第2話

 目を離せば俺がどこへやら勝手に駆けだしていくとでも思ったのか、葬式のあいだ俺の横にぴったりと寄り添って離れなかった母は、午後から仕事があるため車でここから直接仕事場へ向かうということだった。

 最初母は、俺を家まで送ってから仕事へ行くとしきりに言い張っていたが、俺は一人で帰れると言って断った。

 どうやら本気で、今俺をひとりにするとなにやら変なことをしでかすのではないかと心配しているらしかった。小学生じゃあるまいし、とちょっとうんざりした気分になりながら、ここから家までくらいひとりで大丈夫だ、と俺がいくら言っても、母はなかなか折れなかった。


 そんな俺たちのやり取りをどこかから聞いていたらしく、

「俺らも、一緒に帰りますから」

 すっとこちらへ歩いてきた長谷部が、穏やかな口調で母に言った。

 俺らというのは、長谷部と、彼の隣にいる千野はるかのことらしい。二人は何度か俺の家に遊びに来たことがあったので、母も二人のことは知っていた。

 俺がどんなに説得しても聞かなかった母は、長谷部のそんな一言であっさり折れた。あからさまにほっとした顔で、「じゃあ和紘のことよろしくね」と二人に軽く頭を下げたあとで、ようやく俺から離れていく。

 母の言葉に大人びた表情で頷く友人たちを見ていると、本当に、自分は小さな子どもに逆戻りしてしまったかのような気分になった。


 母がいなくなったあとは、今度はこの二人が俺の傍から離れなくなった。

 心配しなくても俺は正気だと心の中で呟く。

 気遣わしげにちらちらとこちらを窺うふたりの視線が鬱陶しくて、俺は避けるように歩き出した。二人もすぐに追ってきた。そして当然のように、俺を真ん中にして、三人並んで歩き出した。


 外はいい天気だった。日差しが燦々と降り注いで、アスファルトに反射している。しかし頬を撫でる風はまだ完全に冬のもので、とても冷たかった。

 三人、しばらくは何の言葉もなく歩いた。

 斎場の重たい空気がまだ肩に乗っているようで、一つ一つの動作にやたらと労力が要った。足を進めるだけで疲れるのに口を開く気になどならず、俺はこのまま、一言も喋ることなく家まで歩くつもりだったが


「……自殺なんてね」

 ふいに、千野のそんな声が沈黙を破った。

 それは誰かに返答を求めた言葉ではなかった。ただ、無意識のうちに喉からこぼれ落ちた言葉だった。そのまま風に流され、空気に溶けていくのを見送ればいい言葉だった。

 けれど俺は、その言葉に奇妙な息苦しさがこみ上げるのを感じた。

「自殺じゃねえよ」

 息苦しさに耐えかねて口を開けば、自分でも驚くほど、低く、力無い声がこぼれ落ちた。

「殺人だ」

 足下を眺めていた視線を上げて、前方へ向ける。

 両隣を歩く二人が俺のほうを見たのがわかったけれど、俺はそのまま視線を動かさなかった。枝にわずかに残る木の葉が、風に揺れていた。この道を、里穂と二人で歩いたときのことを思い出した。

「だって里穂はさあ」

 俺の従兄弟に子どもが生まれたらしいという話をしたら、彼女が見に行きたいと言い出したので、二人で一緒に従兄弟の家へ行った、その帰り道だった。

「子どもがほしいって、言ってたんだよ」

 可愛い可愛いとしきりに連呼しながら、ベッドに眠る赤ん坊を眺める彼女の笑顔は、本当に嬉しそうだった。

 その日のうちに彼女は、将来保育士になるとまで決めてしまった。二年前の、ちょうど今頃だった。里穂はそういうやつだった。


「ちっちゃい子どもとかがすげえ好きで、しょっちゅう近所の子どもと遊んでやっててさ、将来は保育士になるんだって、もうちゃんと大学とかも調べて」

「志木」

 ふいに長谷部が俺の名前を呼んだ。宥めるような調子のその声には、哀れみの色が混じっていた。

 困惑した視線を横顔に感じる。俺はそのどちらも無視して、続けた。

「だから自殺なんてあり得ねえんだよ。殺人だよ。里穂は殺されたんだ」

「志木」困ったように、長谷部がもう一度呼んだ。

 そして今度は、俺が言葉を続けるより先に、

「自殺だったんだよ」

 静かに、そう言った。

 まるで、駄々をこねる子どもに言い聞かせるような口調だった。

「ちゃんと捜査はされたんだ。その結果、自殺だっていう結論が出たんだろ。それが全部だよ」


 俺はしばし黙って、前方に伸びる道を眺めた。

 長谷部の言葉の中には、俺にとって意味を含んだものなど何一つ存在しなかった。

「殺人だよ」

 短く繰り返せば、二人が困ったように息を吐くのが聞こえた。

「自殺じゃない。里穂は殺された。宮下に」その名前を口にした途端、背中に嫌な汗が滲むのを感じた。こみ上げた吐き気にも似た不快感を押さえつけ、続ける。「殺されたんだよ」

