後天的に被る心的外傷である。
その原因は実に多種多様である。いじめやパワハラにセクハラなど、人間関係によるものもあれば、事故や事件などで衝撃的な場面を目撃することで発症することもある。
要は、人それぞれなのである。
そしてもっとも厄介なのは、傍からは何でもないことに見えても、本人にとってはとてつもない苦痛とストレスを感じてしまうという点である。
特定の物や場所、匂い、音、シチュエーション……
それらが過去に負ったトラウマを蘇らせ、今を生きる者を縛り付ける。
願わくば、人と人とが他者を尊重できる、優しい世界になってほしいものだ。
2
午後十時半。携帯電話が鳴った。
Prrrrrr
『ひっ』
表示を見ると、上司の営業部長からの着信だった。
脇の下を冷たい汗が伝い、胸が苦しくなってくる。嫌な予感がしつつも、俺には電話を取る以外に選択肢はない。
『おい、有月か?』
『あっ、お疲れ様です』
『今いいか?』
いつになく温和な声色だ。
『え、ええ、まあ』
『今さっき、センターから欠品の連絡があってな、G**店さんの500mlソースが一本足りないらしいんだよ』
『はぁ』
最悪だ。
『悪いが、今から行って届けてくれないか?』
『は? 今からですか』
『そうだ』
俺の仕事は中堅食品メーカーの配達営業。弊社の営業部は、営業の他に近場の店舗への配送の役目も担っている。
工場で作った製品を直接小売店に配達するのだが、一部の店は一度物流センターに集荷してから各店舗に輸送業者が納品するという形をとっている。
『頼むよ』
『ええと、G**店の方にでしょうか?』
上司の声色が急変した。
『馬鹿野郎!! 時間を考えろや。今店の方に行っても誰もいねぇだろうが!』
(お前が時間を考えてくれよ)
『も、申し訳ありません』
『ったく』
今回のようにセンターのピッキング作業中に欠品が発覚することがあると、直接センターに届けに行かされる。融通の利く店なら、朝一で配達して謝罪すれば、その場はなんとかなるのだが、結局欠品クレームがあったという事実はしっかり残ってしまう。
それを嫌ってか、うちの営業部はできる限り即日対応をモットーとしているのだ。
糞、誰だよ出荷担当のやつ。
『しかし、今からセンターまで行ったら、往復で五時間はかか――』
『そのまま出勤してくればいいだろ。たしかあそこのトラックの出発は三時だったな。余裕で間に合う。それに仮眠ぐらいはさせてやるさ』
『し、しかし』
『鹿も馬もあるか、馬鹿野郎。こうしてぐだぐだしてる時間が無駄なんだ。いいからさっさと行け! 馬鹿がっ!』
*
「うぅ、最悪だ」
嫌な夢を見た。
前の会社の夢だ。
しかも、よりによってあの場面かよ。
前の会社では散々な扱いをされたが、特に深夜での欠品対応が一番きつかった。
睡眠を取らずに何時間も運転させられた。おかげで何度事故りかけたことか。
営業部では夜九時以降にかかってくる部長からの電話を『悪魔の着信』と呼んでいたっけ。出なければ翌日ボロクソに叱られるし……
ここ数年は、着信音だけで動悸が起きるほどだった。
今になって思い返せば、なんであんな会社に十年もいたのだろうか。
二十代の貴重な十年。
子供が大人に成長するくらいの時間。
その十年で、俺は何か成長できただろうか……
時計に目をやる。
まだ午前四時だ。
窓の外は薄闇に包まれ、冷たい夜風がカーテンを波立たせる。
眠ろうと布団に潜ったが、全く寝付けない。
「あー、ダメだ」
眠ろうと目を閉じると、さっきの夢の続きがフラッシュバックしそうになる。
結局、その日は寝不足のまま一日働き通したが、そんなことは慣れっこだった。
3
「勇にぃの部屋に上がるの久しぶりだなぁ」
部活帰りに店に寄った眞昼が、久々に部屋に行きたいというので入れてやった。現役女子高生を部屋に上げるなど、世間に知れたら大問題であるが、こいつは眞昼なのでセーフだ。
