第8話
学校に行かなくてもいいのは、ありがたかった。今は人と言葉を交わすのがひどく億劫だった。せめて今日一日ぐらい、里穂や宮下に関する話は一言も聞かずに済めばいいと思った。
しかし、俺のそんなささやかな心からの望みは、ことごとく叶わないものらしい。
窓から差し込む日の光が、赤みを帯び始めた頃だった。
下で玄関のインターホンが鳴るのを、俺は自分の部屋から聞いていた。何をするでもなくベッドに寝転がり、ぼうっと天井を眺めながら。
今日は一日、ほぼこうして過ごしていた。きっと昨日も、千野が訪ねてこなかったならずっとこうして過ごしたのだろう。
今日は昨日のように、千野にベッドから引きずり下ろされるといったことはなかった。代わりに長谷部が訪ねてくることもなかった。そのため、家族と必要最低限の会話を交わす以外には誰とも口をきくことなく、夕暮れ時を迎えた。
二人ともこの時間まで訪ねてこなかったのだから、もうやってくることはないだろうと安心していたが、インターホンが鳴ったあと少しして、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
足音は二つだった。嫌な予感がしてドアのほうへ目をやったとき
「和紘。学校のお友達」
案の定、ドアの向こうから母がそう声を掛けてきた。
億劫な気分で身体を起こす。客を勝手に俺の部屋まで通さないよう母に言っておくべきだった、と今更深く後悔する。
ため息をつく。ここまでやって来た客を追い返すわけにもいかず、渋々ながら「入っていいよ」と返した。
あんなことを言った翌日に千野がまた訪ねてくるとは思えなかったので、きっと長谷部だろうと考えた。
しかし、開いたドアの向こうに立っていたのは、俺の予想していたものよりずっと、小さなシルエットだった。
「――水原」
まったく予想外の顔が目に飛び込んできて、呆けたようにその名前を呟く。
制服ではなく、紺色のワンピースの上にコートを羽織った格好の彼女は、元々小さな身体をますます縮ませるようにしてそこに立っていた。
一瞬だけ目が合ったが、彼女の視線はすぐに隣に立つ母のほうへ移った。それから水原は、母に案内してもらったことに対する礼を言っていた。母は首を振ると、軽く会釈をして部屋を離れる。
それを見送ったあとで、水原は改めてこちらを見た。
緊張した面持ちで、あの、と口を開く。
「急に来て、ごめんなさい」
軽く頭まで下げて言う彼女に、俺は、いや、と首を振った。
水原は躊躇うように部屋に入り口に突っ立ったままなので、とりあえず入るように促してから
「なんで水原、俺の家知ってんの」
ふと浮かんだ疑問を尋ねてみた。
水原は恐る恐るといった様子で部屋に入ると、ドアを閉める。そのあとでふたたび俺のほうを向き直り
「前に一回だけ、里穂ちゃんと一緒に来たことがあるから」
やはり緊張した調子で、そう答えた。
記憶を辿れば、すぐに見つけることができた。
玄関で、担任から持って行くよう頼まれたというプリントを俺に差し出す里穂の後ろ。たしかに身を潜めるようにして佇む水原がいた。二人で里穂の家へ向かう途中らしかった。
そのときは里穂と短い会話を交わしただけで、水原とはなにも喋らなかった。そのときだけでなく、これまでも里穂を間に挟んで水原と顔を合わせたことは何度かあったが、俺たちがなにか言葉を交わすということはほとんどなかった。
長く会話をしたのは、一昨日のあのときが初めてだったように思う。児童公園で、下校途中の水原を捕まえて話をした、あのとき。
思い出すと、少し不思議な気分になった。
「水原さ、よく俺の家なんて来る気になったな」
ふと思ったことをそのまま言ってみると、水原はきょとんとした目でこちらを見た。彼女は部屋に入ったはいいものの、ドアの傍に立ったままこちらへ寄ろうとはしない。
まあいいけど、と呟いて、俺はベッドから立ち上がる。
すると、水原にあからさまにびくりとされた。ちょっと驚いて動作を止めれば、水原はあわてたように「ごめんなさい」と謝ってきた。
小さくため息をつく。怖いなら来なければいいのに、と俺はうんざりした気分で思いながら
「で、何の用なの」
愛想のかけらもない口調で、素っ気なく尋ねる。
水原はあまり俺の近くへ来たくないようなので、俺もベッドの脇に立ったまま、視線だけ彼女のほうへ向けた。
ふっと彼女の視線が下に落ちる。しばし言葉を選ぶような間があった。
やがて彼女は俺の顔へ視線を戻し、それから、さっきまでよりいくぶんはっきりとした口調で、「里穂ちゃんの」と口を開いた。
「里穂ちゃんの、遺書、見た?」
その名前が出てくることは初めからわかっていた。俺たちの間にある共通の話題といったら、彼女のこと以外になかった。だから俺は、水原が「り」の音を発したときにはすでに目を伏せていた。
「見てない」と短く首を振る。
また少し間が空いた。やがて、すっと水原が息を吸う音が聞こえて、「じゃあ」と声が続く。
「見に、行こうよ」
彼女がおずおずと口にしたその提案は、一秒も迷うことなく断った。
「行かない」