 冷たい風が吹き付け、剥き出しの耳がじんと痺れる。横の道路を、トラックが一台走り抜けていった。


 しばしの沈黙があった。

 やがて、精一杯穏やかに努めたような長谷部の声が、俺の名前を呼んだ。

 彼は重たいため息を吐いたあとで

「おまえが、今、すげえつらいのはわかるよ。でも、そんなこと言ったってどうにもならないだろ。なにも変わらないんだから。赤嶺は自殺したんだ」

 自殺、とその単語を口の中で繰り返す。

 また、吐き気にも似た不快感がこみ上げてくるのを感じた。それは、葬式の最中、水原の泣き声を聞いていたときと同じ感覚だった。

 俺はこめかみを押さえ、そりゃ宮下なら、と吐き捨てるように口を開いた。

「宮下なら、わかるよ。あいつなら誰も疑問に思わねえよ。あいつが普段から死にたいと思っていて、昨日、本当に自分で死を選んだんだって言われても、あっさり納得できるだろ、みんな。あいつはそういうやつだったもんな。この先生きててもしょうがない、とか考えててもさ、別に不思議じゃないようなやつだったじゃん。学校でもいつも一人だったし、知らねえけど、多分家のほうでもなんか問題あったんじゃねえの。多分、宮下には誰もいなかったから」

「志木くん」

 今度は千野が、俺の名前を呼んだ。静かだが、はっきりと咎める調子の声だった。だけど俺は聞かなかった。

「ああ、違うか」顔をしかめ、まっすぐに前を向いたまま、言葉を続ける。

「里穂がいた。里穂だけが、宮下の傍にいた。宮下には里穂しかいなかった。だから宮下は里穂まで巻き込んだんだ。自分の死に」

「やめなよ」

「でも里穂には、宮下以外にもたくさんいたんだよ。家族とか友達とかさ。里穂には死ぬ理由なんかなかった。宮下だけだろ。死んでもいいって思うようなやつは。なのになんで、里穂まで連れて行くんだよ。死にたかったんなら」

「志木くん!」

「一人で、勝手に死ねばよかったのに」


 気がつけば、目の前に千野の顔があった。

 前へ進めようとした足が、その場に引き留められる。千野の手が俺の肩を掴んでいた。だけど俺には、その重さがよくわからなかった。

 彼女は激昂した目で、まっすぐに俺を睨んだ。しかしその強い視線とは反して、彼女の顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。

 千野は、俺の肩に置いた手に力を込め

「宮下くん、もう死んだのよ」

 一言一句はっきりと、そう言った。

 まるで、今初めて、俺にその事実を告げるかのように。

 だけど俺は、そんなこともうとっくに知っていた。今日あの斎場に訪れた人間で、そのことを知らない者など、きっと一人もいなかったはずだ。

 今更なにを言っているのだろう、と乾いた気分で目の前の大きな瞳を見つめ返せば

「死んだ人間に対して、どうしてそんなふうに言えるのよ」

 震える声で、千野は続けた。しかし、まっすぐな強い視線は、少しも揺らぐことはなかった。


 そのとき俺は、急にひどい疲労感に襲われた。立っていることすら億劫になるほど、強烈な疲労感だった。

 なにも言葉を発する気になれず、ただ黙って視線を下へ逸らす。千野もそれ以上はなにも言わなかった。肩から彼女の手が離れる。

 やがて長谷部が、控えめに「行こう」と促してきた。俺も千野も黙って頷く。そしてふたたび、三人並んで歩き出した。


 冷たい風が、落ち葉を巻き上げながら足下を通りすぎていった。

 俺は何気なく後ろを振り返ってみた。空を見上げる。

 火葬場がどこにあるのか、何時から里穂の遺体は焼かれるのか、俺はなにも知らなかった。それでも視線は、ほとんど無意識のうちに空を彷徨っていた。

 そこには、抜けるような青色があるだけだった。彼女を焼いたであろう煙を見つけることなど、当然、できるはずもなかった。

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