⑧18億キロジュールの信仰心

「アリーにとって、私は大事なものじゃないんだ」



 イヴはアリアナの両肩を掴みながら言う。


 セーターの袖から、つる草が伸びる。

 ゆらゆらとアリアナの体を這っていく。


 アリアナはイヴの瞳だけを捉えていた。。


 川辺には誰もいない。

 川と言うより海に近い巨大さを誇るセントローレンス川の風を浴びながら、2人は至近距離で見詰め合う。


「発電所で、私はアリーの役に立たなかった? 私が何かしなくても、アリーはひとりで出来てたの?」


 イヴは問う。


「それとも、エネルギーをあなたから貰わないと何も出来ない私は、あなたにはなんの価値もないの?」


 声に含まれる熱気と湿気。


 冷涼なる川風でさえ鎮めることの出来ない情念の重みが、イヴを支配する。


「教えて、アリー」


 イヴはアリアナの胸にその顔を埋めた。

 肉の薄い胸元へ額を押し付け、不安定に揺れる声を染み込ませる。


「私はアリーに連れてってもらって、ここまで来れた。アリーが私を欲しがってくれたから。私のキギが力を持ってたから。だからアリーは私に力をくれた」


 イヴは強く強くアリアナを掴む。爪が食い込むほど。

 つる草がイヴの震えに呼応して妖しく揺らめき、アリアナの体のいたるところにゆるく巻き付く。

 その茎から伝わる微細な鼓動が、アリアナを包む。


 アリアナは抵抗しない。


 イヴは泣きそうな声で言う。




「私の価値は、あなたなの」




「………イヴ、それはダメだ」



 その言葉を耳にして、イヴははっと顔を上げた。


 今まで聞いたこともないほど、アリアナの声が優しかったから。


 アリアナは眉根を寄せ、唇を噛み締めながら、首を横に振る。


「その考え方は、やっちゃダメだぜ。そんな考え方して死んだやつを、ひとり知ってる」

「だれ?」

「奥様」


 アリアナはゆっくりと、イヴの両手首を掴む。

 壊れ物を扱うような繊細な手付き。

 イヴはその力加減に息を呑んだ。顔を離す。つる草が止まる。


「奥様は、先生に愛されてることが自分の価値だって言ってやがった」


アリアナはイヴの手を掴む。

 掴んだイヴの両手を、自分の胸の前に集めた。


 イヴの両手を自分の手で包み込む。


「けど先生は、奥様以外も好きだった。愛してた。ボビーも愛してたし、私のことも。私達以外の連中も」


 アリアナは首を振る。


「先生にとって、好きになったり愛したりすることは、なんてことねえことだったんだよ」


 だから、とアリアナは言う。


「だから、奥様は自殺した」


「………」


「奥様は自分の価値を、先生の愛の人数で計っちまった。数が少ないほど価値があるし多ければ値崩れする。先生の出会う人間次第でいくらでも浮き沈みする、そんな相場に」

「アリーは違うの?」

「私には、親父の教えがある」

「何?」

「永劫不変の尺度を頼れ」


 アリアナは笑う。

 歯茎をむき出しにして。


「この星が生まれたときも滅びるときも、1ジュールは1ジュールだ」

「……なんの話?」

「エネルギーの話さ。カロリーでもワットでもいい。人間どもの体は15万キロカロリー。約60万キロジュールだ。必要エネルギーもせいぜい100ワット」


 イヴの問いかけに応え、アリアナは天上を仰ぎ見た。


「それに比べて私は50万キロワットアワー、18億キロジュールを手に入れた。人間文明が崩壊しようが恐竜時代に行こうが、私の力は何ひとつ変わりゃしない」

「それが、エネルギーを食べ続ける理由?」

「私の価値は物理法則が保証する」

「でも、誰もあなたがそのエネルギーを持ってることを知らないよ」


 イヴは訊く。


「どんなに燃料を持ってても、火を入れてないガソリンはただのくさい液体だよ? 誰があなたのエネルギーを測るの?」

「私の最大出力を見る奴はいる」

「だれ?」

「――――キングスポートの神」


 アリアナの瞳が燃える。


「神が私を測る。火の入った私を。私の火を。

 一族のどいつだろうが、一族以外のどんな生き物だろうが、あの神の前で私以上の力を見せつけることは出来ない。神は私を記録する。神のスコアボードには私の名前がある。歴代1位の座に。永遠に」


