第1話 決断
部屋に入ってきたイルナスを見て、ヤンはハッと息を飲んだ。金色の流れるような髪。透き通るような粉雪のような肌。その中性的な顔立ちは、母であるヴァナルナースの面影を非常に感じさせる。聡明さを感じさせる鮮やかな青の澄んだ瞳は、皇帝レイバースと瓜二つだ。
「……っ」
愛らしさがとんでもない。これには、ヤンが生来持っている庇護欲を大いに刺激した。元々、彼女は大の子ども好きである。
将来の夢は童子を教える
「どうだ? お眼鏡に叶ったかな?」
「くっ……」
ヤンは悟った。ヘーゼンに自分の下心をすべて見抜かれていることを。ゆっくり考えたかった。ゆっくりと目の前の可愛い子をスリスリして、ナデナデして自分の欲望を一通り満足させた後で決めたかった。
でも、もう時間……ない。
事態はかなり深刻である。考える時間はもうない。
ならば、自分の良心を信じようと思った。目の前の子どもが困っているとき、自分に恥じない行動をとろうと。ヤンは、コクリと頷きイルテスに微笑み返した。
「では、3分やろう」
「……
黒髪少女の例え
ヤンは、服棚の奥から衣類を取りだす。もう二度と着ないと思っていた灰色ローブ。身体が成長していて胸が少しきついが、ウエストは入るので安心した。ところどころ、破れやほつれ、ツギハギがあるので少なくとも、貴族が変装してるとは思われないだろう。
残り2分。ヤンは大きな漆黒のマントを羽織り、銭袋に大銀貨5枚、小銀貨20枚、大胴貨30枚を詰め込みポケットに入れる。そして、大金貨と小金貨はヘーゼンに手渡した。
逃亡したとわかれば、絶対に家宅捜査される。その時、金貨が残っていれば、必ず平民に偽装したことがバレるだろう。
残り30秒。すべての準備を完了させたところでヤンは、3年住んだ部屋をグルリと見渡した。
初めてここに連れてこられた時に、泣き暮れたベッド。一週間で読破しろと言われて、不眠不休で読みあさった本棚。訓練で重傷を負って、血みどろになったまま倒れ込み、取れなくなった床の血痕。
……まったくと言っていいほど、いい思い出がない。思い浮かばない……でも、不思議だ。ろくな思い出もないのに、苦しい想いしかしたことがないのに、なぜだか胸にじんわりと熱いものがこみ上げてくるなんて。
ヤンは静かに漆黒の瞳を開けた。
「時間だ」
「……はい」
「選別だ。これを持って行け」
ヘーゼンに手渡されたのは、整った細い枝のような棒だった。ひんやりとした鉱物特有の感触。ヤンがそれを掲げると、うっすらと黒く輝き、身体からじんわりと魔力が流れていく。
「ま、
魔杖は、魔法を放つことのできる武器である。慣例としては一人前の魔法使いになった時に
「帝都を出るまではできる限り使うなよ」
「……それは、こちらが
ヤンが笑顔で言い返す。実際、国家的犯罪者になった時点で、帝国選りすぐりの精鋭たちに追われることは間違いない。
なので、魔法を使わないようにするには、ヘーゼンが宮でどれだけの策を巡らせるかにかかっている。
準備ができた時、ふとイルナスの視線に気づく。その不安そうな表情は、ヤンの胸をギュッと締めつける。利発そうな童子だった。顔立ちが非常に整っていて、背も思ったよりも小さい。
黒髪の少女は思わず、自分がここに連れてこられたことを思い出した。あの時、自分は13歳の頃だった。それでも、不安で、独りぼっちで、怖くてどうにかなりそうだった。
……しかも、
ヤンは、彼の元に片膝をついて礼をした。少しでもイルナスが安心できるように。少しでも、彼の恐怖を和らげることができるように。
愛想を尽かされてしまうかもしれない。途中で、ダメ魔法使いの烙印を押されてしまうかもしれない。
ただ、今だけは、自分だけが頼りなイルナスのためだけに、ヤンは満面の笑顔と自信を持って、有能な臣下の儀礼をとった。
「イルナス皇太子殿下。安心してください、私が必ずあなたをお守りいたします」
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