蜥蜴の国

飛鳥休暇

第1話 坂の上の日常

 大きな口を天に向け、ギャオギャオと叫びながらヌラが僕に向け石槍を突き出す。彼の持つものとまったく同じ造りの石槍を片手で握った僕は、それでも刃先を地面に向けたまま、構えることが出来なかった。

 黒に覆われた砂漠の世界。目に見える範囲にはキミと僕しか存在しない。


「こんな、こんなことって……」


 消え入りそうな声で呟いた僕に向かい、ヌラが大きく口を開け、カチンカチンと二回牙を打ち鳴らした。


 ――美味しい。美味しい。


「……そうか。……わかったよ、ヌラ」


 涙で滲んだ視界を腕で拭い、僕は歯を食いしばり石槍をヌラに向かい突き出した。


「……勝った方が、食べる。……そういうことだね」


 涙と鼻水が止めどなく溢れ出てくる。キミと僕の冒険は今日ここで終わる。僕の気持ちが伝わったかのように、鱗に覆われたキミの顔が、何故か僕には笑っているように見えた。



 ******



 ガラスケースをトントンと叩くと、緩慢かんまんな動きでカメ吉が甲羅から顔を出した。

 僕はエサのパレットを適量、水に浮かせる。まだ眠たそうな瞳がかろうじてそれを認識すると、彼は首を伸ばしエサに食らいついた。

「おはよう、カメ吉。ちゃんと食べるんだよ」

 パクパクとエサを吸い込む様子をしばらく見てから、僕は部屋を後にした。


 階段を降りていくと、音に気付いた母さんがキッチンから顔を出した。


「おはよう、優輝ゆうき。いまトースト焼いてるからね」


 そう言ってキッチンに戻っていく母さんの横を通り、僕はテーブルへと向かう。そこにはすでに佐藤さんが新聞に目を落としながら座っていた。佐藤さんの飲んでいるコーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、頭の中をすっきりと覚醒させてくれる。


「あぁ、おはよう。優輝」


 佐藤さんが顔を上げ僕に向かい微笑んでくる。


「佐藤さん、おはようございます」


 僕もぺこりと頭を下げてからイスに腰掛けた。少し寂しそうな佐藤さんの表情と、背後からうっすら聞こえる母さんのため息には、恐らく同じ気持ちが込められているんだろう。きっとそれは「まだお父さんとは呼んでくれないのか」だ。


 二人の期待に応えられない自分を申し訳なく思うところもあるが、母さんと佐藤さんが再婚してからまだ半年しか経っていないし、思春期の息子に要求するには多少ハードルが高いものだということは二人にも理解してもらいたい。


 僕は気まずさから目を反らすように、テレビモニターに視線を移した。


 テレビの中では、口髭を生やした中年のコメンテーターが現政権に対する不満を大きな声で訴えていた。佐藤さんと一緒に暮らすまでは、やれ東京のスイーツがどうだ男性アイドルがどうだとかいうような、ぼーっと観れるような番組にチャンネルを合わせていたもんだから、こんなささいなところでも何か自分の居場所を奪われた気がしてしまうのは僕の心が狭いからだろうか。


「今日も学校祭の準備?」


 トーストを乗せた皿を運んできた母さんが聞いてくる。


「うん。大きな看板を作らないといけないから、結構ギリギリなんだ」


 家族以外が見たら引かれるくらいたっぷりのマーガリンをトーストに塗りたくりながら僕は答える。


「ふーん。夏休みなのに大変ね」


 母さんが立ったままカップのコーヒーに口をつけた。


「お父さんもその日は開けておいたから、楽しみにしてるよ」


 佐藤さんが自然に、そして不自然に、お父さんという単語を使い笑顔を作った。


「……うん。頑張るよ」


 僕は目線を合わさずに、マーガリンでくたくたになったパンをほおばった。



 玄関を開けると突き刺すような夏の日差しが容赦なく襲い掛かってくる。この時間帯でこの暑さなら、今日も日中は地獄のような気温に違いない。

 僕は袈裟けさがけにしたウエストポーチを背中に回し、自転車にまたがる。家を出ると学校まではずっと下り坂だ。視線の先にはキラキラと光る水平線が広がり、その手前にミニチュアのような建物が立ち並ぶ様子が見えた。山といってもいいような丘の上にある僕らの住宅街は、近年ではこの見晴らしの良さが評価され、ここら一帯の土地の価格も上がっていると聞いた。


 僕は地面を軽く蹴り、あとは惰性に任せるようにハンドルを強く握った。坂道を下る自転車はぐんぐんと加速する。母さんはいつも気をつけなさいと怒るけど、風を切るこの感覚が気持ちよくて、僕は極力ブレーキに手をかけずに坂を駆け下りていく。


 夏の熱を持った風が全身を通り抜けていくのを感じていると、何故か大声で歌でも歌いたくなってくる。

 浮かれた気分で坂を下っていると、突如目の前に大きなトラックが迫ってくるのが見えた。スピードが上がったままカーブを曲がろうとしたのか、そのトラックは車線を踏み越え、大きく膨らんで僕に近づいてくる。


 ――危ない!


 僕はとっさにハンドルを切り、トラックを避ける。そのまま思いっきりブレーキを握りしめたその時だった。

 バチンという何かが弾ける音と共に、僕の握ったブレーキはなんの抵抗も示さずにハンドルにぴたりとくっついた。


 ――え?


 焦った僕は何度も何度もブレーキを握ってみるが、その度にスカスカとハンドルにくっついてしまう。


 ――やばいやばい! ブレーキが壊れた!


 そんなことをしているうちに、目の前に白いガードレールが迫ってくる。ガードレールの向こう側は切り立った崖だ。自転車の速度は恐ろしく早いのに、体感の速度は恐ろしく遅かった。徐々に迫ってくるガードレールを認識しながら、妙に冷静な頭で思ったことは「あ、死んだ」とか「母さんの言う通り気をつけておけばよかった」とか「カメ吉のエサどうしよう」とか、なんだか緊張感の無いものばかりだった。


 そのまま思いっきりガードレールにぶつかった僕は、飛び込みの選手くらいの回転をかましながら、崖の上へと放り出された。

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