緋色の夢を見る

青月クロエ

第1話 序

 闇に包まれた空が緋色に染められてゆく。曙よりも濃く、落陽よりも昏く。

 緋色の空高く昇る黒煙目指し、急ぎ駆ける。真夜中の人ひとりいない街道を、深い樹々に覆われる山道を。急げ急げと手綱を引き、馬を鞭打ち、鐙で蹴りつける。

 降り出した小雨が頬を、鼻先を湿らせる。どうせなら嵐がやってくればいいのに。

 緋色の空も、炎上する城も――、否、煙の方向から察するに燃えているのは離れの御台御殿、か。


 聡い其方には全てお見通しだったのか。

 南条家からの鷹狩りの誘いなど密談の口実に過ぎないと。


 雨の勢いは強まるどころか、すぐに止んでしまった。

 その頃にはもう木橋が目前に迫り、緋色は更に空へ広がっていた。闇に舞う火の粉が肉眼で確認できるまで近づくにつれ、炎上しているのはやはり御台御殿だけなのも確認、できた。

 門の内で逃げ惑う者、必死に消火にあたる者の悲鳴、怒声、叫びが飛び交う様子が遠くの出来事のように思えてならない。思いたかったのかもしれない。


 木橋を渡る直前で馬を止める。素早く馬から降りれば、見計らったかのように老臣達が駆けつける。


「殿っ!」

「何故、御台御殿が燃えている?!」


 努めて平静を装い、問いかける。声の震えは完全に抑えられなかったが。

 彼らは湿った地面に跪き、無言で白い頭を垂れるばかり。


「答えよ」

「…………」

「答えよと申しておる!」

「……奥方様自ら、火を放ったのです」

「炎の中へ飛び込み、救出を試みた者もいたのですが……」

「……続けてくれ」

「懐剣で喉を掻き切った後で手遅れだったと……」

「そう……、か」


 近い将来、其方の父と敵対するであろうことは確かだった。

 其方を間者と疑う者も、開戦の前に離縁し、国元へ送り返せと進言する者も大勢いた。

 だからといって――


「何も、自害することは……」


 老臣達にも聞き取れぬ、小さく掠れた声で呻く。最後の方は声にすらならなかった。

 最後の最後に呼んだ『杜緋とあけ』という名も。






 夜空に緋色が徐々に空けていく。

 幸いにも御台御殿以外は火事による損傷はなかった、らしい。

 幸いにも??どこが幸いだという。

 少なくとも、僕にとっては――、僕??






「……しおくん、八塩くん!起きたまえっ」


 磁石を合わせたようにくっついて離れない瞼を無理矢理引き剥がす。ぼやけた視界に映るのは小高い山の中の小さな城館、じゃない。

 しけ臭い畳、ひび割れた壁、使われた形跡のない土間、書き散らした原稿用紙が散乱する文机、今にも机上から転がり落ちそうな万年筆。そう、今の僕が暮らす長屋。直に畳でうたた寝する僕を叩き起こしたのは十年来の文筆仲間、多和田だ。

 頭から爪先まで洋装でめかしこんだ彼の出で立ちは、さぞかしこの貧乏長屋で目を引いたに違いない。


 よっこらしょっと起き上がり、胡坐をかく。着古した長着に手を突っ込んで腹をぼりぼり掻けば、多和田は露骨に顔を顰めた。ずり落ちかけた銀縁の眼鏡越しでもよく分かる。


「君ねぇ。鍵もかけずにぐうぐうと寝こけて。不用心にも程がありすぎる」

「盗る物なんて何一つないんだ。別に問題ないさ」

「原稿でも盗られたらどうするんだ」

「はぁ、原稿ねぇ。盗んで出版社に送ったところでまぁ、何の結果も得られないと思うよ」


 あっちこちとぴんぴんはねた前髪を弄り、多和田の説教を聞き流す。


「僕の小説は『武将布島明昌と茜』以外は全部駄作、塵以下なんだ。君みたいに男女の機微を繊細に描いた現代の戀愛小説から摩訶不思議な幻想小説まで何でも面白く書ける奴になどわかるものか」

「確かに俺は昔から小器用な質だ。小説でも女でも他の事でも。残念ながら、君とは芯から種類の違う人間なのだよ。俺と同じ道を通そうと思う方が間違ってるのさ」


 ただの僻み、八つ当たりすらも彼は柳に風とさらり受け流してしまう。

 喧嘩にすら発展しない。そこがまた悔しく僕を惨めにさせる。

 彼は煽ることで僕を奮起させようとするが、若い頃――、処女作を発表した二十代であれば奮起していた。だが、凋落し始めた人気を取り戻せずにいる僕には焼け石に水でしかない。


「まぁ、そう気落ちしなさんな。こんな狭苦しい部屋にずっと閉じこもっていたら、そりゃあ気も滅入ってくる。たまには気晴らしに出掛けないか??」

「吉原にはいかない。金もなければ白粉臭いのが苦手だ。カフェーも女給に嫌われると『嫌な客番付』に名を書かれてしまうのが嫌だ」

「我が儘だなぁ。君を連れていける場所なんてないじゃないか」

「何故、婦女子関係の場所限定なんだ……」

「婦女子が傍にいる方が気分が華やぐじゃないか」


 堂々たる態度がいっそ清々しい。


「あぁ、もういいよ。君と話していると気が抜けてくる。起きたついでに銭湯に行くし、もう帰れ」

「つれないなぁ」

「言ってろ」


 埃の被った箪笥から擦り切れた手ぬぐいを引っ張り出す。


 女、か――。




『殿、しっかりなさいませ』


 耳の奥で、女にしては低めの、涼やかで凛とした声が聞こえた、気がした。

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