砂上に落とす影 2

 ウィルディの街から見た岩の山脈は、いま朝の陽射しを背景に巨大な影となって立ちはだかっている。街を取り囲むそれが、危険な生物を妨げる防壁の役割を果たしているのだという。

 その山の麓に案内役のシャーハンが待っていた。藍凪たちと合流を果たすと、彼はバッグの中から小さな棒状の道具を取り出した。

 片側のさやらしき部分を持って引き抜くと、姿を現わしたのは刃。


「潮流器官を起動すれば刃に電気が流れる、その名も電気クラゲナイフ!……なんだが、マナの操作ができないお前にはただのナイフダ。まあ、何も持ってないよりはマシだロ」


 小さなナイフを革のベルトと一緒に受け取り腰に装着する。ちょっとだけ恰好がついたかな、と僅かに胸を張り上げた。

 藍凪が身に着けている服はブレザーの制服ではない。なんでも服に染みついた妙な匂いが生物を引き寄せかねないらしい。いま着ているものは、ティーネが衣装入れから引っ張り出した、数年前の衣服だ。

 貝絹シーシルクで編まれた肌触りの良いインナーと袖のない羽織り、それにスカート。その下には鮫皮のショートパンツを履いている。

 腕は肩まで出して、足は太ももを露出している。街の住人もそうだが、全体的に露出の多い衣装なのは、潮流を操る上で肌が外気に触れる必要があるからだという。街ではビキニ水着のようなヒトも見かけたので、これでも着込んだ方なのだろう。

 腰にナイフを装着し、ちょっとした冒険家の気分だった。


「カッコいいからって無闇に振り回すなヨ」


 シャーハンの言葉に頷く。そして三人はオクトノウトの研究所を目指した。

 自然の防壁たる山脈の険しい岩肌も、ほとんどの生物が宙を移動する海中においては目隠し程度にしかならない。地上であれば登攀とうはんに困難を極めるだろう山道は、ここでは眼下に見下ろすばかり。

 泳ぐシャーハンに掴まった藍凪もそれを容易く乗り越え、現在は外へと向かっていた。


「あいつは性格は真っ当だが、妙なところで偏屈なんダ。研究にしたって街の中でやればいいのに、珍しい潮流パターンを持つサンプルが多いからって、わざわざ危険な海域に拠点を構えるんだゼ」


 シャーハンは大きな口をがくがく動かして説明する。


「研究者らしいですね。シャーハンさんとは旧知の仲と聞きました」


 後ろから追うティーネが声を投げかける。人と同じ姿である彼女もまた、シャーハンと――海中生物と同じように宙を泳いでいるのだった。

 彼女の質問にシャーハンは「あア」と肯定する。


「ウィルディで技師をやろうって時、どうしても潮流器官について知らなくちゃならなかっタ。潮流器官は繊細で、中に通す源の青しおみずの量を少しでも間違えば、すぐ壊れちまウ。それじゃあ武器や道具に加工しようがなイ」


 潮流器官は生物が潮流術を引き起こすために用いる器官。それを加工するのがシャーハンの仕事だ。


「そんなこと、潮流技師を始める前に勉強しとけってハナシなんだけどナ!」

「若気の至りってやつ?」


 まだ若い藍凪が生意気に言う。後ろでティーネは顔をしかめたが、シャーハンは口の隙間からおかしそうな息を漏らして、「だナ!」と言った。


「そんで困ってたところで、オクトノウトと出会ったんダ。いろいろ教えてもらって、やっと初めてモノを完成させタ」

「知りませんでした」


 ティーネは背中に下げた銃を愛おしそうに撫でた。〈一条明星ファーストスター〉と呼んでいたその銃も、シャーハンとオクトノウトの試行錯誤の末に造りだされた作品の一つ。


「あの頃は、ミナトさんとムーナもいたんだったナ」

「それ誰?」


 背中の藍凪が問う。シャーハンはわずかに目を眇めた。


「あいつの家族だヨ」


 彼の話によると、オクトノウトには妻と娘がいた・・ということだった。




 岩山の向こう、藍凪がシャーハンと出会った場所とは逆の南西方向には、色とりどりのサンゴが群生している。

 小さな宝石箱のような地帯を越えてさらに行くと、様相は一転して地味な色合いの岩肌が姿を見せはじめた。

 縦方向の境、深度によって環境が変わる海の中で、そこは中層メソウと呼ばれる層の最も深い部分。海面から一千メートルの地点だ。崖から下の暗いみぞからは、漸深層バシアルというさらなる深みへと通じる。


