双流激突 3

 閉じた視界、暗闇に浸っている。

 腹の奥が未だにずきずきと痛む。さすろうとして手に違和感を覚えた。腕が前に回せない。どうやら後ろで繋がれているらしい。

 自分はどこにいるのだろうか。確認しようと藍凪は目を開いた。


「あ、起きたぁ? おはよぉ」

「ひっ!」


 開いた視界のすぐそこ、男のきらきらとした不気味な目が近くから覗いていて、心底恐怖を覚えた。


「オイラ、モウタっていうんだ。よかったらお友達になろうよぉ」


 太った坊主頭の男。モウタは藍凪と目線を合わせるように屈んで覗き込んでいる。一見して純粋な仕草と、醜悪な体つきとの乖離かいりが、余計に嫌悪を抱かせた。


「は、離れてよ」

「ええぇー、どうして?」


 藍凪の言葉に逆らうかのようにモウタはずいと顔を近づける。


「もっと仲良くなりたいんだよぉ。女の子はみんなオイラを遠ざけるんだ。ひどいよねぇ」

「誰だって好きでもないヒトに近づかれて、平気でいられるわけない!」

「そんなぁ。オイラは君のこと、好きなんだけどなぁ。お人形さんみたいで可愛いし」

「ここどこ!? ティーネは!?」


 藍凪の必死な叫びに、モウタは傷ついたように肩を落とした。そして身を震わせる。


「女の子はみんなそうだ。オイラを無視するんだ。ちょっと近づいて声をかけただけなのに。だから、しょうがないから、可哀そうだけど手を引っ張って誰にも見つからない遊び場所に連れて行かなくちゃいけないんだよぉ。声を上げられると邪魔者が来ちゃうからね」


 この男は、密漁だけでは飽き足らず、誘拐のような真似までしているのか。金を得るという目的すらなく、ただ娯楽のために、街に暮らす少女をさらっているというのか。


「でも、ここなら誰も来ないし、君は動けないでしょぉ? だったらいくら触っても平気だよねぇ」


 モウタの手が藍凪の肩へと触れた。丸い肉塊にソーセージをくっつけたような手は、藍凪の細い腕など簡単にへし折ってしまえるのだろう。故意にそうせずとも、幼い子供が人形遊びの最中に、人形の四肢をもぎ取ってしまうように。

 それを思うと、恐怖が身体を這い上った。


「やだ! やめて! 離して!」


 藍凪は太い手から逃れるようにして身をよじった。あまりにも意味のない抵抗は、身体を這い回る不快感を消すためのものでしかなかった。

 抵抗し、対抗する。そうしている限りは、諦めて屈するということはない。

 モウタの顔が急激に迫ってきた。咄嗟の反応ができず、顔が硬直した。彼の顔は藍凪の横を通り過ぎ、背後の岩へとこすりつけられる。正しくは、そこへ広がるエメラルドブルーの髪の毛へ。