その声は震えていた。

 溢れ出る感情。先ほどのイヴにも負けない温度と湿度で。

 アリアナの体から放たれる波動が、つる草を熱す。つる草はゆるみ、退く。


 魂魄の燃焼。

 アリアナは唱える。


「それが私の願い。その願いのための神」



 信仰告白。




「私のための神がいる。キングスポートに。クリスマスに。私の神が降臨する」






仰ぐアリアナ。

 イヴは俯く。


「……私は神様になんか興味ない」


 こぼす。


「私が興味あるのは、あなただけ。アリーと一緒にいたい」

「来ればいい。キングスポートに。錦を飾って凱旋できるぜ」

「あの街は嫌い」


 イヴ、顔を上げる。

 悔しさに口元を歪ませながら。


「答えて、アリー。私は、あなたの何?」

「私を負かした女。それも2度も」


 天からイヴへ視線を下げ、アリアナは微笑む。

 その優しい声が、イヴの心を苛んだ。つらい。


「私の18億キロジュールは、お前のおかげで出来た。お前はすごいよ。お前のすごさに、私がいるいないなんて関係ねえ」

「……答えになってないよ、アリアナ」


 優しい声を聞きたくない。

 聞かん坊をあやすような、まるで大人のようなアリアナの声など。


 イヴが懇願する。


「あなたの何かに、私はなりたいよ」


 アリアナは額を、イヴのそれに触れさせる。


「イヴ」


 囁くアリアナ。

 イヴの両手を強く包む。


「この旅は、楽しかった」


「―――――………」



 イヴ、アリアナの手を振り払う。




 そしてそのまま、アリアナの頬を殴り飛ばした。



 泣きながら。




「……イヴ」


 アリアナは防御も回避もしない。ただ殴られた。異色の瞳はやはり優しかった。


 イヴは目を瞑ってそれを遮断する。唸り声を上げながら。見たくないから。

 つる草が全て袖口にしまわれる。


 イヴは振り返り、駆け出した。道を抜けて街へ戻る。

 アリアナから離れたかった。



 アリアナは阻まず、川辺にいた。








*******



 ぐるぐるとしたものがイヴの脳髄を焦がす。心臓がわななく。


「………」


 目元の灼熱を手で擦る。赤く腫れた。白い顔にそれを目立たせながら、イヴはハンバーガーショップへ歩く。


「………」


 イヴは自分の中で暴れ回る心の名前を知らなかった。

 初めて感じる、嵐のような暴虐の循環。

 故郷では決して得られなかった感情。


 それに初めて名前をつける。


「………くやしい」


 アリアナはエネルギーが全てだった。

 そこにイヴはいない。

 18億キロジュールに敵わないから。



「くやしい」




 重く呟き、イヴは気付けばハンバーガーショップの通りを挟んだ対面まで進んでいた。

 1車線の道路の向こうに、先ほどまで4人で食べていたハンバーガーショップ。



 その店の前に、2人の男がいた。


 ロバートとワーズワースだ。


 2人はイヴに気付いていない。


「……ロビン?」


 イヴは目を丸くする。



 ………ロバートがワーズワースの襟に掴み掛かっていた。



 激昂したロバート。イヴが見たこともないほど。


 ワーズワースは憐れみと慈しみに充ちた相貌でロバートを見詰め、そして首を横に振る。


 ロバートは息を呑む。蒼白の表情。歯が震えて鳴っている。


 小刻みに揺れるロバートの腕を、ワーズワースがそっと振りほどく。



「私はアーカムに帰るよ」


 ロバートに告げた。


「君に会えて良かった」

「僕は……この旅を後悔しています」

「君は天に行かないだろう?」

「人の世界にも棲めない」

「そんなことはない」