「…………」


 その暗い淵を覗き込んでも、ほとんど何も見えない。藍凪が目視できる深さの限界はここまでのようだ。

 海の中も深度一千メートルを越えると、地上からの太陽光も届かず潰えてしまう。これより下に生息する生物には、視力ではない別の感覚を頼りに生きるものも多い。


「あんまり身を乗り出すと危ないですよ。あなたは泳げもしないんだから」

「……うん、大丈夫だよ」


 そのあまりにも高く急峻な崖に、似た景色を思い出す。色合いや光の具合はここまで絶望を感じさせるものではなかったが、藍凪にとっての意味は同じだ。


 ふいと足を踏み出せば、一瞬。


 藍凪に注意を与えたティーネは、立ちすくんでいる彼女に怪訝な表情を向ける。


「言っておくけど、今のはあなたを貶したんじゃないです。大人になってもマナの知覚ができずに泳げないヒトなんていくらでもいるし、あなたがそうでもおかしくはないのだし……」

「……なーにぃー? あたふたしちゃって。もしかして、ボクが傷ついたと思った?」


 ティーネが少しでも思いやってくれたからだろうか。学校の屋上から見た暗澹あんたんとした情景は吹き飛んだ。

 今は、無関係だ。

 おどけた返事をされたティーネは、大体の予想通り、機嫌を悪くして顔を背けるのだった。


「あなたをちょっとでも心配すると馬鹿を見る。これからは肝に命じることにします」

「あはは」


 深淵に背を向け、別の景色を目に映す。この海域の特徴はなにも巨大な溝ばかりではない。

 地面から盛り上がる突起があちらこちらにあった。磁鉄鉱で形成された小さな火山。火口のように見える先端からはマグマの代わりに高温の泡が噴き出している。熱水噴出孔だ。

 さらにその周囲には、他で見かけるものとは一味違う生物の群れが居心地良さそうに居座っているのだった。

 びっしりと煙突チムニーに張り付いているのは、白色に脱色されたカニや平べったい瓜の形の貝。さらに煙突と煙突の隙間を埋めるように、地面から触手のような生物が無数に生えている。

 触手のようなチューブワームは、これまでの経験の外側にある存在で、見た目の奇怪さに嫌悪を煽られる。藍凪は口もとを強張らせた。

 シャーハンはというと、彼は宙に浮いてチューブワームの上を泳ぎ回っている。彼だけが知る、オクトノウトの研究所となっている洞窟の入り口を探しているのだ。


「この辺りのはずなんだがなァ」


 彼の口から漏れるぼやきが源の青しおみずを伝って聞こえた。水と同じく源の青もよく音を伝える。小さな呟きも、離れている藍凪の耳まで届いてしまう。

 遠くの音は、そう――

 それが生物の叫び声であれば、なおさらはっきり届いてくるのだ。


「……今、何か」


 初めに異変を感じ取ったのはティーネ。次いでシャーハンが同じ方向へ鋭く目を配る。慣れた二人は素早く泳いで行ってしまう。


「え、なに? どうしたっていうのさ!」

「あなたはここで待っていてください。すぐに戻ります」


 ティーネが滑らかに宙を蹴りつけるのを見送りつつ、しかしそのままで居る訳にもいかないと、その足の先を追う。

 距離は遠くない。だから程なくして藍凪にも、ヒトの悲鳴が聞こえた。追い詰められ、切羽詰まった声だ。次には空気を震わす衝撃の音。ティーネが銃を撃ったらしい。

 遅れて追いついた藍凪は、岩に乗り出して状況を見る。

 そこには崖を背にして白衣の男が一人、それを守るように陣取るシャーハンとティーネ、そして三人を取り囲むサメの群れ。藍凪の背丈よりも小さいサメは鼻を衝くような血の臭いを口まわりに漂わせている。