「むっはあぁー。なんだろう、不思議な匂いだぁ」


 感覚のない髪の先から確かに伝わる不快、不潔。

 他人の心を省みない者は獣だ。この身を獣に荒らされる屈辱には、怒りというよりどうしてという疑問が湧く。


 どうして、こんな目に。

 こんなはずではなかった。水槽のような現実から抜け出して新たに降り立ったこの世界で、望んでいたのは胸の躍る冒険で、決してこんな風に体を蹂躙されることではない。

 溺れるような苦しさはもうたくさんだった。


「おいモウタ。そこまでにしとけ」


 髪の毛に夢中になっていたモウタが大人しくなって体を引く。意外にも藍凪を苦しさから救ったのはラペルの声だった。


「あんまりやるとお前は壊しちまう。返す時に手足の一本がなくなってたんじゃあ、公正な取引にならねえだろうが」

「だ、だって兄貴ぃ」

「――あぁ? 俺の決定に口答えするってぇのか? そう言ってんだな、モウタ?」


 ラペルの鋭い目の奥に、殺意の光が一閃。それを以ってモウタは射すくめられ、沈黙する。巨大な獣が危機を直感し、より強大な存在へ許しを乞うかのようだった。

 これではっきりした。二人の間でラペルは絶対的に格上で、モウタは頭が上がらない。


「……あ、あの。取引ってどういうこと?」


 藍凪自身もラペルの眼光に怯えたが、おずおずと聞いた。


「ああ、遅いお目覚めだな。弱っちい方の妹」


 妹……自分のことだろうか。藍凪は思案する。

 二人の少女が並んでいて、そこに似たような身体的特徴があったなら、なるほど姉妹に見えてもおかしくはない。

 しかし藍凪とティーネとの間に似た特徴があるとは思えない。体つきや顔、極め付けは髪の色が全く違うではないか。それもそのはず、二人の出自は世界をまたぐ。

 十中八九、適当を言っただけなのだろうな、というところで結論。そしてやはりと言うべきか、妹に見られるのは自分の方なんだな、と。

 一度だけ「おねーさん」と呼ばれたあの瞬間が懐かしい。


「安心しろよ。もうすぐ怖い方の姉ちゃんが迎えにやってくるはずだぜ」


 周囲は先ほどまでいた部屋とは明らかに異なる洞窟だ。広い空洞に鉱石がぽつぽつと光って空間を照らしている。

 至るところには石灰質の柱が乱立している。藍凪はこれと同じような光景を地上で見たことがあった。旅行先で見学したこのような場所は、確か鍾乳洞と呼ばれていた。


「お前の身柄と交換するための金と足を用意してな。その二つさえ手に入るなら、お前にもこの街にも用はねえさ」

「ウィルディから出ていくってこと?」

「そうだ」


 ラペルとモウタが街から出ていくということは、ウィルディへサーペントの卵が持ち込まれることがなくなるということだ。それはすなわち、曲がりなりにも街を脅かす問題の解決を意味する。結末としては、そうではあるが――。

 最善とは程遠い解決法だ。

 金をみすみす持ち去られるばかりでなく、別の場所での犯行を許すことになってしまう。怪物を別の街へ招き入れ、彼らの行為の代償を支払わされる。部屋での彼らの口ぶりからして、これまでも同じようなことが繰り返されてきたのだろう。


 それに、彼らからは聞き出すべきことがあるのだ。


 藍凪が連れ去られてしまったばかりに。結局はティーネの足手まといになり、後始末をさせることになった。これが現実。自分にも何かできると、思い上がっていたのだ。


「できれば急ぎたいんだがな。夜に移動するのは危険だし、それにこの場所――」


 そこでラペルは藍凪の方を見てニヤッとした笑みを浮かべた。


「なあ、知ってるか? この鍾乳洞に棲んでいる生き物のこと。仕事のために入り浸っていたが、もうあらかた取り尽くしたから教えてやるよ。――ここはホウカイトっていうサーペントが巣にしている洞窟だ」


 サーペントの巣! かつて追いかけられたあの恐ろしい生物の、棲家。


「けど安心しろよ。やつらはここにはいない。普段なら危険極まりない場所だが、今は家を空けているらしい。その間はこうして巣に入ろうが、卵を盗もうが、何でもし放題ってこった。……やつらは今、ある生き物を追って、この海域中を泳ぎ回っている」


 本当にもうこの辺りで活動する気がないのか、ラペルは犯行の手段を得意げに語る。

 けれど、やはり分からない。ティーネに糾弾された彼が言ったこと。本当に海域の混乱とは無関係なのか。

 街へのサーペントの進攻がラペルたちの手引きによることは間違いない。

 だがそれは、さらに大きな異常に乗じただけのことなのか。彼らの犯行は、謎に包まれたニルの出現や、サーペントが縄張りを離れて活動することそれ自体の、原因にはならないと。


 サーペントはある生き物を追っている、とラペルは言った。どちらにせよ、彼が事態を把握していることは間違いない。


「教えてよ。知ってること全部。ティーネが困ってるんだ」

「ハッ、やなこった」

「教えてよ」

「……生意気な眼をするやつは嫌いだ。気に入らねえ……自分の立場をわきまえろよ、小娘」


 しゃがみ込んで、藍凪の眼前で威圧するラペル。藍凪は負けじと睨み返す。

 彼は舌打ちし、藍凪の頬を手の甲で殴りつけた。

 痛かった。涙がにじんだ……。


「あんまりイライラさせんな。へし折りたくなっちまうだろ」


 黒い皮手袋が首に貼りつき、そのまま絞めようとする。


 助けて。助けて。

 誰か。


「アイナから離れなさいっ!」


 怒りに満ちた大きな声。

 上を向くと、桃色の髪の女の子が、息荒くしてそこにいた。

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