第5話
水原繭が里穂の前に現れなければどんなによかっただろうと、思ったことがある。
いじめに遭ったことも、里穂が彼女を庇ったことも、そのせいで里穂までクラスから浮いてしまったことも、水原の責任ではないということくらい、頭の隅では充分に理解していた。
しかし、そんな理屈とはまったく別のところで、時折真っ黒な感情がこみ上げるのはどうしようもなかった。そしてそれは、里穂をこんな形で失った途端に、他の何もかもを押しのけて胸の中を満たすようになった。
夕方になると、俺は家を出た。そろそろ学校が終わる時間だった。
朝とは違い、夕日に照らされて赤みを帯びている道をゆっくりと歩きながら、俺は少し迷う。
最初はこのまま学校へ向かうつもりだったけれど、そうすると長谷部や千野と顔を合わせてしまう可能性があることに今更気づいた。こんな時間帯に再び学校に戻ってきた俺を見つければ、彼らは絶対に放っておかないだろう。
長谷部や千野だけでなく、今朝の行動のせいで、今の俺は、大半のクラスメイトから危ないやつだと認識されているかもしれない。また恐れと哀れみの混じったあの視線を向けられるのは、鬱陶しい。
俺は学校へ向かっていた足を一旦止めると、少し考えてから、違う方向へ向けた。
中学校の頃、学校を休んだ水原へプリントを届けに行くという里穂に着いていったことがあるので、水原の家の場所は知っていた。
国道沿いをしばらく歩いたあとで、住宅街の細い道に入る。この辺りは似たような家がたくさん建っていて、彼女の家がどれだったか正確には思い出せなかった。それでもこの近くに住んでいることは間違いないため、俺は、国道から入ってすぐのところにある小さな児童公園で、彼女を待つことにした。
水原が姿を見せたのは、公園に面した道路を、下校途中の中学生や高校生が五人ほど通り過ぎていくのをベンチから見送ったあとだった。
これまでに通り過ぎた者は、誰も横の公園にいる俺になど目も留めなかったが、水原は俺が声を掛けるより先にこちらに気づいた。
人の姿を視界の端に捉えたらしく、顔をこちらへ向け、足を止める。それから驚いたように目を見開いて、小さく、「志木くん」と呟いた。
自分のことを待っていたのだということは、すぐに察したらしい。俺が黙って立ち上がり水原のもとへ歩いていくまで、彼女はなにも言わずにそこで待っていた。
久しぶりに真正面から眺めた水原は、思いのほか小さかった。
元から小柄だった身体はいっそう痩せてしまったように感じられて、青白いと形容したほうが適切なほど、不健康に白い顔をしている。
俺は「話がある」と短く言うと、返事も待たずに踵を返した。
水原はなにも聞かなかった。ただ黙って俺に着いてきた。
俺たちは、この公園に一つだけあるベンチに、間にもう一人座れるほどの間隔を開けて座った。
しばらくは沈黙が続いた。帰り道で水原を待ち伏せ、捕まえ、話があると告げたのは俺なのだから、当然水原は黙って俺が話し出すのを待っていた。
通学路に並ぶ木々とは違い、ここの木は深い緑色をした葉をたくさん付け、風に吹かれるたび微かな音を立てている。俺はそんな、風に揺れる木の葉をぼんやりと眺めながら、口を開いた。
「なあ水原」
視界の端で、水原が俺のほうへ顔を向けるのが見えた。しかし俺は木々を眺める視線を動かさずに、続けた。
「里穂は、自殺なんかするやつじゃなかったよな」
疑問系にするはずだったその言葉は、うまく語尾が上がらなかった。
「里穂がそんなことするわけがない。里穂ほど自殺って単語が結びつかないやつ、そうそういないよ。あいつさ、保育士になりたいって言ってたんだ。早く自分の子どもがほしいってことも。里穂はそういうやつだったんだよ。死ぬような理由もなかった。宮下が何かしたんだよ。そうとしか考えられないだろ」
俺は水原のほうを見た。なあ、と言いかけた言葉が、喉を通りすぎることなく消える。急速に、心臓から熱を絞り取られていくような感じがした。
そこにあったのは、哀れみの色を湛えた目だった。
目が合うと、少し躊躇うような間のあとで、水原は「志木くん」と慎重に俺の名前を呼んだ。その声は、長谷部や千野のものと何ら変わらなかった。