「珍しいもんなんてないぞ」
「うん、昔と同じだな」
眞昼が背中からベッドに倒れ込む。
ボリュームのある胸がたゆん、と揺れた。
「あー、今日は疲れたー」
「お疲れさま、キャプテン」
「その呼び方やめてよ、恥ずかしいって」
「はっはっは」
俺はベッドの縁に座る。
昔はクソガキが三人で寝転がっても余裕だったのに、今は一人で半分以上の面積を使っちまうんだな。
「なんか失礼なこと考えてるだろ?」
「馬鹿。そんなことあるか」
「ふーん」
小悪魔っぽく笑う眞昼。
「そうだ、勇にぃ。連絡先教えてよ」
眞昼はぴょんと起き上がり、俺の横に座る。ふわっといい匂いがした。制汗剤と眞昼の匂いとほんのちょっぴり汗の匂いが混じってなんともいえないかぐわしい……って俺は変態か。
「まだ交換してなかったろ? 携帯番号とラインと、あとメアドも」
眞昼はポケットからスマホを取り出す。
「いいぞ」
「また長い間いなくなられたら困るからなぁ」
「馬鹿。もうこの街を離れるのはこりごりだ。あ、でも俺ラインやってないぞ」
「え? なんで?」
眞昼は分かりやすく首を傾げた。
「だって、すぐ既読がついてメッセージ読んだのバレるからな」
「なにその闇深い理由。まあいいや。じゃあとりあえず番号教えて」
眞昼に俺のケー番を教える。
「ほんじゃ一回電話かけるから、それで登録して」
「え? あっ、眞昼ちょっと、待っ」
眞昼の白い指がスマホの画面をタップする。
室内に着信音が響いた――その時だった。
Prrrrrrr
「――!」
無機質なその音を耳にした瞬間、目の前が真っ白になった。血の流れが逆になるような不快感が俺を襲い、呼吸が乱れた。
『おう、有月か?』
幻聴が耳元で囁く。
目は焦点が合わず、悪心が込み上げてくる。
「う、はぁ、はぁ」
俺は胸に手を当て、前かがみになる。
「え? ゆ、勇にぃ?」
粘っこい汗が全身から噴き出て、息が苦しくなる。その急な俺の変化に、眞昼は青ざめた顔をしていた。
「大丈夫? きゅ、救急車呼ぶよ?」
「いや、だ、大丈夫だ、はぁ、はぁ」
そこまでする必要はない。119番通報をしようとする眞昼を止める。
「な、なに? どうしたの?」
心配そうに俺を見つめる眞昼。
そうだ、まだ眞昼には言ってなかった。
俺は、俺は、携帯電話の着信音が怖いのだ。
ここ数年、俺にとって携帯電話の着信音とは、無茶苦茶な要求を突きつける悪魔の宣告だった。
ある時は他人のミスなのに隣県まで行ってクレーム対応、またある時は欠品した商品を片手に深夜に配達に行かされた。
「その、恥ずかしい話なんだが……」
恥を忍んで眞昼に打ち明ける。
まだ息苦しさは消えてくれない。
「――というわけなんだ」
幻滅しただろうか。
大の大人が着信音におびえるなんて……
「恥ずかしくない!」
「え?」
眞昼が俺の腕を取り、抱き寄せる。
ふくよかな胸に顔が埋まる。
「ちょ、眞昼」
「よっと」
そのまま眞昼は俺ごと体を倒し、二人はベッドの上で抱き合う形となった。
母が我が子を抱くように、胸に顔が包まれる。
「大変だったな、勇にぃ」
そう言って、眞昼が俺の頭を優しく撫でる。
「なんにも怖くないぞ、ここには、あたしと勇にぃしかいないから」
眞昼のぬくもりが俺の体に染み渡る。
「辛かったらさ、なんでも言えよな。あたしと勇にぃの仲だろ? どんなことでも、全部受け止めてやるから」
「眞昼……」
「十年前は助けて貰ってばっかだったけど今はもう違うんだからな」
抱きしめる力が強くなる。
「……ありがと、な」
「へへっ」
いつの間にか、動悸は治まっていた。
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