海の底、地上は遠く 7
サラサラ、サラ。
音に誘われるように、夜、寝静まった家々を背にして街の外れへと向かった。
サラサラ、サラ。
潮の流れが星屑のようにきらめく砂を運び道を作る。音はその道に埋め込まれている。流れて擦れ合う砂が楽器そのものとなって。
海が啼いている。
サラサラ、サラ。
夜の散歩はけっこう楽しい。何もかもが特別になった気がするから。この身体でさえも。
夜の海は全てを呑み込んでしまうくらいに暗黒。月の弱すぎる光は深海底まで届かない。その代わりに頭上では、クラゲのネオンが海を彩る。砂の道はそれを受けてちらちら光る。
いつしか光が愛おしくなって、それが欲しいと追いかける。失くしたものを求めるよ
うに。取り戻せないと知りながら。
サラサラ――。
急いて走り、辿り着いた終着点。そこは闇夜にぼうっと浮かぶ灯火の空間。他の全てから切り離されて、孤立している。
光が指し示したのは、彼。
「――――始まり、流れ、終わりへと向かう。潮流は全ての命を押し流し、その運命を回してゆく。さらに流れとは運ぶものだ。生の円環にて、幾多の出会いと縁を、連れてきてはさらってゆく。続きゆく道、行き止まりの道。この出会いは、きみにとってどういう
ローブを纏った、恐らく少年。断定できないのは、その顔が暗がりで見えないから。
彼の手には何やら白銀にきらめくものが握られている。槍というには短い三叉の器具。
それを一振りすると、そこから放たれていた微小な空気の波が止み、砂の道が霧散した。
柔らかいもので包まれたような夢見心地のまま、藍凪は口を開く。
「キミは、誰?」
「忘れられているとは寂しいな。ぼくは一度、きみと会っている。その時のきみの命は虚ろで、言葉も交わせなかったけれどね」
少年がニヤッと嗤った、気がした。彼がそういう他人を嘲るような表情をすることを、無意識のうちに知っている。
どこかで出会った……そうだ、自分がまだこの世界から拒絶されていた頃、誰かがそばで話すのを聞いた。
少年のようで、少年でない。地上の人でも、深海のヒトでもない。
まるで亡霊。
「ボクが溺れていた時にそばにいた。憶えてる、気がする」
「そりゃあ嬉しい。じゃあこんなことは、どうかな?」
さして嬉しくもなさそうに少年は言って、説明のために少し間を置いた。次に口を開く寸前で、彼は本当に嬉しそうな吐息を漏らした。
「死にかけだったきみの体を新しくして、この深海でも生きられるように適応させたんだ。ふふ、きみのその肌は、ぼくが作ってあげたものなんだよ。触るとちょっとつるつるしているだろ? ふへへ、その目も、元のものはほじくり出して、よく見えるものを入れてやった。肺だって、源の青から酸素を取り出せる特別性だ。色々と取り換えたせいで元のきみの部分はあまり残ってないけど、生きてるんだから問題ないよね。へへ……」
ローブの隙間から抑えきれない嘲笑を吐き出しながら、少年は努めて淡々と話した。そうすることで、より良い反応を引き出すかのように。
突然の情報に、理解が遅れた。頭がくらくらした。
この肌も、目も、肺も、自分のものではない。自分だったものは取り出されて、代わりのものを入れられた。偽物の
そうして藍凪は地上との繋がりを失って、深海のヒトと成った。この世界での生存を許される代わりに、地上の大地からは追放された。
その事実を、目の前の少年は思いやりの欠片もなくぶつけてきた。
説明も同意もなく、彼は手術を施した。
諸々の事情と出来事を、時間をかけて噛み砕きながら理解して、藍凪は、
「ふうん、そうなんだ」
感慨も何もない表情で呟いた。
少年は藍凪を観察して、当てが外れたような真顔になった。
「反応薄いね。もしかしていきなりのことで、あんまり理解できてない?」
「分かってるよ。ボクがどういうモノに成ったのかってことは、ちゃんと分かった。ここが海の中だって知って、じゃあどうやってボクは息をしてるんだろうって、不思議に思ってたことが解決したよ」
「そう、そうなんだ。なるほどね」
少年は口がある部分に包帯だらけの手を当てて、今度は少しだけおかしそうに笑った。
「ふふふ、きみは……そっか、あまり興味がないんだ」
年下の子供のような仕草が年相応のように思える。
「……今のはほんの冗談さ。そこまで血生臭いことはしていない。きみの全部はきみのまま。こういう話をすればヒステリックに泣き叫ぶかなって実験してみただけさ」
「ボクの周りには、笑えない冗談を言うヒトが多いみたいだね」
「心外だ。ぼくはきみたちに興味があるだけだよ。何をすれば、どんな反応をするのか」
「期待に沿えなくてごめんね」
「いやいや。期待なんて裏切られるか、結果とイコールか、くらいしかないものだよ。それで、どっちが暇を潰すのに最適かっていうと、予定調和よりは予想外の方がおもしろかったりする。あるいは、きみは期待以上なのかもね」
顔が見えれば、それは笑顔を浮かべていたのかもしれない。ローブの少年は、両手を広げて藍凪を歓迎せんばかりだった。
「それで? キミは誰?」
