第6話

 俺の世話焼きな友人は、休日も返上で働くようだった。

「うわっ、埃っぽい」

 本人の了承も取らずに俺の部屋のドアを開けた千野は、開口一番にそんな失礼なことを言った。

 起き抜けの靄がかかったような意識のまま、俺がベッドの上で上体を起こしている間に、彼女は当たり前のように部屋に入ってくる。そして、まっすぐに窓のもとへ歩いていったかと思うと、また了承も取らずいきなりカーテンを開け放った。


 途端、寝起きの目には強すぎる光が部屋を満たす。顔をしかめ、「眩しい」と抗議したが、千野には無視された。

「もう十時だよ。いい加減起きなさいよ」

 母親のような口調で言いながら、千野はさらに窓まで開ける。

 容赦なく吹き込んできた冷たい風に、俺は膝に掛けていた毛布を肩まで引っ張り上げながら、今度は「寒い」と抗議した。

 しかし千野はやはり無視して

「ちょっと志木くん、この部屋、なんか空気悪いよ。換気しないと」

 言いながら、部屋にもう一つある西側の窓のほうへ歩いていくと、当然のようにそこも全開にしてしまった。


 起きるなり眩しい陽の光と冷たい風にさらされ、俺は眉を寄せて突然の訪問者を睨む。しかしその訪問者は、俺の不機嫌な視線など気にした様子もなく

「いつまでぼけっとしてるの。早く起きなさいってば」

 と再度言ってきた。

「何しにきたんだよ」

 そうは言われても素直に起きる気になどなれず、毛布を肩まで被ったまま無愛想に尋ねれば

「今日、どうせ暇でしょう。デートしようよ」

 千野はそんなことを言って、にこりと笑った。

 俺は一も二もなく「やだよ」と切り捨てる。

「んなことしたら、長谷部に殴られるだろ」

「大丈夫だって。恭平にはちゃんと許可取ってあるから」

「とにかく嫌だよ。寒いし」

 千野は最初から俺の言葉など聞くつもりはなかったらしい。「いいから行こ」と言って毛布を剥ぎ取ると、俺の腕を掴んでベッドから引きずり下ろし

「こんなところに閉じこもってたら、余計に気が滅入っちゃうよ。あたし、下で待ってるから、早く支度して来てね」

 それだけ言うと、呆気にとられる俺を残し、さっさと部屋を出て行ってしまった。



 外に出ると、太陽はもう高い位置に昇っていた。

 薄い雲がところどころ浮かぶ空は今日も抜けるように青い。空気は冷たいが、降り注ぐ穏やかな日差しのおかげで、部屋の中よりむしろ暖かく感じられた。

 千野は、「とりあえずぶらぶらしよう」と言って歩き出した。俺は億劫な気分で、そんな彼女の少し後ろを歩く。

 歩いている間、千野は絶えず俺に質問をしてきた。食事に関することが多かった。「昨日の夜はなに食べた?」だとか「どれくらい食べた?」だとか、あまりに事細かに聞いてくるので

「心配しなくても、飯くらいちゃんと食べてるよ」

 ちょっとうんざりしてそう返せば、千野はいかにも半信半疑という表情で「それならいいけど」と呟いた。


 食事に関する質問が終われば、次は体調に関する質問が続いた。

 俺は適当に短い返事をしていたが、千野は、俺がどんなに素っ気ない返答をしようと、質問を途切れさせようとはしなかった。

 まったく発展しない不毛なやり取りを繰り返しながら歩いていると、やがて国道沿いに出た。本当に、どこかへ行こうという当てはなかったらしい。千野はそこで立ち止まると、少し考え込むような表情になった。

「そういや、今日長谷部は?」

 千野の質問が途切れたので、たいていいつも一緒にいる彼女の恋人のことを聞いてみると

「部活。他校と練習試合があるんだって」

「ふうん」

 この会話もやはり短く終わった。千野のほうも、あまり会話を発展させる気はないようだった。こうして俺を連れ出し、太陽の下を歩かせていればそれでいいのかもしれない。

 少し考えたあとで、千野は駅のほうへ向かって歩き出した。「夜はちゃんと寝てる?」だとか「なにも変わったことない?」だとかいう千野の質問に、俺は一言二言で答えながら、その後もしばらく歩いていた。


 市立病院の近くを通りかかったときだった。

 見覚えのある横顔が目に入り、俺は足を止めた。

 気づいた千野もすぐに足を止め、こちらを振り向く。小さく首を傾げ、「どうしたの」と聞いてくる彼女に、俺は「あれ」と言って、市立病院の駐車場にいる一人の男性のほうを指さし、見るように促した。