水原は困ったように眉を寄せ、「どうして」と聞いてくる。
見ても仕方がない、と俺は昨日千野に言ったものと似たような言葉を返そうとした。しかし口から出た言葉は、違った。
「見たくない」
耳に届いた自分の声は、ひどく情けなく響いた。
そのとき急に、身体の奥からぞっとするほどの冷たさがせり上がってくるのを感じた。
奥歯を噛みしめる。水原に背を向け、窓の外を見た。隣の家の屋根が、黄金色に照らされている。
短い沈黙のあとだった。ふいに水原が静かな声で、「志木くん」と呼んだ。
俺が振り向くのを待つように彼女はしばし黙っていたが、俺は振り返らなかった。すぐに水原は諦めたようだった。窓の方を向いたままの俺の背中へ向けて、ゆっくりと言葉を続ける。
「里穂ちゃんの家に、行こう」
俺は目を瞑った。一度息を吐き、それから静かに聞き返す。
「遺書を見せてもらいに?」
水原は頷いた。俺はもう一度、深く息を吐いた。
「行かないよ」
そう答えたとき、俺は突然、正体の掴めない焦燥に駆られた。
今すぐにこの場を立ち去りたいという衝動が突き上げる。
「志木くんは」水原が迷いのない口調で言葉を続けたとき、その焦燥はさらに膨らんだ。
「ちゃんと、見たほうが、いいと思う」
鈍く疼く頭を押さえようと右手を持ち上げれば、驚くほど冷たい手が額に触れた。
俺は水原のほうを振り向いた。眉間にしわを寄せ、顔をしかめたまま彼女の顔を見る。俺の知っている水原は、こういう表情を向けるだけで、びくりと肩を震わせ、怯えたように顔を伏せるはずだった。
しかし、目の前に立つ彼女の視線は、少しも揺らぐことはなかった。
「ちゃんと、見ないと駄目だと思う」
彼女はまっすぐに俺の目を見つめたまま、さらに重ねる。
「だって、そうしないと」
俺は今度こそ思いきり顔をしかめた。苛立ちを隠しもない目で、はっきりと水原を睨む。それでも彼女は言葉を止めなかった。
「宮下くんもだけど、里穂ちゃんだって、かわいそうだよ」
全身を巡る血液が、途端に温度を下げたような感じがした。
頭が割れるように痛む。気づけば、額を押さえていたはずの手が、前髪を強く握りしめていた。
「……おまえに」
噛みしめていた奥歯をこじ開け押し出されたのは、唸るように低い声だった。
「おまえに、なにがわかるんだよ」
水原はわずかに顔を歪め、それでも静かな目をして、まっすぐに俺を見た。
「全部をわかってるわけじゃないけど、でも」
ゆっくり、丁寧に言葉を継ぐ。
「里穂ちゃんが、志木くんのことを、とっても好きだったのは知ってるよ」
水原らしくない、はっきりとした喋り方だった。
「私、里穂ちゃんからよく志木くんの話聞いてたよ。里穂ちゃん、すごく楽しそうに笑って話してた。それだけは、ちゃんと覚えてる。だから里穂ちゃん、今のままじゃ、志木くんにちゃんとわかってもらえないままじゃ、きっと」
その瞬間、息が詰まるほどの焦燥が、頂点に達するのを感じた。
強く目を瞑る。彼女の言葉を止めたくて仕方がないのに、声がうまく喉を通らなかった。それどころか、息すらうまく吸えなかった。
心臓の鼓動がいやに近くで聞こえている。全身をぞっとするほどの冷たさで覆われ、それ以上ものが考えられなくなった。
気づいたときには、俺は左腕を大きく振り上げていた。
俺の背後にはガラス窓があった。振り上げたその手は、そこへ向かって一直線に振り下ろされる。
聞き覚えのある派手な音が、耳元で大きく響いた。
水原の声が途切れる。
目を開けると、口をかすかに開け、蒼白な顔でこちらを見つめる水原の姿があった。しかし、彼女と目は合わなかった。限界まで見開かれた彼女の目は、俺の顔ではなく、俺の左手を凝視していた。まるで視線がそこに縫い止められてしまったかのように、みじんも動かすことなく。つられるように、俺もそちらへ目をやった。
真っ先に飛び込んできたのは、鮮やかな赤色だった。
手の甲に走った一文字の切り傷を中心に、左手が赤く汚れている。眺めている間にも血は溢れ出し、手首を伝って服の裾を赤く染めた。
痛みは、一拍遅れてじわりと広がった。とりあえず右手で傷口を押さえてみたけれど、ほとんど意味はなかった。手の下から溢れる血が、次々に床に落ちる。
か細い悲鳴が、戦慄く水原の唇から漏れた。白い手が震えながら上がり、彼女の口元を覆う。
その直後、どたどたと騒々しい足音が聞こえてきた。
かと思うと勢いよく部屋のドアが開き、母が駆け込んでくる。ガラスの割れる音は一階まで響いたらしい。母は俺の左手に目を留めると、ぎょっとしたように目を見開き、「なにしてるの!」と怒鳴った。しかしその声は、どこか遠くから響いてくるようだった。母が適当なタオルを引っ張り出してきて、傷口を押さえる。それから俺の腕を掴んで引っ張りながら、水原に、今から俺を病院に連れて行ってくるということを告げた。
青い顔をして立ちつくしていた水原は、それでようやく我に返ったようだった。母の言葉に頷き、それからなぜか、「ごめんなさい」と言った。
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