「おイ! どうしてこんなことになった、オクトノウト!」


 シャーハンは銛で、ティーネは銃で応戦中だ。凶暴なサメの突進を、しかしうまくいなしている。


「ダンガンザメ……潮流器官によってマナの流れを滞留、そして解放することで、瞬間的な推進力を得る。潮操種ちょうそうしゅの中でも随一の突進力だ。海の鉄砲玉とも言われているね」


 白衣の男が生物図鑑をそのまま読み上げたような解説をした。この状況に、あまりにも悠長すぎる。


「ご説明ありがとうございます! ですが、できればあとでお聞かせ願いたいものです!」

「うっかりヤツらの縄張りに踏み入ったのカ。それともお前、こんなに恨まれるほどの何かをしたんじゃねえだろうナ!」


 シャーハンが背後に守っている男に嫌味っぽく言う。彼にしては珍しい口ぶりだ。その後ろの、やせ細ったシルエットがまさに研究者といった姿の男が、オクトノウトそのヒトのようだ。


「ああ、僕を誰だと思っているんだい。いかにダンガンザメといえど、他の生物と同等に扱うさ。研究者としてね。ただね、やむに已まれぬ事情というのがあってだねぇ……」

「事情ってなんダ」

「いやはや、考え事をしていたらうっかり縄張りに踏み込んでしまった。恥ずかしい話だ」

「本当に恥ずかしいナ!」


 シャーハンが声を張り上げてツッコむ。あまり冗談が言えるような状況には見えないのだけれど。

 しゃがれた声質が老獪ろうかいな印象のオクトノウトだが、シャーハンと対等に話している辺り、彼とはあまり歳が離れていないのかもしれない。シャーハンが何歳かも不明ではあるのだが。


 二人がやり取りをしている間にも、ティーネは黙々とサメを撃ち落としていく。一匹につき漏れなく一発、絶えず泳ぎ回るサメに対して圧倒的な精密さで。

 銃弾が切れてリロードに入ると、すかさずサメが突進を仕掛ける。

 ただ食らいつこうとするばかりではない。サメの周囲の空気がうねったかと思うと、そこから急速の突進を繰り出したのだ。螺旋を巻きながらのそれは、まさに放たれた弾丸。

 しかしそれはティーネに触れることなく制止させられる。シャーハンの長い銛が追突を許さなかった。サメの頭をショートケーキのイチゴのように突き刺す。

 見惚れる連携だった。このままいけば、じきにサメは数を減らし、諦めるだろう。

 だが藍凪は、画面の映像に見入った感覚でそこにいて、自分が身を乗り出し過ぎていたことに気づいていなかった。

 一匹のダンガンザメが藍凪の存在を気取る。そっぽを向いたサメの仕草を、ティーネがいち早く察知した。


「馬鹿! アイナ、逃げなさいっ!」


 銃口の向きを変え、レンズを睨みつけながらティーネが言う。藍凪はやっと体を捻るが、動き出す前にサメの体が放たれた。

 後ろ向きになった藍凪の腕を巨大な弾丸がかすめる。

 ただかすめただけ。けれど螺旋を巻くサメの鱗は、藍凪の腕に触れた瞬間に抉り込み、肉体をズタズタに荒らしていった。


「ふ……うぐぅ!」


 飛び散る鮮血。それは地面に落ちる寸前で潮に溶ける。

 腕の肉がえぐり取られたような痛み。見た目より傷は深い。血の喪失に頭が重くなる。

 後ろから飛んできたダンガンザメは、今は眼前にいる。何とかしなければとナイフの柄を握り込んだ。引き抜こうとする、その時。


 刃に、微かな光が奔った。


 何事かと目を見開いている間、遠方からの赤い流れ星によってサメが沈んだ。ティーネの銃弾だ。

 それを皮切りにサメの群れが狩りを諦めて散っていく。見ればかなり数が減っていた。

 ティーネが駆けてくる。シャーハンも。

 とりあえずは安心だと、藍凪は重い頭を重力に預け、へたり込んだ。

 鞘の隙間から見える刃には、既に光はなかった。

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