「あの人がどうしかした?」

 千野は俺の指さしたほうへ目をやったが、要領を得なかったようで怪訝そうに聞いてきた。

 俺はしばし黙って彼の姿を眺めた。車になにか忘れ物を取りに来たところらしい。後部座席のドアを開け、中から分厚いプリントの束を取り出すと、またすぐにドアを閉め、鍵を掛ける。

 その間に一瞬だけ、彼の顔がこちらを向いた。彼の豊かな白い口ひげは特徴的なので、横顔だけでも充分に判断することはできたけれど、真正面から顔を見て、よりしっかりと確信した。

「あの人、里穂の葬式に来てたよな」

 千野は俺の顔に視線を戻した。それから、戸惑ったように「そうだったっけ」と語尾を濁す。

 俺は「来てたよ」と強く相槌を打ってから

「なんか、里穂の両親に頭下げてた」

 彼が俺の記憶に強く焼き付いていたのは、そのせいだった。悔やみの言葉を述べる人はいても、そんな所作をしていたのは彼だけだったのだ。

 彼はプリントの束を手に、車を離れる。そして、まっすぐに病院の玄関のほうへ向かって歩いていった。彼の着ている白衣の裾が風で翻るのを眺めながら、医者だったのか、とぼんやり考えていると

「赤嶺さん、前にこの病院に入院してたことあったじゃない?」

 千野が俺の隣で同じように彼を眺めながら、おずおずと口を開いた。「赤嶺さん」という言葉を口にするとき、彼女の声がかすかに強ばるのがわかった。

「そのときにお世話になった人なんじゃないかな。あの人、お医者さんみたいだし」

 慎重に言葉を選ぶようにして言う千野の声を聞きながら、今日千野と里穂のことについて話すのは、これが初めてだということに気がついた。


 千野がそう言っている間に、彼の背中は病院の中に消えた。

 俺は視線を戻し、「そうかもな」と軽い調子で相槌を打つ。千野はちらと俺の表情を窺ったあとで、いくらかほっとしたように息を吐くと

「そういえば赤嶺さんって、なんで入院してたんだっけ。盲腸だったっけ?」

 ふと思い出したように、そんなことを聞いてきた。

 俺は「そう、盲腸」と短く頷いて、病院の高い壁を眺める。

 半年前、俺はこの病院をよく訪れていた。

 俺の知っている限りいつでも健康そのものだった里穂に、ほんのうっすらとでも死という単語が重なって見えたのが、その半年前だった。

 きっと病院の寒々とした白い壁や、薬品の匂いに囲まれていたせいだろう。発見が遅れたため手術も必要になり、一ヶ月もの間里穂は入院をしなければならなかったが、もちろん生命の危険にさらされることなどはなく、手術も終わり退院したあとは、まったくこれまで通り元気に過ごしていた。

 だから、その一ヶ月の間だけだった。あくまで俺の意識の中だけでも、里穂と死がほんの少し結びついたのは。


 記憶を辿る。

 病院のベッドの上、里穂は病人らしいかすかに青ざめた顔をして、それでも明るく笑っていた。

 彼女の隣には宮下がいる。いつもは表情に乏しい彼が、ここでだけは柔らかい笑顔を浮かべることを俺は知っていた。きっと、里穂の前ではいつもあんなふうに笑っていたのだろう。向かい合う二人はひどく穏やかな顔をして、ぽつりぽつりと言葉を交わしていた。

 二人が何の話をしていたのかは知らない。俺は彼らの会話に混ざったことどころか、そうやって話し込んでいる彼らの声を聞き取ることができるほど、近くへ寄ったことすらない。

 いつも病室の入り口に突っ立って、そこから、笑い合う二人を眺めていた。声を掛けることもできないまま、ただぼうっと眺めていた。そしてしばらく経つと、耐えかねてその場を立ち去るのだ。


 半年前にこの病院で何度も目にしたその光景が、今急に、目の前で見ているかのような鮮明さで思い出された。

 息を吐く。こみ上げた苦い感情を振り払うように、千野のほうへ視線を戻す。すると千野もこちらを見ていて、目が合った。千野は眉を寄せ、なにか考え込むような表情でじっと俺の顔を見つめたあと

「ねえ志木くん」

 いやに重たく響く声で、俺の名前を呼んだ。

 なに、と聞き返したが、彼女は答えなかった。ただ一言、「行こう」と言った。そして、駅へ向かっていたはずの足を反対方向へ向け、それ以上はなにも言わずに歩き出した。

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