イノセントワールドは有罪である
此見えこ
本編
第1話
そう遠くない場所から、水原の泣き声が聞こえた。
泣き声ならそこここから聞こえてくるし、すぐ隣では母も泣いているというのに、その声だけが不思議なほどくっきりと、耳に響いた。
ひどく耳障りだった。耳を塞ぎたくなったけれどさすがにそんなことは出来なくて、無意識のうちに耳に伸びていた手は、曖昧に髪を撫でつけてからまた下ろす。
振り払うように顔を上げた。人々が白い花を手に、棺のもとへ歩いていく。
順に花を捧げ、最後の別れを告げていく彼らの姿を眺めている間も、泣き声は聞こえていた。まるで俺の耳元で泣いているかのように、他のどんな音も押しのけ、その声だけが耳の奥に貼りつく。
思わず手が動いた。貼りついたその声を剥がそうとするように耳へ伸びた俺の手は、しかし耳に届く直前に誰かにつかまれる。
横を向くと、母と目が合った。母は俺の手を握る手に少し力を込めてから、行くよ、と短く言った。いつの間にか、俺の前には誰もいなくなっていた。
俺は小さく頷いて、祭壇から降ろされた棺のほうへ足を進めた。
ふと左手に握られている真っ白な花に目を落とす。別れ花だと、先ほど母から渡されたその花。その白さは、本当に、彼女に相応しい美しさだと思った。
棺のもとへ歩いていく間も、水原の泣き声は離れなかった。遠くなることすらなかった。
それは昔から、俺の大嫌いな、声だった。
棺の中、白い花に囲まれて眠る里穂は、息が詰まるほど綺麗だった。
ほどこされた薄い化粧と暖かな色合いの照明のおかげか、頬や唇には自然な赤みがさしていて、脱脂綿を噛まされた口元は緩く弧を描き、笑みの形を作っている。
周りを囲む真っ白な花と併せて、まるで、この中だけ世界から切り取られた異質な空間のようだった。それは、寸分の狂いもなく作られた美しさだった。
綺麗な顔でよかった、と隣で母が小さく呟くのが聞こえた。
俺は黙って、手にしていた花を彼女の顔の横にそっと置く。そのまましばし彼女の顔を見つめた。
目の前で眠っているのが里穂なのだと思うと、なんだか混乱しそうになった。
その混乱が本格的に押し寄せてくる前に、顔を上げる。すると、いきなり里穂の満面の笑みが目の前に現れて、一瞬わけがわからなくなった。吸い込め損ねた息が喉で音を立てる。
その里穂も、真っ白な花に囲まれていた。四角い縁の中、何の憂いも見えない、明るい笑顔を浮かべていた。
それは、俺のよく知った里穂だった。最後に会ったときも、彼女はこんなふうに笑っていた。
今は、棺の中の里穂に最後の別れを告げるべきときだということはわかっていたけれど、俺はこっちの里穂から目を逸らせなくなってしまった。思えば、斎場に入ってから彼女の遺影をしっかりと眺めたのは、これが初めてだった。
けっきょく俺は里穂になにも言えないまま、棺から離れた。
棺の傍に立っていた里穂の両親が、気丈にも笑顔を浮かべて、俺に礼を言った。それなのに、俺はあいかわらず何の言葉も出てこなかった。ただ黙って首を振った。それしか、できなかった。
代わりに母が彼らに悔やみの言葉を述べ始めた。小さい頃から里穂ちゃんには仲良くしてもらって、というようなことを母が控えめに語るのを、俺はどこか遠くに感じながら聴いていた。
そのとき、俺はふいに得も言われぬ焦りのようなものを感じた。
落ち着いて、母に丁寧な挨拶を返している里穂の両親の姿を眺めているうちに、それは全身を覆うように膨らんだ。
彼らが、もっと取り乱して、泣きはらしてくれたらいいと思った。
彼らはそうしてもいいはずだった。もっと、ぶつけようのない怒りを表に出してもいいはずだった。
だけど里穂の両親は、力無く微笑むばかりだった。母の言葉に対し、こちらこそ和紘くんにはずっとお世話になってきた、というような感謝の言葉まで述べていた。里穂の死を真正面から受け止め、そして静かに受け入れることができたという顔をしていた。俺はそれが、どうしようもなく嫌だった。
そのうち、里穂の死の過程なんて取るに足りないものになってしまいそうだった。そして、あとには里穂が死んだという真っ白な事実だけが残るのだ。
そこには、他の誰もいない。里穂だけの死。今俺たちがいる世界そのものから離れて、触れることすらできないものになる。遠い過去の話ばかりを続ける里穂の母親たちを見ているうちに、焦燥はますます膨らんでいった。
