第3話
かずくん、と、里穂は俺のことをそう呼んだ。
それがいつから始まったのかなんてわからない。物心がついた頃には彼女は俺の傍にいて、いつも俺をそう呼んでいた。
中学校にあがってからも相変わらず、幼稚園の頃と同じその呼び名で俺を呼ぶ彼女に、いい加減恥ずかしくなって、これからは名字で呼んでくれるよう頼んだことがあった。
里穂は不思議そうな顔をしながらも頷いていたが、けっきょく、次の日の朝には忘れていた。通学路で顔を合わせた俺に、「おはよう、かずくん」と明るく笑って挨拶をした。
その後も何度か頼んでみたが、二三日も経てば呼び名は元に戻った。
俺のほうも、しばらくは「赤嶺さん」と呼ぶよう努めていたが、どうにも慣れずにくすぐったかったし、そう呼ぶたび里穂が大笑いをするので、しだいに面倒くさくなってきてけっきょく「里穂」と呼び続けた。
幼い頃のままのその呼び名は、やがて、俺にとってわずかな優越感を抱かせるものになった。
明るく人見知りをしない性格の里穂には、仲の良い男子も多かった。
しかし、彼らと俺の間には確実な一線が引かれていた。里穂が、「かずくん」と俺を呼ぶたび、俺はそれをひしひしと感じることができた。
それはこの先、どうしたって越えることのできない一線だった。
里穂と、これまで積み重ねてきた、十年以上もの歳月。俺以外の誰も持っていない、そしてこの先、どんな努力をしようと、俺以外の誰も手に入れることはできないもの。
その歳月の長さは、少なくとも俺にとっては、十分に大きなものだった。
「三ヶ月も生理がこない」だとか、普通男に話すのは憚られるのではないかと思うようなことも、里穂は実にさらっとした口調で俺に言ってきた。
里穂にとって俺は、男だとか女だとかそんな垣根は越えたところにいたのかもしれない。飛び抜けて付き合いが長いおかげで、ただ、他の友人たちよりは気の置けない、何でも話せる幼なじみ。
俺はそれでよかった。他のクラスメイトたちより圧倒的に彼女に近い場所にいると、そう自信を持って思えれば、それだけで満足だった。
「心当たりでもあんの」
最初に里穂から生理についての悩みを聞かされたとき、俺はぎょっとしてそんなことを尋ねてしまったが、里穂は声を立てて笑うと
「ごめんごめん、それはないよ」
と、あっけらかんと首を振った。
彼女が笑うと、いつも真っ白な八重歯が覗く。それがよけいに、彼女の笑顔の明るさを引き立てていた。
「前から生理不順なんだよね、私」里穂はまっすぐな黒髪を指で梳きながら、軽い調子で続けた。
「二ヶ月も三ヶ月もこなかったり、かと思うと一ヶ月に二回もきたり。そんなことがしょっちゅうだよ」
当然ながら俺は生理の事情について詳しくない。どんな反応をしていいものかよくわからず
「不順だと、なんか問題あんの」
正直にそんな疑問を投げかけてしまった。
里穂は、んー、とちょっと考えてから
「とくに問題はないけど、あんまり良いことじゃない、とは聞くよ。まあ十代のうちは、こういうこと結構あるものらしいけどね」
「じゃあそんな気にすることないんじゃねえの。そのうち安定してくるよ」
よくわからないなりにそんなアドバイスをすれば、里穂は「そうだね」とあっさり納得していた。
しかしこういうことは、なるべく、お母さんだとか女友達だとかに相談してくれないだろうか、と、耳慣れない単語に若干の気疲れを感じて思う。
でも、里穂がこんな相談までできる男は間違いなく俺だけなのだと思うと、同時に、心地良い優越感もこみ上げてきた。
俺はその優越感だけで、どうしようもなく満足していた。里穂にとって、俺は単なる気の置けない幼なじみで、きっとそれ以上の感情なんてなかった。だけど今は、それでいいと思った。なにも心配なんてしなかった。誰にも奪われることはないと、根拠もなく信じ切っていた。
しかし、それは本当に、何の根拠もない自信だった。
里穂は昔から、優しいやつだった。
そして、曲がったことが嫌いで、おかしいと感じたものには総じて食ってかかることができるような、強い子だった。