なにか、冷たい絶望のようなものが全身を貫くのを感じた。
「私、そうは、思わない」
たどたどしい口調で、しかしはっきりと、水原はそう言った。
公園には俺たち以外に誰もいない。そのため、風に揺れる木々の音と、遠くから聞こえてくる電車の通過音以外はよけいな雑音がなくて、水原の小さな声も何の問題もなく聞き取ることができた。
「志木くん、は、里穂ちゃんのことを、もっと」
慎重に言葉を選ぶようにして水原が続けたとき、俺は、急にぞっとするほどの嫌な予感にさらされた。握りしめた拳に、嫌な汗が滲む。
「――ああ、そうか」
彼女の言葉を遮るように口を開けば、自分でも驚くほどの低い声が喉から溢れた。
水原が驚いたように口を噤む。こみ上げた、その得も言われぬ焦燥は、葬式で里穂の両親に対して感じたものとよく似ていた。
「水原は知らないもんな」
吐き捨てるように続ければ、水原は不安そうな目でこちらを見つめた。
それは昔から、俺を妙に苛立たせる目だった。
こめかみが疼くように痛む。胸の奥に横たわっていた真っ黒な感情が、鎌首をもたげるのを感じた。
目の前で頼りなく揺れる水原の瞳をまっすぐに見据えたまま、口元に笑みを刻む。きっとひどく歪んだ笑みだった。困惑したように眉を寄せた彼女へ向けて、早口に捲し立てる。
「里穂はさあ、昔はもっと笑うやつだったんだよ。すげえ明るくて、いつも外を走り回ってて、友達も多くて、みんなに好かれてて。そういうやつだったんだよ。知らないだろ、水原は」
水原は、しばし見開いた目で俺の顔を見つめた。
やがてその目には悲痛な色が走り、彼女の顔がかすかに歪む。水原がなにか口を開きかけるのがわかったが、俺は遮るようにしてさらに続けた。
「水原と一緒にいるようになってからの里穂なんて、今までの里穂とは別人だったよ。里穂はたくさんの友達に囲まれて、ずっと明るく笑ってるような、そういう姿のほうが似合ってた。水原に会う前は、ずっとそうやって笑ってた。水原がいなかったら、今だってきっと」
そこまで言ったところで、急に喉奥から笑いがこみ上げてきた。
「ああ、そうか」息を吐くように、もう一度呟く。額を押さえていた手で、前髪を乱暴に握りしめた。水原の目に浮かぶ困惑がより深くなる。
「水原のせいだよ」
水原のせいだ、と俺は自分の言葉を確認するようにもう一度繰り返してから
「もし本当に里穂が自殺したんだとしたらさあ、原因はそれだったんじゃねえの。里穂は優しいからカワイソウな水原を放っておかなかったけど、そんなのただの同情だったんだよ。里穂が水原と、本気で友達になりたいとか思ったわけないだろ。なのに水原は、そんな里穂の優しさにどこまでも甘えて、依存して、それが里穂を追い詰めたんだよ」
捲し立てている間、俺は必死になにかに縋っていた。
水原の表情が、よりいっそう悲痛に歪む。俺の顔を見つめていた彼女の視線は、やがて耐えかねたように自分の膝へ落ちた。
俺はおもむろに立ち上がると、ベンチに座る彼女の前に立ち、彼女を見下ろした。水原はただじっと自分の膝を睨んでいる。顔は伏せられていて、表情は読めない。ただ、噛みしめられた唇が痛々しく鬱血していく様だけが、不思議なほどはっきりと見えた。
「それしかないだろ。本当に自殺したんだとしたら。おまえと、宮下だよ。おまえらさえいなかったら」
膝の上に置かれていた彼女の拳が、ぐっと握りしめられる。かすかに震えるその手を眺めながら、俺は目の前の小さな肩が震えるのを待った。
「おまえらさえ、いなかったら」刻み込むように、俺は低く繰り返した。
「里穂は死ななかったんだよ。今でも、ずっと、笑っていられたんだ」
言っているうちに、それが水原へ向けた言葉なのか、自分へ言い聞かせる言葉なのか、俺はよくわからなくなっていた。
やがて、ゆっくりと上がった彼女の手が自らの口元を覆う。「ごめんなさい」という今にも消え入りそうな声が、手の下から零れた。
しかし、その声は震えていなかった。目の前の小さな肩も、いつまで待っても震えることはなかった。
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