きょうちゃんのママ
「きょうちゃん、どいて」
ちょっと冷たかったかも、と言ってから後悔した。口をついて出た言葉を押し戻すように唇をきゅっと引き結ぶ。そんなことをしてもママの口から出た言葉の冷たさは空気にとけて消えてくれない。
床に寝転がるきょうちゃんをそーっと見やる。
やばっ。
きょうちゃんは眉根を寄せて頬をぷくっと膨らませていた。いかにも「自分、不機嫌です」という感じだ。誰に似たのか頑固なところがあるきょうちゃんのことだ。こんな言い方をされては意地でもどかないだろう。
「きょうちゃん」
こうなってしまったらもう後には引けない。掃除の後には洗濯が控えている。ママだって忙しいのだから妥協はできないと改めて語感を強くした。
「どいて、きょうちゃん」
「……やだ」
「やだじゃないの」
「やだなんだもん」
あーあ始まった、ママは小さくため息を吐く。斎藤家名物「きょうちゃんのイヤイヤ期」が始まってしまった。
きょうちゃんは今年で三歳になる。イヤイヤ期はもう終わっただろう、ママもじいじもばあばも誰もがそう思った時、不意にきょうちゃんが「やだ」と言い出した。思わずばあばと顔を見合わせて、「まだ終わってないみたいだね」とアイコンタクトを取ったのは記憶に新しい。
「きょうちゃーん、何で嫌なの?」
「やだ」
「やだじゃわかんないよー」
あえて間延びした声で話しかけてみるがさして効果はない。再発したイヤイヤ期は前回よりもタチが悪いように思えた。
「ママ、あっちいって」
「はあ」
思わず苛立ちとも諦めともとれる息が漏れ出た。あっそ、と掃除機を持たない方の手で顔を覆うママは、きょうちゃんが傷ついた顔をしてそっぽを向いたのに気づかない。
「はいはい、わかりました。そこは掃除しないからいいです」
「……そーじきやんない?」
「やらないよ、もう」
「いいよ、そーじきしていいよ」
「いいよ、もう。テレビ観てれば。邪魔してごめんね」
そーじき、ときょうちゃんは寂しそうに呟く。掃除機の音はうるさいし、テレビの音がよく聴こえないから嫌いだけど、ママが困るならその嫌いを受け入れても良かった。掃除機の音が遠ざかっていく。嬉しいはずなのにこんなにやるせないのは何でだろう。きょうちゃんはリモコンを手に取り、何も考えずにぽちぽちボタンを押していく。
『こちらの商品、なーんと!』
『だから、なんでやね』
『あなたのこと信じ』
『犯人はあ』
『この海鮮丼おいし』
『でもお高いん』
『どうも、ありがとうございましたー』
「京香!」
ブツン。お笑い芸人のお辞儀を最後にテレビは暗転した。
「ママあ!」
きょうちゃんは奪われたリモコンを取り返そうと手を伸ばす。
「そんなにぽちぽちやって壊れたらどうすんのよ」
リモコン片手にきょうちゃんを見下ろすママはとても怖く見えた。怪獣とかお化けよりもずっとずーっと怖い。きょうちゃんは伸ばした手を下ろすと精一杯ママを睨め付ける。そんな顔しないの、とママが言うよりも早くきょうちゃんは自分の部屋に駆けていった。
「ふんっ」
「あ、ちょっと」
あれは完全にご立腹だ。
言い過ぎたかな、とママはリモコンをテーブルに置く。
同じ保育園で仲が良い一歳上の女の子がいる。むっちゃんと呼ぶその子はきょうちゃんよりもちょっとだけお姉ちゃんで、きょうちゃんにとって憧れの存在だ。
「きょうちゃんのママきれい。いいなあ」
「むっちゃんのママもきれいだよ」
むっちゃんの真似をして、きょうちゃんがそう返す。えー、そうかなあ。そんなことないとでも言うようにむっちゃんが首を傾げる。
きょうちゃんがママを綺麗だと認識したのは、その日からだった。きょうちゃんよりも化粧に憧れて、幼いながらも大人っぽい服を好む同い年のむっちゃんにはとっても綺麗なママがいた。むしろ羨ましいと思っていたのはきょうちゃんの方だったのだけれど、とっても綺麗なママを持つむっちゃんがそう言うんだから、自分のママだって綺麗なんだろう。
「ママ、ママ」
「なあに、きょうちゃん」
その日の帰り道、きょうちゃんはママと繋ぐ手にきゅっと力を入れて言ってみた。
「むっちゃんがね、ママきれいーって」
「えぇ、本当? むっちゃんのママの方が綺麗なのにねえ」
そう言いながらもママは嬉しそうに眉を下げた。それが何だかおかしくて、きょうちゃんは得意げになって言う。
「ママ、きれいねー」
「もう、きょうちゃんったら可愛いこと言うじゃない」
お菓子買ってあげる、と上機嫌なママを見て、「きれい」は魔法の言葉なんだときょうちゃんはその日心に刻んだ。
最近、きょうちゃんのママは苛立っていた。携帯を見ては忌々しげに舌打ちをし、ばあばに電話をしては疲れを隠しもせず愚痴を言っている。それでもきょうちゃんの前では何事もなかったかのように笑っているのだから、きょうちゃんは不思議でならなかった。
「やり直すとか一緒に暮らすとかそういうのじゃないの。私はもうあなたとは縁を切ったつもりだから。ねえ。
……今、京香のことは関係ないでしょう!」
今日もママは誰かと電話をしていた。またばあばかな、とさして気にもせず遊び相手の人形の頭を撫でて、そして突然聞こえた自分の名前に肩を揺らした。人形の頭を撫でる手を止め、ママを盗み見る。ママは携帯を耳にあて、落ち着かない様子で歩き回りながら通話相手を怒鳴りつけていた。
「京香にはっ、あの子には私がいるの! 父親になってなんて頼んでない!」
パパ?