ちょっとした嫌がらせでも、見つければすぐに飛んでいって止めさせていた。そのせいでしばしば喧嘩もしていた。一人ぼっちでいる子を見つければ、当たり前のように「一緒に遊ぼう」と誘っていた。
それは間違いなく、里穂の持つ何よりもの魅力だった。俺が惹かれたのも、きっと、里穂のそんな優しさと強さだった。
しかしそれは同時に、俺にとって、ひどく忌々しくも思えるものだった。
水原繭が里穂の前に現れたとき、俺は、里穂がもう少し冷たいやつだったならと思った。
自分にも危害が及ぶような厄介ごとは見て見ぬふりができるくらいの、したたかな人間だったなら。だけど、そんな人間は里穂ではなかった。里穂は絶対に、目の前のカワイソウな人間を放っておかなかった。
いじめと一言で言っても、幼稚園でのそれと中学校でのそれでは訳が違う。
喧嘩をしても翌日には仲直りをして終わりにできるような、そんな素直さはもうない。嫌がらせの内容も、格段に陰湿になっている。人間とは何をされれば一番堪えるものなのか、彼らはもう知っているのだ。
水原繭が目を付けられた理由はわからない。取り立てて理由などなかったのかもしれない。身体が小さくて、大人しくて、常にどこかおどおどしていて。絶対に反撃をしてこないであろう彼女は、単に的として丁度良かったのだろう。
クラスは七つもあった。それなのに、二年生にあがった里穂は、その七つのクラスの中から水原繭と同じクラスに編入された。
俺は違うクラスだったけれど、水原がいじめに遭っていたことは知っていた。それほどひどいいじめだった。いじめグループは、徹底的に水原を苦しめたがった。まず彼らは、クラス全員に水原を無視するよう命じていた。水原の味方を一人もなくして、絶対的な孤立無援の状態を作るところから始めようとしていたのだ。里穂があたったのは、そんな、惨いいじめの行われるクラスだった。
里穂は相変わらず、優しくて、曲がったことが嫌いな、強い女の子だった。
里穂はいじめになど加わらなかった。水原に話しかけ、一緒に給食を食べ、一緒に下校した。休日には一緒に遊びにも行っていた。そうしてただ一人、水原の友達になった。
明るくて人見知りをしない性格の里穂には、もともと友達が多かった。
しかしその頃から、俺は、里穂の口から水原繭以外の名前を聞かなくなった。里穂が水原繭以外の人間と一緒にいるところを見なくなった。
俺がじわじわと感じていた嫌な予感は、やがて的中した。
どうしたってこちら側につかない里穂を、いじめグループは、水原繭と一緒くたにすることを決めた。里穂の友人たちは皆、保身のためのそれなりのしたたかさは身につけていた。これ以上里穂と親しく付き合っていれば、自分たちにも害が及ぶ恐れがあった。
潮が引くように、里穂の周りから人が消えていった。里穂はずっと、水原と二人きりでいるようになった。
その頃から、里穂は俺と距離を置きたがるようになった。
自分と一緒にいれば、俺になにか不都合なことが起こると危惧していたのかもしれない。里穂はそういうやつだった。
人のことにばかり気を払って、自分はそれからも水原の傍を離れなかった。学年が上がっても、高校へ進学してからも、変わらず友達でいた。
宮下聡を見た瞬間に感じたのは、あのときと同じ嫌な予感だった。
宮下は、水原繭とよく似た目をしていた。里穂が放っておくことのできない、カワイソウな人の目をしていた。
しかし俺には、「宮下には関わるな」だとか、そんなことを里穂に言う権利はなかった。そんなことを言えば、里穂には少なからぬ軽蔑を含んだ目を向けられることもわかっていた。けっきょく、あのときのように、里穂がカワイソウな彼のもとへ歩み寄り、手をさしのべるのを、ただ眺めているしかなかった。
実際のところ、宮下は水原とは比べものにならないほど狂ったやつだったのだけど、俺はまだわからなかったのだ。
こんな形で、里穂の何もかもを奪い去ってしまうようなやつだということも、あの頃はまだ、なにも。
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