第11話

 翌日は、手が痛いと適当に理由をつけて学校を休んだ。わりとひどい怪我だったためか、そう言えば母もあっさり欠席を許した。

 朝のうちに病院に行っておきなさいと言い残していった母に素直に従うことにし、市立病院の診療開始時間になると俺は家を出た。

 その途中、長谷部から電話がかかってきた。腕時計に目をやると、ちょうど朝のホームルームが終わる時間帯だった。少し迷ったが、ここで無視すればよけいに面倒なことになりそうだったので、仕方なく通話ボタンを押す。


『どうした、何かあったのか』

 耳元へ持って行けば、俺がなにか言うより先に、携帯の向こうから大きな声が聞こえてきた。

 こっちが聞きたいと思うほどのそのあわてた声に

「ちょっと怪我しただけだよ」

 できるだけあっさりした口調で返してみたけれど、長谷部はよけいにぎょっとした様子で

『怪我? なんで? どこを?』

「左手。昨日うっかり家の窓ガラス割って、そのときにちょっと切った」

 短く説明してから、「たいした怪我じゃねえよ」とすぐに付け加えておく。

 すると長谷部は『はあ?』と思い切り呆れた声を上げ

『なにやってんだおまえ。ああ、でもたしかに志木ってそういうとこあるよなあ。案外抜けてるっていうか、ぼけっとしてるっていうか』

 ぶつぶつとそんな失礼なことを呟いたかと思うと、彼の声は急に電話口を離れた。それから、『窓ガラスで手切ったんだとさ』と、近くにいる誰かに伝えているらしい声がかすかに聞こえてきた。おそらく千野が横にいるのだろう。

『縫ったのか?』

「うん」

『何針?』

「十針」

 うっわ、と長谷部は小さく声を上げた。電話の向こうで彼が顔をしかめるのが、はっきりと想像できた。

『痛かっただろ』

「縫ってる間はべつに。麻酔してるし」

 言うと、長谷部はまるで自分が今し方十針縫う怪我をしたかのように唸り

『でもさ、なにしててガラスなんか割ったんだよ』

 ため息混じりにそう聞いてきた。

「……べつに、一人で部屋にいたとき、ちょっと手が滑って」

 少し考えてから答えれば、電話口で長谷部がふいに黙り込んだ。

 やがて不自然な間のあとで、ふうん、という声が返ってくる。さっきまでよりいくぶん低くなった声だった。長谷部が俺の答えをまったく信じなかったらしいことがはっきりと伝わってきた。


 短い沈黙を挟んだあと、長谷部が、なあ、と口を開く。俺はそれに重ねるように、あ、と声を上げ

「もうすぐ病院着くから、切るよ」

 嘘をついているわけではなかった。目の前に伸びる階段を下りれば、もう病院の玄関にたどり着く。

 長谷部は『ああ、うん』と早口に頷いてから

『学校終わったら、おまえの家行くよ。はるかも心配してるし』

 ときっぱりした口調で続けた。

「いいよべつに」という俺の言葉は当たり前のように無視して、『じゃあまたあとでな』とだけ言うと長谷部はさっさと通話を切ってしまった。


 昨日と違い、病院内は多くの人であふれていた。

 受付を済ませてから、昨日訪れた外来病棟へ向かう。外来病棟には長い廊下が一本まっすぐに伸びており、天井に眼科、耳鼻科、皮膚科といった表示がずらりと並んでぶら下がっている。そして目的の科のところで廊下を右に折れれば、それぞれの診療室にたどり着くようになっていた。


 外科の表示を探して廊下を歩いていたとき、ふと前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 あ、と思わず声が漏れる。そういえば、彼はこの病院の医師だったのだとふいに思い出す。前に彼を見かけたのも、この病院の駐車場だった。

 あのときと同じ白衣姿で、右手にはファイルのようなものを抱え、彼は俺の数メートル先を歩いている。そしてまっすぐに廊下を一番奥まで進むと、そこで右に曲がった。身体が横を向いた際に、彼の白い豊かな口ひげをきちんと確認することができた。


 里穂の告別式で彼の姿を目にして以来、なぜ彼のことをこんなにも気にしているのか、自分でもわからなかった。それでも気がつけば、俺は外科の表示も素通りして、廊下のいちばん奥まで進んでいた。

 耳鼻科、形成外科と並んださらにその先。彼の背中が消えた曲がり角まで差し掛かると、俺はそこで足を止め、曲がり角の先を覗き込む。

 彼の背中を見つけることはできなかった。きっともう奥にある診療室の中へ消えたのだろう。診療室の前にある椅子にも誰も座っていない。ひとけのない廊下の先にあるのは、診療室の扉と、そこに掛かる案内のプレートだけだ。


 唾を飲み込む。喉の奥でかすかな音がした。

 俺はそれ以上、足を進めることができなかった。まるで両足がその場に縫いつけられてしまったかのようだった。曲がり角に突っ立ったまま、目の前の景色をただ眺めていた。正確には、角を曲がるなり何の障害物もなく目に飛び込んできた、診療室の前のプレートに書かれた文字を。


 それがなにを意味しているのかは、まだわからなかった。それでも、ぞっとするほど冷たい戦慄のようなものが、背中を走るのを感じた。

 瞬時に理解する。俺はきっと、見ないほうがよかったものを見てしまった。この先ずっと、知らないまま生きていくほうがよかったことを、知ってしまった。そんな予感がした。だけどもう、見なかったことにするわけにはいかなかった。


 ――精神・神経科。

 そこにあった文字は、奇妙なほどの鋭さを持って、脳に焼き付いていた。

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