藍凪は拳一つ分くらい強い口調で繰り返した。
少年は、藍凪のそんな態度に拗ねたように、気だるげな口調で言う。子供のような反抗心の表し方だ。
「んー、じゃあ自己紹介しよう。ぼくは、『ネモの幽霊』と呼ばれている者だ」
「ネモの幽霊……?」
それは聞いた名称だった。確かティーネが同じ言葉を呟いていたような。
深刻な面持ちで話していた、例の幽霊。その正体が、この少年なのか。
「ネモでいいよ。幽霊とか言われるのも心外だし。ネモ――『誰でもないもの』って名前は、まあそれなりのセンスかな。ぼくは何者でもないし、特に誰に影響するわけでもない。今のところはそんな存在」
「今のところはって、いつかはそうじゃなくなるみたい」
「それはきみたち次第だよ」
これで終わり、と言ってネモは手を打つ。全てが曖昧にぼかされたような、いまいち納得に欠ける紹介だった。
まあそんな適当でいいなら、と藍凪は口を開く。
「ボクは――」
「オキミアイナ」
藍凪が名乗ろうとした時だった。ネモは先んじて藍凪の名前を告げていた。教えた憶えはないのに。
「どうしてボクの名前を?」
「さて、どうしてだろうね」
今度は勿体ぶってきた。ころころと態度が変わる少年だ。
藍凪は面倒だという文句を込めて目を眇めた。
「怖いなぁ。不思議なことはないよ。ぼくはきみが誰かに名乗るのを聞いたってだけ。きみだけじゃないよ。桃色の髪をした女の子のことも、サメ顔の男のことも、他の誰かのことも。ぼくはこの海で起こっている出来事の全てを、見ている。それだけ」
藍凪を、ティーネを、シャーハンを、見ている。ありとあらゆる現象を観測している。
それ自体が十分に不思議ではないかと考えながらも、どこかその存在に納得している自分がいる。ネモという少年は、一般的な枠組からは外れた存在なのだと感じている。
あらゆる出来事を把握しながら、しかしそのいずれとも無縁の、傍観者。
「でも、きみとは少し関わり過ぎてしまったようだ。命を助けるなんてマネ、いつもはしない」
誰でもないもの、そして幽霊と呼ばれた彼が、藍凪にはこれ以上ないくらいに影響している。その命の生死を取り決め、担ってしまった。
胸に手を当てる。この命を存続させたことを、自分は感謝すべきか、それとも――。
「どうしてボクを生かしたの?」
口を衝いたのは、疑問とも非難ともつかない言葉。
藍凪は、一度は自分を殺したのだ。生死の境をさまよっていたのは全くの偶然でもない。そこまでに至る経緯と、選択があり、最終的に殺した。殺したと、思っていた。
なのに、どうして?
理由が欲しかった。せめて生かされた理由が。役割でも、目的でも、そうされるだけの理由があれば、まだ受け入れられる。他でもない恩人に聞きたい。
どうして? どうして……?
「きみがまだ答えを出せず、迷っているから」
しかしネモが突きつけるのは、どうしようもない己の弱さ。意思の薄弱。信念の欠如。
藍凪自身の内にある、生きたい理由と死にたい理由。
「そっか」
言葉とは裏腹に腑に落ちたことは一つもない。ただ諦めがあった。
結局、自分には覚悟が足りなくて。選んだと思っていたのに、それはただの勢いで。だから死ぬに死にきれなかった。
自分の方こそ、化けて出てきた幽霊みたいじゃないか。
だからもう少しだけ探していかなければならないんだろう。生きるにしても、死ぬにしても、その理由を、自分で。
「勝手なことをしたと思ってるよ。ぼくには少なからず、きみの命に対する責任が生まれた。いや、運命に対する、と言った方がいいかな。きみが辿る流れを見守らせてもらうよ。何を為し、どこへたどり着くのか。せめてきみの中にある迷いが晴れるまで。今回はその挨拶といったところかな」
「それはわざわざどうも。……ん、今回はってことは、また呼び出されることがあるってこと? そのフォークみたいなので?」
ネモが手に持つ白銀にきらめく三叉の槍を指さす。
「これは砂の道を作りヒトを導く。ここでの出来事は、導かれた本人以外には感知できないからそのつもりでね。まあ、話したくなったら呼ぶことにするよ」
「嫌だよ。キミ、なんかろくでもない感じするし」
会ったばかりの時に見た嘲笑を忘れたわけではない。
するとネモはしょんぼりと肩を落とした。
「……ぼくだって傷つく時くらいある」
「なんか拍子抜けだなぁ。見た目は不気味なのに」
あまり信用していい類の人物には見えないが、時おり見せる少年らしい振舞いには毒気を抜かれてしまう。あるいはそれが狙いなのかもしれないが。
「別にいいよ」と藍凪は呆れたように肩をすくめた。
ネモは短く笑い、
「じゃあ、次にきみとぼくの流れが交わる時に。またね、おねーさん」
そうして彼の姿は影に塗りつぶされたように真っ黒になり、灯火の空間と共に遠ざかっていった。
「おねーさん……?」
藍凪は戸惑うように、そして手触りを確かめるように呟いた。
「おねーさん……」
それは、悪くはない気がした。
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