なぜだか口に出してはいけないような気がした。距離も離れている上、冷静ではないママに聞こえるはずがないのに聞かれてしまうと思った。
きょうちゃんはママから手元の人形に視線を移す。人形の正式名称は何と言ったか、勝手に名前をつけたせいできょうちゃんは覚えていない。
——マリーちゃん。きょうちゃんが人形に語りかける。心の中で、そっと囁くように。
マリーちゃんは、きょうちゃんのパパしってる?
さあ、しらないわ。喋れないマリーちゃんの代わりにきょうちゃんが言う。きょうちゃんのパパ、しらないわ。そうだよね、ときょうちゃんは少し安心した。自分に言い聞かせているだけなのにマリーちゃんと話した気分になる。パパなんて気にしないでマリーちゃんと遊ぼう。
「はあ?」
ママの声色が変わった。低い低い声だった。
はっと気を取り直したきょうちゃんがママを見る。頭に血が上ったママにはきょうちゃんがパパの存在を知ったことも、こちらを不安げな眼差しで見つめていることにも気づけない。
「何が『京香は俺の子』だよ。ふざけないでよ! あんた私が妊娠した時も堕ろせとしか言わないで、かといってその金すら出そうとしないでしかも迷惑だみたいな顔して何だっての? 一体何だってのよ!?
京香は私が産んだの。私の子なの!」
ママどうしたの? どうしちゃったの?
きょうちゃんは小さな手で耳をふさぐ。もう何も聞きたくなかった。ママの言葉を全て理解したわけではなくとも、きょうちゃんにはママの怒りの原因がわかる。
きょうちゃんのせいだ。
ママもパパもきょうちゃんがいやなんだ。
そんなことないよと言ってくれる人は誰もいなかった。言ってほしいのに、ママは顔の見えないパパを怒鳴りつけるので忙しい。マリーちゃんは何も言わず、のっぺりとした目をきょうちゃんに向けるだけ。
きっと、むっちゃんのママはこんなに怒ったりしないんだろうな、とぼんやり考える。だってあんなに綺麗なんだから。いいな、いいなあ。きょうちゃんのママもおこんなかったらいいのに。マリーちゃんの顔にぽた、ときょうちゃんの涙が落ちる。
「ママ、ママぁ。おこんないで、おこっちゃやだよ」
やさしいママがいい。おこるママはやだ。きょうちゃんは必死に願う。泣いているきょうちゃんに気づき、電話を切ったママがきょうちゃんを抱きしめても、その腕の中で願い続ける。願いは必ず叶う、そう信じていればきっと奇跡が起こると絵本の中で魔法使いが言っていた。だからきょうちゃんは願った。
やさしいママをください。
「おはよう、きょうちゃん」
優しく頭を撫でられて目が覚めた。そして優しい声が聞こえた。まだ眠いけど頑張って目を開けると優しい笑顔が見えた。おはよう、ママ。そう言おうとして、やめた。ママ、と呼んでいいのかわからない。何か違う気がする。髪の色は同じだけど、ちょっと長いような——いや、長くない。元からこうだった。間違いなくきょうちゃんのママだ。
「どうしたの? きょうちゃん」
ママは優しく問いかける。
「ううん。おはよう、ママ」
「朝ご飯、何にしようか。きょうちゃんの好きなもの作ってあげる」
「んーと、えっとね、いっぱいあるよ。あのね、いちごのね、ホットケーキ。あと、あとね」
「いいよ、いっぱい作るね。食べれなくてもママが食べるから大丈夫」
今日はなんて幸せな朝なんだろう。優しい笑顔、優しい声、優しい言葉。優しいで溢れている。きょうちゃんはゆっくり噛みしめるように言った。
「ママ、やさしいね」
ママは笑った。その言葉が聞きたかったとでも言う風に優しく頷いた。
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