第2話 別れ
*
瞳がクリクリとして大きい。イルナスがまず、ヤンに抱いた印象である。長く艶やかな黒髪。すこし丸みを帯びた輪郭。柔和な笑顔。
外見で目を引く場所はいくつもあったが、その輝く黒真珠のような瞳が彼女の活発さを引き立たせていた。
宮中には見たことのないタイプの子だった。
腐っても皇族である。イルナスは、他の貴族からのアプローチを星の数ほど受けていた。成長が止まって以降は一度もないが、それこそ、2歳の赤ん坊から16歳であるヤン以上の年齢まで、あらゆる貴族の女が童子に群がった。
もちろん全員が高貴で上品で美しかったのだが、彼女のように屈託なく輝いた瞳を持った者はいなかった。
「イルナス皇太子殿下。安心してください、私が必ずあなたをお守りいたします」
「……いいのか?」
片膝をつき、臣下の忠誠を示すヤンに、イルナスは思わず聞き返した。
側近も執事も護衛も、誰もが断るだろうこの仕事を引き受ける気持ちがまったく理解できなかった。
むしろ、断られると思っていた。犯罪人となれば、もはやまともな生活はできない。しかし、ヤンはそんな境遇に堕とされるにも関わらず『守ってくれる』という。
当のイルナス本人でさえ、この境遇を呪ったのに。わかっている。すべての地位を捨てて。この宮での生活を捨てて。平民と成り下がって生きていくしか道はないと。
頭での理解とは裏腹に心の底では、両親の地位の低さを恨んだ。息子を守ることもできないほど力のない母のヴァナルナースを。
しかし、目の前に自分以上の過酷な運命を迫られ、笑顔を向けている少女がいる。それがイルナスには信じられなかった。
「もちろんです。あなたみたいな小さな子を放っておける訳ないじゃありませんか」
「ヤン……
「そんなことはどうでもいいです」
ヤンはキッパリとそう言い切って、イルナスの頭をなで続ける。彼の身体は5歳のままだが、心は16歳である。同い年の女の子から頭をなでられることが、大いに恥ずかしくて、思わず下をむいた。
「……今度一緒にお風呂入りましょうね」
!?
「だ、駄目に決まっているだろう!」
「な、なんでですか!? 一連託生じゃないんですか!?」
「
「私は気にしません!」
「
がーん! という効果音が聞こえてくるほど、目の前の黒髪の少女は両膝をついて頭を抱えた。どうやら、かなり変わった子であることは確かなようだ。
「でも……本当にわかってるのか? 誘拐犯になって国家の大反逆人となる。そなたの一族だって無事にはすまない。生活だって、平民のものになるんだよ?」
「イルナス皇太子殿下。このヤンという娘は修道院出身の孤児なので、巻き込まれる親族はいません。平民丸出しの生活も慣れきってます。ついでに、魔法使いとしての腕も申し分ありません。安全、安心、お手頃で選んだ私の心眼をどうかご信頼なさいませ」
手を差し伸べてくれた唯一の男、ヘーゼン=ハイムが片膝をついてそう答えた。言い放たれた当のヤン本人が驚愕の表情を向けているのが気になるが、もはや信頼する以外に選択肢はない。イルナスは、深く頷いた。
「私はあなたがいつかここにお戻りになれるよう、宮中で勢力を伸ばしておきます」
「……わかった。その時が来れば、そなたの恩に報いよう。それで、どうすればいいのだ?」
「ご案内します。西へ逃れるのです。後は歩きながらで」
3人はすぐさまヤンの部屋をでた。とにかく時間がない。ヘーゼンは端的に今後のことを話し出す。
帝都を出るまでは魔法を使わずに逃亡・生活をすること。
スヴァン領のゼ・マン候が力になってくれるので、まずは彼を頼ること。
無駄遣いしないこと。
突発的な行動は控えること。
軽率な行動をしないこと。
むしろ危険に進んで飛び込んでいかないこと。
「後者は、主にヤン。君に言っているんだぞ」
「ううっ……まだ、なんにもやってないのに」
と猛烈に頭グリグリされている彼女を見て、イルナスはすごく可愛そうに思った。
「ヘーゼン。もう、それくらいにしておいてくれ。このような大役を担ってくれただけでもありがたいのに、注意ばかりだなんて」
「イリナス皇太子殿下……お優しいです。私、感激です」
「ああ、そうだったな。ヤン、言わずともわかることは、君には何一つなかったのだった。敬称だ。敬称をやめて平民口調で皇太子と接しなさい。そして、しっかりとクルミのような小さくシワの少ない脳みそに深く刻んでおきなさい」
グリグリ。グリグリ。やむことのない小言。一層強くなるグリグリ。イルナスの制止にも関わらず、一向にやめることのない黒髪の魔法使いは、かなり不敬だった。
「……はぁ」
利発なイルナスは、遠い目をして、深く関わることをやめた。
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