第5話 逃亡


「イルナス様……いい加減、機嫌直してくださいよ」

「……」


 む、無視。早速だが不信感を持たれてしまったヤンは、アタフタと焦る。どうやら2年ぶりの平民で、感覚的な相違が多分に生じていたらしい。

 そもそも、彼女自身の人間的感覚が大きく他者と異なる上、ヘーゼンによって常人としての感覚から大きく逸脱した生活を送ってきた。その弊害が如実に表れた形だ。


 気を取り直して(気を取り直してもらって)、そこそこ髪も服装も汚くなった2人は、そのまま西へと歩き出す。

 このまま貧民地区を突っ切って、帝都を抜ける必要がある。進路は数通りあり、どれを選ぶかはヤン自身の判断に任されている。

 金銭は可能な限り多く持って行きたかったが、下手に金貨など出せば即貴族だとバレてしまう。糞の騒動で大きく時間も使ってしまった。


「……それは、そなたが悪いであろう。それで、これから、どこに行くのだ?」

「まずは、どこかで馬を調達できればなって思うんですけど」


 歩きながら辺りを見渡しているヤンが答える。なんとか誘拐がバレていないうちに商人と交渉したい。ただ、普通の商人を相手にすればすぐに足がついてしまう。

 だからこそ、ヘーゼンは転送に貧民地区を指定したのだと推測した。なんとか、非合法の売人を探さなければいけない。 


「しかし、そんなに都合よくいるのか? 見たところ、ここにはそんな人はいなさそうだが」

「もう少し進むと商業街です。ここは、住宅街ですから」

「……それにしても、酷いものだな」


 異臭で苦しそうな表情を浮かべるイルナスは思わずつぶやく。

 井戸の水が茶色く濁っている。汚れを取り除き、煮沸しないと飲めない。衣類にその汚れた水を使うので茶、色く黄ばんでいるのが普通。通りには、薬漬けになった者たちが点在している。

 修道女としてよく炊き出しを行っていたヤンには見慣れた光景だったが、温室育ちのイルナスには刺激が強いだろう。


 しかし、元平民であるヤンとしては、嬉しい限りである。皇族がこんな最下層の地に来ることなどまずない。将来、皇族として返り咲くことができれば、この経験を大いに活かしてもらいたいものだと思った。


 しばらく進むと商業街が見えてくる。ここも相変わらず汚いが、先ほどよりも活気があった。住宅街とは異なり、歩いていると、さまざまな売人に裾を掴まれる。

 ヤンはその手をバンバンと払いのけながら進む。ガラの悪そうな屈強な男が近づいてくると、ナイフを少し抜いて威嚇し、追い払う。


「イルナス様、私の裾をギュッと掴んでください。突然、身体を担がれて、さらわれることもありますから」

「……そ、そんなこともあるのか」


 驚愕する童子にヤンは深く頷いた。ここでは、何もかもが商品だ。米、酒、魚などの贅沢品が貧民地区で売られることなど滅多にない。

 腐った食物や、曰く付きの物品。麻薬。人の臓器や人そのもの。そんなものが並べられていることがここでの日常茶飯事なのだ。


「……嬢ちゃん、探しもんか?」


 そんな中、1人の男の声に、ヤンは足を止めた。先ほどまでの押し売りとは違って、貧民にしては汚れていない。

 ただ、その人相はすこぶる悪く、ガリッガリに痩せこけていた。そして、右頬には大きな傷が刻み込まれている。


「馬。用意できる?」

「……馬か。これで、どうだ?」


 男は指を5本立てたが、ヤンは首を横に振って2本指を立てる。男は『そりゃ、安すぎるぜ』と4本立てて、『ぼったくらないでよ』と2本のまま指を動かさない。

 『はぁ……負けたぜ』と男は指を1本畳むが、ヤンは再び首を横に振る。


「これ以上はまけらんねぇよ。相場で買おうってんなら、他当たれや」

「……馬の状態を見て、決める。よぼよぼの持ってこられたんじゃたまんないわ」

「はぁ……わかったよ。じゃあ、行こうぜ」


 売人の男はあきらめたように答え、先を歩く。そんなやり取りにしばし圧倒されていたイルナスだったが、やがて不安そうにヤンの方を見つめる。

 騙されてないだろうかと疑う表情に気づいたのか、黒髪の少女が優しく元皇子の頭をなでる。


「……信用してもいいと思います」

「なぜだ? 他の売人たちとあの男、なにが違うのだ?」

「理由は2つあります。彼は相場より倍の値段を提示しました。これは、彼が商品を売ってくれることを示しています。他の売人たちは、相場以下の値段で迫ってきたでしょう? 彼らにつられると待っているのは、屈強な男たちでしょう。

 もう1つは、『私が馬の状態を見る』と言った時に彼は了承したでしょう? 小銀貨1つは貧民にとってはかなり大きいです。そこで、折りあいがつくのは、まともな商売人の感覚に近いのです」

「……なるほど」


 ヤンはもう1つ付け加えた。今、言っているのは理屈であると。人というのは、どれだけ理屈が通っていても、信頼できそうな人でも、裏切られる時もある。

 だから、優れた人は直感を磨く必要があるのだと。よい商人は最終的には自身の直感で人を信じる。非合理的に見えて、最も合理的なことは自身の目を磨くことなんですと、黒髪の少女はイルナスに笑いかけた。


 そんなヤンの話に、イルナスは深く頷いた。

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