コールドスリープで眠っていたら高校生の僕はうっかり寝坊して600年後の未来に来たようです
まさな
プロローグ 変貌した世界
――きっと僕は、それまで死んでいたのだと思う。
元々このテクノロジーは、
それは、現代の医療では治せない不治の病に用いるというものだ。
現代では治せなくても、医療技術が発展した未来なら治せるようになる。
そのような患者を未来の医者に
このようなコールドスリープによる治療法を『クライオニクス』と呼ぶ。
だが、コールドスリープ技術を実現する上では二つの難問があった。
その一つは、水は凍らせると体積が増えてしまうという点だ。
人間を凍らせる際には、体積の膨張によって細胞膜が破壊されてしまう。低温によりタンパク質や脂肪は分子構造が壊れ化学的にも変化する。この『凍結挙動問題』を解決しなければならなかった。そうしなければ病状はかえって悪化してしまったり重い後遺症が残ったり、最悪の場合は死に至る。
二つ目の問題は、急激な温度変化に人間の体が適応できないという点だ。
あなたも動画などで見た事があるかもしれないが、凍った後でもすぐに泳ぎ回る金魚は温度変化に強い『変温動物』である。
一方、体温が一定な『恒常動物』の人間はそうはいかない。零度以下になると人間の血管は体温を維持しようとして毛細血管が収縮してしまい、血液が巡らなくなって酸欠や栄養不足により細胞が死んでしまうのだ。つまりは、『凍傷』の問題である。
しかし、人類の輝かしい叡智の前には、これらの課題も時間の問題でしかなかった。
血液交換法――
高分子ゲルや乳化剤などの新素材を見つけ出し、凍っても体積が増えず、血管も収縮させない特殊な液体を作り出し、これを保存液として使用することによってすべての問題を解決した。
まずは人間の全身の血液と保存液をそっくり入れ替え、その後に冷凍するという手法である。これなら冷凍も解凍も急速に行える。
これで極めて安全にコールドスリープが可能になり、『
ただし――人類は一つだけ肝心なことを失念していた。
この治療法においては、未来の医療技術が常に進歩し続けなければならないという条件があることを。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
僕がコールドスリープから六百六十年ぶりに目覚めた時、最初に思ったのはそれだった。
激しく咳き込み、口を塞いでいる邪魔な
「ダメだ、押さえろ!」
「はいっ!」
誰かの声が聞こえ、数人がかりで僕の腕は押さえられてしまった。こちらも息をしたいのだから必死にそれを外そうとする。
「落ち着け、この酸素マスクを今外したら、君は酸欠状態で死ぬんだぞ?」
僕の腕を強引に押さえている白衣の男がそう言ったが、いや何かが違う。
これは決して酸素マスクなどではないのだ。
動いている。
ヌルヌルしていて、噛むと暴れて反応する。
どう見たってこれはマスクではなく、何かの生き物だ。
だから恐怖心が真っ先にきて、僕はそれを必死に吐き出そうとした。しかし、がっちりと口にしがみついたその変な生き物はどうやっても外れてくれなかった。
「よし、もういいだろう。輸血を開始しろ」
この様子だと、どうやら彼らは僕を殺すつもりではなさそうだ。口に張り付いた変な生き物も、こちらが噛まない限りは暴れないと分かり、僕もいくらか落ち着きを取り戻した。
そうして十分くらい経っただろうか――。ようやく変な生き物を医者が取り除いてくれた。
銀色のトレーの上に置かれた生き物はまだくねくねと動いている。
その四十センチはあろうかという大きな黒光りした虫の姿に、見ているだけで鳥肌が立つ。
「何なんですか、それは」
上半身を起こした僕は、寝台の脇で輸血パックを交換してくれている医者に聞く。聞かずにはいられない。
「空気虫だ。知らないのか?」
医者がこともなげに答えた。三十代くらいに見える金髪の白人だが、流ちょうな日本語だ。他の二人の男は白衣を着ておらず、濡れた床をモップで掃除していた。この二人は服装からして作業員か看護師なのだろう。
しかし、空気虫とは……。さっき酸素マスクって言ったくせに。
「虫って、知りませんよ、そんなもの。初めて見ました」
「ふうん。君がコールドスリープに入った時代は、もっと良い物を使ってたんだろうな。まあ、生き延びたんだからもう気にするな」
「はあ」
灰色のつなぎを着ている作業員が黒光りする空気虫をひょいと掴むと、どこかへ運んでいった。この手術室――と言うにはなんだか随分とオンボロな感じの部屋で、風呂場によくあるような淡い翡翠色の四角いタイルが使われており、ここを囲んだ壁の下半分が覆われている。
僕はその部屋の中央にある寝台に載せられていた。
……見覚えの無い場所だ。
コールドスリープに入った時の病院とは明らかに違う。僕が入院した病院はもっとハイテクな感じだったのに。
寝台のすぐ脇には僕が入っていた卵形のコールドスリープ装置がある。これには見覚えがあった。
いや、このコールドスリープ装置の形状には見覚えがあるのだが、ガラス部分の周りが酷く土色に汚れていて、全体的にもなんだか汚い。前はもっと真っ白で綺麗だったはずだが、この装置は灰色にくすんで見える。傷もあちこちについていて、なるほど、それだけ長く僕は眠っていたということなのだろう。僕はその時間についてまず聞くことにする。
「今は西暦何年なんですか?」
「西暦? ああ、旧暦のことか。今は大陸歴と言うんだよ。大陸歴237年8月10日だ。君が眠りについたのが、ええと……」
医者がコールドスリープ装置のプレートを手でこすって年数を確かめようとした。プレートの刻印も頑固にこびりついた埃で汚れており、判別は難しそうだ。だが、僕の記憶は確かなので問題はない。
「西暦2082年です」
「そうか。なら西暦に換算すると……そうだなあ、ざっと六百年前、いや、君から見れば六百年後だ」
「六百年? そんなに……」
コールドスリープに入る前に受けた説明で、どれだけ年月が進むかは分からないから覚悟しておくようにとは言われたが、まさかそんなに遠い未来へ進むとは思っていなかった。両親に会えなくなるのは分かっていたけれど、これでは僕の親戚も見つけるのは難しいかもしれない。
友人も、家族も、クラスメイトもいない世界――
僕はこんな未来に、たった一人で放り出されていた。
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