「少なくても、もう、先生のところには棲めない」

「………そうなるな」


 ワーズワースは寂しそうに、一切の虚飾なく頷く。


「私はアーカムにいるよ。変わらず」

「僕はどこにも行けない」

「私からすれば自由に見えるが」

「先生は一族じゃない。先生には分からない」

「……そうかもしれない」


 ワーズワースは微笑む。

 これ以上ないほどの優しさと愛情を込めて。



「さようなら、ロバート。またどこかで会おう」



 そう言って、彼はロバートに背中を見せた。駐車場へ向かう。

 振り返らない。

 ロバートは俯く。

 握り拳を作って。


 その拳が、震えている。


「………」


 拳の震えはどんどん強くなっていく。

 そしてワーズワースがクライスラーに乗ったとき、最高潮に達した。


 ロバートが顔を上げる。


 憎悪に満ちた眼差しで。





 ――――ロバートの襟首から、触腕が伸びた。






「!」


 内臓めいた触腕は禍々しいほどの速度でワーズワースのセダンに殺到。


 イヴは驚きながらも手を彼らへ伸ばす。


 袖口から鞭のようにつる草が放たれ、ロバートの触腕を叩き落とす。



 木の根と内臓を合成したような触腕は弾き飛ばされながらも粘液をばらまく。ハンバーガーショップの壁や道路が溶解。異臭が立ち上る。


「ロビン!」


 イヴは道路を挟んで呼びかけるが、ロバートは応じない。光りのない瞳をワーズワースにのみ注いでいる。


 イヴに呼応したのは触腕と、触手だった。ロバートの肩口から新たに生えた、ウミユリめいた触手群。


 びっしりと羽枝を生やした触手達がイヴへ襲い掛かる。


「キギ!」


 つる草が素早く枝分かれ。先端に黒い突起を伸ばし、刀剣のように鋭く煌めく。


 黒い白刃が翻る。


 キギを掴み取ろうとした触手は容易に切断され、溶かそうと群がってきた内臓じみた触腕も溶解液ごと斬り飛ばされた。

 切り落とされた部分を痛みも驚きもなく修復し、再び挑み掛かる触手達。

 それを黒刃が悉く叩き斬る。


 剣撃の俊敏さはロバートの触手を圧倒した。



 昨夜の情事で、アリアナはイヴに欲情するまま大量のエネルギーを注ぎ込んでいた。

 初めてアリアナに会った夜を凌駕するエネルギー量。

 対してロバートの力は一族でも標準的なものだった。


 一族の人間が数人がかりでも敵わないアリアナ、そのアリアナさえ圧するキギをロバートで突破することなど不可能だった。



 だが、その暴力的能力差を目の前にしても、ロバート自身は触手達の激突を見ていなかった。



 ロバートは、ワーズワースしか見ていなかった。



「………」


 車に乗り込んだワーズワースは、車内から一族達の戦いをわずかに眺めていた。ひどく哀しい顔で。


 そして、ワーズワースのセダンは発車する。

 躊躇わない鮮やかなステアリング捌きで、街道をそのまま西に進む。ロバート達に背を向ける形で。


 そのクライスラーへ触手を伸ばすロバート。


 キギがそれを斬り払う。




 セダンがあっという間に遠くへ去った。



「………あ」



 ロバートは、そこで我に返る。


 夢から醒めたような貌。


 触手と触腕が体内に引いていく。

 ロバートは青ざめた顔をイヴへ向ける。


「ロビン……」


 イヴはキギを収納しながら、道路を渡ってロバートのもとへ近寄る。

 げっそりと生気をなくしたロバートが彼女を見やる。


「ふられちゃった」


 笑うロバート。


 痛々しいほどの哀憐で出来た表情に、イヴは思わず彼を抱きしめた。


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