砂上に落とす影 1

 目を覚ました藍凪は、そこが自分の部屋でないことに奇妙な感覚を覚えた。

 感覚はじきに体に馴染んでくる。するとここへ来るまでに起きた出来事、この部屋が誰のものであるか、思い出していった。

 灯里はいない。見知った誰も、ここには一人として。

 自分は現実からの逃避行に成功したのだから。

 ワンルームの端にある丸いピンク色のベッドで藍凪は眠っていた。クラゲのような見た目通り、ゼリーに寝そべっている心地がする。

 ひんやりとして気持ちいい。


「起きましたか。おはよう」


 掛けられた声は家の主のもの。このベッドの色と同じような、桃色の髪の持ち主。


「おふぁよう、ティーネ……」


 この世界の住人である少女。歳は十六。自分より一つ上。

 一度は藍凪を泊めることを拒んだティーネだったが、藍凪渾身の説得が彼女の意思を変えた。彼女にとっては未だに不本意だろうが。

 一部始終はこうだ。住む場所がないと訴え、涙ながらに語りかけ、彼女の人間性にまで言及する。話し合いは一方的で、最終的には二択を迫った。


『キミに善良なヒトの血が通っているのなら、どうかボクを泊めてよう。それとも、キミはヒトじゃないっていうの?』


 そこまで言われて容易に切り捨てることは良心が咎めたのだろう。ティーネはぎこちない口調で藍凪の宿泊を承諾した。彼女は立派にヒトだった。

 そして藍凪は学んでしまう。ティーネは、押しにめっぽう弱いのだということを。

 自分の方こそヒトの弱みに付け込む悪魔か何かでは、と問われれば、胸を張って答えられる自信がない。

 けれど、一つしかないベッドを藍凪に明け渡しているのは、ティーネの純粋な優しさだ。そこまでする必要はないというのに。

 本当に困っているヒトを見捨てることはないのだろう。そんな風に藍凪は思う。


「よく眠れたようですね」

「うん。めっちゃ寝た」


 慣れない環境に迷い込み、未知の出来事ばかりを体験して、やはり疲れは溜まっていたのだろう。

 眠りにつく寸前の記憶が曖昧だ。夕食の時からだろうか、意識が夢とうつつを行ったり来たりして、どうにも記憶がおぼつかない。どんな幻めいた現実があり、どんな事実に近い夢があったのか。


「朝食ができています。寝ぼけてないでさっさと来なさい」

「うん……」


 テーブルの上に載った二枚貝の皿から香ばしく匂ってくる。藍凪は匂いに釣られるようにしてベッドを抜け出し、向かい合った椅子の一つに腰掛けた。


「おいしそうだね。料理なんてできるんだ」

「いえ、私が作ったものでは……パンは売っていたものを、スープは隣の家の方からいただきました」


 街中では食べ物を取り扱う店が多く見られた。昨日の昼食で食べた魚の蒸し焼きも、そういえば外から買ってきたのだった。利用者もそれなりに多いのだろう。

 それにしても、この世界ではパンも作れるのか。


「ふうん。じゃあティーネは料理をしないんだ」

「そういうことはありませんが……一人暮らしですから、一応自炊もします」


 自炊、という言葉に、自分の年代にはない生活感が滲み出ている。

 それもそうか。一つしか年が違うといっても、まさしく住む世界が違うのだから。一人の生活は、彼女にとってごく自然なリアルなのだ。

 ティーネが両の手を絡ませて、祈るように目を閉じる。藍凪も同じようにした。それが食前の挨拶だということを昨日知った。

 そのまま静かにパンを手に取るティーネを見て、やはり藍凪も真似する。

 丸く白いパンはもちもちで、噛むとほんのりと甘みが出てくる。自分の知っているパンより柔らかくしっとりとしている気がする。スープは貝類と野菜を煮込み、香草を浮かべたもので、さっぱりとした味わい。


「おいしい。おいしいよ」


 透明なスープをすすりながら言う。感動半分、寝ぼけ半分。


「そんなにですか? いえ、おばさんの料理がおいしいのには同意しますが」

「このパンも、今まで食べたことない食感。すごいもちもち」

「あ、それ私の行きつけの店のパンです。ムギモドキの生地にカンモチの実をすり潰して粉にしたものを水と合わせて練って絶妙な温度で…………いえ、何でもありません」


 パンをちぎって口へ放り込むティーネ。つい饒舌になり過ぎたことの照れ隠しだろうが、藍凪は気づいていない。小さな口をもぐもぐと動かしてパンの風味を味わっている。


「そんなに気に入ったのなら、また同じものを買ってきます」

「うーん、パンもいいけど、どうせならティーネの作った料理が食べたいかなぁ」

「それは駄目」


 あまりにシンプルな拒否。まだ自分が嫌われているせいかと思ったが、そうではなかった。


「人に作るのは慣れていないの。自分に作るのなら、多少味が変でも気にしないのですが」

「ティーネの料理なら文句ないと思うけどなぁ。気にしすぎじゃない?」


 学校の調理実習くらいでしか料理経験のない藍凪は思う。

 しかし無賃で宿泊させてもらって、あまつさえ手料理を、というのはさすがにわがままが過ぎるかもしれない。


「とにかく、私の料理は却下」

「むぅ」


 不満ではないが、彼女の料理が食べられないことは残念に思う。望まないことを強要するつもりはないとはいえ。


「期待はしないことですね。あなただっていつまでもここに居るというわけにもいかないのですから」


 そう、ティーネの家をいつまでも寝床とするのも、迷惑のかかる話というものだ。いずれこの家からは出ていかなくてはならない。

 自分には自分の生活が必要で、それは誰かに依存するものではない。いつまでもシャーハンやティーネに頼ってもいられないのだから。

 ただそうした自主性とか必要性の前には大きな難問が立ちはだかっている。


 つまり、面倒くさがりの藍凪には一人で暮らしていく自信が全くないのだった。


「ヒトってさ、一人では生きていけないよね。ボクは常々思うんだよ」

「ごまかさないでください……まさか、ずっとここに居座る気じゃないですよね?」

「嫌だぁ! 一人暮らしとか無理! めんどい!」

「いくらシャーハンさんの頼みでも、そこまでは勘弁ですよ」

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃん……」

「真っすぐ正直がモットーなもので。上手くオブラートに包めなくてすみません」


 ここまで包み隠さず言われてしまうともはや気持ちいい。こうなったらとことんまで付きまとってやろう、と決意を新たにした。

 とはいえ彼女の言うことには一理ある。というか、考えてみれば至極当然だ。


「ユウウツな話だよ……」

「憂鬱だろうがどうだろうが私にはどちらでもいいですが、事件が終わって落ち着いたらあなたを追い出そうと思うので、そのつもりで」


 不吉な言葉を言い残してティーネは完食した皿の前で立ち上がる。

 藍凪は考え事を払いのけるように、目の前のスープを勢いよく飲み干した。


「それでさ、今日は何をするんだっけ。ボクも連れて行ってもらえるんだよね」


 先ほどの話題を切って、今日の予定へと切り替える。

 ティーネは「ええ」、と不服な返事をした。


「これからさっそく行方知れずのオクトノウトさんを探します。この件に関わっているかもしれないあなたにも、いちおう同行してもらいます。ですが、できるだけ邪魔はしないでくださいね」

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