第9話
「なにしてたらあんな派手にガラス割るのよ」
壁に寄りかかるようにして立っている母が、呆れたように呟く。
それには答えず、俺は枕元に吊された袋からぽたぽたと落ちてくる透明な液を眺めた。袋から伸びる管は、俺の腕に刺された注射針に繋がっている。袋にはまだかなりの量の薬液が残っていた。
「先帰っとけば」俺は母に言った。
「まだ当分かかりそうだし。夕飯の支度とかあるだろ」
母は点滴の袋を見上げてしばらく悩んでいたが、やがて「そうね」と頷いた。
「じゃあ、一旦帰って夕飯の支度してから、また迎えに来る」
母のその言葉には、いいよ、と素っ気なく首を振ってから
「一人で帰るよ。歩いても十分くらいじゃん」
「でも、怪我してるんだから」
「手だから別に関係ないだろ。普通に歩けるし」
言うと、それもそうね、と母は呟いた。それから足下に置いていたバッグを拾い、ドアのほうへ歩いていく。その途中で、ふいに足を止めた。
「ああ、そうだ」思い出したように、こちらを振り向く。
「あとで、あの子にちゃんと謝っときなさいよ」
水原のことだというのはすぐにわかった。
天井を見つめたまま、短く相槌を打つと
「さっきね、あんたが治療受けてる間、心配してわざわざ病院まで来てくれてたんだから」
俺は母のほうを見た。それだけ言うと踵を返した彼女の背中に、なあ、と声を投げる。母はふたたび足を止め、「ん?」とこちらへ顔を向けた。
「泣いてた?」
短く質問を向ける。なにを聞かれたのかよくわからなかったらしく、「え?」と怪訝そうに聞き返してきた母に
「水原。泣いてた?」
少し補足を加えて、繰り返した。
母はきょとんとした顔をしながらも、ううん、と首を振り
「泣いてはなかったわよ。すごく青い顔してたけど」
ふうん、とだけ返して、俺はまた視線を天井へ戻した。
ちょうど点滴が終わる頃に看護師が戻ってきて、腕から注射針を抜いた。
それからベッドを下げ、今日はできるだけ安静にしているように、ということと、明日またガーゼの付け替えに来るように、ということを告げた。頷いてから、処置室を出る。
日はもうほとんど翳っていて、廊下は薄暗かった。日曜日なので外来病棟にひとけはなく、電気が消えているところも多い。
歩きだそうとして、左手に違和感を覚えた。顔の前まで持ち上げ、頑丈に包帯の巻かれたその手を眺める。まだ麻酔が効いているらしく、感覚がない。
手を下ろし、ふたたび歩きだそうとしたところで、目の前の景色にふと懐かしさを覚えた。
半年前、よくこの廊下を通って、里穂の入院する病室を訪れていたことを思い出した。思えば、この病院に足を踏み入れるのは、その半年前以来のことだった。
里穂の虫垂炎が見つかったのは、去年の九月の頭だった。
見つかったときにはもう随分と進行していて、どうしてもっと早く気がつかなかったのかと呆れる俺に、里穂は、そんなに痛くなかったのだと言って笑っていた。
「たまに脇腹が痛いなって思うことはあったけど、盲腸ってさ、ものすごーく痛いって聞くじゃない。だから多分、この程度の痛みなら盲腸じゃないなって思って」
あっけらかんと笑ってそんなことを言う彼女に、俺はますます呆れた。
薬での治療は不可能なほど重症化していたということで、里穂は手術を受けることになった。それを聞いたとき、俺はちょっと不安になってしまったが、彼女はおかしそうに笑って「たいした手術じゃないよ」と言った。
「命の危険とか全然ないし。ほら、かずくんのおじいちゃんだって、前に盲腸の手術受けたじゃない」
手術を受けるのは里穂のほうだというのに、なぜか俺が里穂に励まされていた。俺はすぐに納得し、そうだな、と頷く。
俺の祖父も虫垂炎を患い、しかも里穂のように、あまり痛くなかったということで放っておいたため、重症化させて手術が必要になったことがあった。
まだ小さかった俺は、それで祖父が死んでしまうのではないかと随分不安になったのを覚えている。しかし俺のそんな不安に反して、祖父は二週間ほどであっさりと退院した。その後は何の問題もなく、今でも元気に過ごしている。祖父ですら、そんなあっけなく治した病気だったのだから、まだ若い里穂ならもっと短い入院で済むだろうと思った。
しかし里穂は、少なくとも一ヶ月の入院が必要とのことだった。
祖父のときと違い、里穂の場合は手術の前にけっこうな時間があった。麻酔が身体に合うかなどの検査をするのだと里穂から聞かされた。
里穂が入院している一ヶ月の間、俺は可能な限り病院へ足を運んだ。しかし面会時間は八時までだったので、部活が長引いたときなどは行けないこともあった。
最初は、里穂が入院している間は部活を休んで毎日見舞いに行くつもりだったが、里穂にそこまでしなくていいと言われた。自分のせいで部活を休ませるのは心苦しいから、と彼女は困ったように笑っていた。
里穂は学校の授業に遅れることを心配していたので、俺は病院を訪れたときはいつも、その日授業で習った内容を簡単に教えることにしていた。宿題としてプリントを出されたときは、里穂の分ももらって帰り、彼女に渡した。
里穂は自分で教科書や参考書を読み、いつも、なんとかしてその宿題をこなした。そして次に訪れたとき、俺は彼女のやった宿題を答え合わせし、間違えていたところは解説をしてから、また新たに習った内容を教えた。
それが、今なにより、俺が里穂にしてやるべきことだと思った。部活や授業をおろそかにして、里穂の見舞いに行くことではなく。里穂が退院したあとも出来るだけ不自由なく過ごせるよう、しっかりと勉強を教えてやることのほうが、里穂のためになると、そう思っていた。
入院している間、里穂はよく水原の心配をしていた。
今日水原が学校でどんな様子だったかと、事細かに聞きたがった。聞かれるたび、俺は何も心配することはないと答えた。
里穂が入院している間も、水原は毎日しっかりと登校していた。
休み時間に一人で寂しそうにしている姿を見かけることはあったが、中学時代と違い里穂以外にもそれなりに親しく付き合っているクラスメイトはいたようだし、とくに何の問題もなく水原は里穂のいない一ヶ月を過ごしていた。
水原も出来る限り見舞いに行くようにしていたようだが、俺と同じように、忙しくて行けない日もけっこうあったのだろう。そういった日に、里穂は、俺に水原の様子を尋ねていたようだ。
里穂が水原と同じように世話を焼いていたクラスメイトは、もう一人いた。
しかし、里穂が俺に、彼の様子を尋ねてくることは一度もなかった。
もっとも尋ねられたとしても、俺はなにも答えられなかった。里穂もきっとそれを知っていたのだろう。
里穂のいない学校に用はないとでもいうように、宮下は、里穂が入院した途端学校に来なくなった。
代わりに毎日、里穂の病室を訪れていたらしい。俺は何度もこの病院内で宮下を見かけた。里穂の病室に入ろうとしたとき中に宮下の姿を見つけ、思わず回れ右をしてしまったことも何度かある。
クラスメイトのくせ学校では一度も口をきくことがなかった彼と、初めて言葉を交わしたのも、この病院でだった。
そして結局、それが彼と交わした、最初で最後の会話になった。
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