俺はそんな昔の話は打ち切って、つい昨日の話がしたいと思った。
今、どこかの斎場で、同じように葬式が執り行われているであろう、俺と里穂のクラスメイトだった、一人の男の話がしたかった。
しかし、静かな悲しみだけが覆うこの場で、その名前を出すことは許されなかった。誰もなにも言わずとも、それは暗黙の了解としてこの斎場内を包んでいた。
泣き声は相変わらず、大きくなることも小さくなることもなく、そこここから聞こえてくる。
参列者自体も多くて、親族やクラスメイトたちだけでなく、中学校や小学校で関わりがあったのだろう他校の制服を着た高校生の姿も多く見られた。駐車場に停まっている自動車のナンバープレートを見てみれば、随分と遠くの地名が書かれたものが結構あった。
赤嶺里穂はやはり魅力的な人であったのだと、俺は今更ながらそんなことを強く実感していた。
宮下の葬式はどういった様子になっているのだろうと、ぼんやり思う。
クラスメイトたちは大半が今この場に来ているようだけれど、宮下のほうへ出席した者はいるのだろうか。
考えていくうちに、まるでこの目で確認したかのように、はっきりと、その情景を想像することができた。
景色は今俺がいるこの斎場と変わらない。祭壇があって、棺があって、たくさんの花が飾れている。違うのは、参列者の人数と、彼らが一様に浮かべる表情だ。淡々と流れに沿って、その式は進行していく。
それは何とも物寂しい光景だった。哀れだと、俺は心から他人事としてそれだけ思った。それも同情とは遠い、むしろ嘲りの色を帯びた感情だった。きっとこの先も、俺は、宮下に対してそれ以外の感情を抱くことはできないだろうと思った。
振り払うように視線を上げた先には、参列者への挨拶を続ける里穂の両親の姿があった。
ふいに一人の男性が彼らに歩み寄り、深く頭を下げるのが見えた。豊かな白い口ひげをたたえたその容姿は特徴的だけれど、俺は見覚えがなかった。
里穂の遠い親戚かなにかだろうか、と薄い膜を隔てたような意識の中で、俺はぼんやりと考えていた。疑問が深く染み入ってくることはなかった。何もかもがひどく遠かった。里穂が死んだという事実すらも、まだ俺の中では形を成せずにいた。
腹の底に響くような釘打ちの音と重なり、また、水原の泣き声が耳に届いた。
横を見ると、少し離れた位置に彼女の姿を見つけた。
顔を伏せ、ハンカチで口元を覆っている。肩もハンカチを握る手も絶えず大きく震えていて、隣の母親らしき女性に支えられ、なんとか立っているという様子だった。
葬式が始まる前にちらりと捉えた彼女も、あんな様子だった。約一時間、ずっとああして泣きっぱなしだったのだろうか。
よくもまあそんなに涙が出るものだと、俺は場違いにも少し感心する。これ以上泣いたら体中の水分が枯れきってしまうのではないか、なんて馬鹿げた考えすら浮かんだけれど、水原はまだ当分泣きやむ気配はなかった。
釘打ちが終わると、里穂の母親が参列者に礼を述べた。途中涙声になりながらも、彼女は最後まで落ち着きを失うことはなかった。里穂の遺影を手に、しっかりとした目をして、気丈に挨拶をした。
出棺のときが迫っていた。
火葬場まで着いていくのは親族だけで、俺を含めた参列者のほとんどはここで出棺を見送ることになっていたから、ここが俺と里穂の最後の別れの場だった。頭ではちゃんと理解しているのに、感情がまったく追いついてこなかった。
相変わらず水原の泣き声だけがいやに耳につく。何もかもが薄皮一枚隔てた向こうにあるような意識の中で、俺が鮮明に感じ取ることができるのはそれだけだった。吐き気がするほど耳障りな、その声だけだった。
けっきょく、俺は泣くどころか里穂の死をしっかりと悲しむことすら出来ないまま、出棺のときを迎えた。
親族の人々が棺桶を担ぎ、霊柩車へ運ぶ。そうして棺がゆっくりと霊柩車に搬入されていくのを、俺はただただ見つめていた。唯一クリアに聞き取れる水原の泣き声を聞きながら、視界から消えるまで、ひたすらにその棺を見つめていた。
それは俺の、世界で一番好きな人を入れた、棺だった。
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