第30話 変化の可能性

 優しい香りに包まれてニアは眠る。


 母親の腕の中にいるような安らぎに、ここ数日己を苛んでいた悪夢も忘れ、どこまで穏やかにーー



(起きて! 起きるのよ!)



 その声は幼い娘の意識を一瞬で覚醒させた。


(誰? ママ? ママは?)


 暗い闇の中でニアは母親の姿を探す。そんな幼子の姿に苛立つように声がその大きさを増した。


(ここにママはいない。もう、どこにもママはいない)

(嘘! ママはいるもん。ずっとニアと一緒だもん)


 理解できない状況への不安も忘れてニアは叫んだ。


(そうよ。そうなってほしい。だから貴方の力が必要なの)


 そこでニアは声の主が泣いているのだと何故だか理解できた。


(大丈夫? どこか痛いの?)

(痛い、痛いわ。だから貴方に助けて欲しいのよ。出来るわね?)

(……分かんない)

(分からなくてもやるの! やらなければこうなるのよ)


 そして暗闇に映像が投影される。それは一つの可能性。でもとても強固な選択肢。その未来なかで人と魔族は絶滅の危機に瀕していた。


 視よ、地に栄えていた二足の生き物達は四足の獣に尽く食い尽くされた。それを阻もうとした者は皆殺された。


 連戦戦勝。邪悪さにも勝る狡猾さで神話の獣は世界の全てを喰らい尽くしていく。


 その凶悪なる牙の前に支配者達は破れ去る。大地は砕かれ、海は呑み干され、炎は吹き散らされ、暗黒は砕かれ、そして魔族の王様は地に倒れ伏した。


 何百年にも渡って一つの種を守り続けてきた守護者達はもういない。そんな世界で彼女は戦い続ける。幼い頃にほんの僅かな期間共に過ごした母親の仇を打つ為に、己の片翼と共に絶望的な戦いに身を投じていく。


(こんな、こんな世界を実現させないで。お願い、可能性わたしを消して)


 復讐に焦がれた女が叫ぶ。確定された過去いまへと、あやふやな可能性みらいから。


 それに、その強すぎる渇望ねがいに魅入られるかのようにニアは言葉もなく女を見つめる。


 銀と銀の視線ひとみが絡み合う。ふと、女の顔が力なく笑った。


(ママと誕生日、お祝いしたかったな)


 その一言にニアはーー


「ママ!!」


 飛び起きた。同時に己でもコントロールしきれない情動に突き動かされて部屋中を駆け回る。


「ママ! ママ!! ママ!!」

「ニア起きたの? 落ち着いて、フラウダさんなら出掛けてるわよ」


 声をかけられてそこで初めてニアは姉がいることに気がついた。


「お姉ちゃんママは!? ママはどこ?」

「大丈夫よ。ママならすぐ戻ってくるわ。だから落ち着いて、ね?」


 妹を抱きしめようとするクローナを、しかしニアは突き飛ばす。


「違う! 違うのお姉ちゃん」

「ニア?」

「行かなきゃ、私達が行かなきゃ、ママが、ママが」


 瞳に溜まった涙が落ちるのを防ぐ為、ニアは唇を強く噛み締めた。その表情は普段の年相応に涙もろい彼女とは異なり、まるで夢の中の女の激情が飛び火したかのようだった。


 妹のただならぬ様子に、しかし生まれてくる前から一緒だった姉はすぐに状況を理解した。


「……フラウダさんが危ないのね?」


 コクリ、と頷くニア。早熟の天才はもしもの時の為にと渡された種を取り出した。


(魔王軍の四天王であるフラウダさんと軍団長であるグラシデアさんの手に余る事態。私達に出来ることなんてあるの? ここも危ないようならば、いっそニアと二魔で逃げた方が……)


 不意に湧いた誘惑は、しかしクローナ本人が驚くほど何の魅力も感じなかった。


(そっか、やっぱり私はもう……)


 幼い天才の脳裏に花のような笑みが浮かぶ。同時に湧き起こる想い。抱きしめて欲しい。一緒に本を読みたい。もっとお喋りしたい。生まれて初めて抱く衝動は小さな胸をこれでもかと締め付けた。


「……行こう、ニア。フラウダさんを、私達のお母さんを助けに」


 そして一つの覚悟を決めたクローナが掌の種を握りつぶそうとしたところでーー


「お姉ちゃん待って!」

「な、なに?」


 予想外な妹の反応にクローナはビクリと動きを止めた。


 銀色の瞳が魅入られたように種を見つめる。


「ニア? どうしたの?」

「……救える」

「え?」

「救えるよお姉ちゃん、この二人ならママを助けられるの」

「二人?」


 クローナの幼い美貌に浮かぶ怪訝な表情は、しかしすぐにハッとしたモノへと取って変わられた。


(二魔のうちどちらを頼っても僕の娘だって伝えれば必ず力になってくれるはずだよ)


 脳裏に正確に蘇った言葉は、幼子の予想を確信へと昇華させた。


「ニア、この人達がどこにいるのか分かる?」

「うん。あのね、お姉ちゃん。今私、すっごい力を感じるの。でもね、あのね、私だけじゃコントロールできないの。だからお姉ちゃんの力を貸して欲しいの」

「当たり前じゃない。私達はずっと、ずっと一緒よ。それに……お母さんもね」

「うん!」


 そうして姉妹は手を取り合う。すると妹の特異な感覚と力がその姉へと流れ込んだ。本来であれば決して他者にコントロールできるはずのないそれを、クローナは双子という特性と生まれ持った鋭利な頭脳でコントロールする。


 妹に呼応して高まる魔力はクローナの黒髪黒眼を黄金へと塗り替えた。そしてーー


「見つけた! 跳ぶわよニア」

「うん。行こうお姉ちゃん」


 部屋から姉妹が消え去った。誰も居なくなった空間、いや、居ないはずの空間で一魔の獣人がそっと溜息を付く。


「あの年で空間転移まで扱えるなんて、今まで見てきた特異体の中でもぶっちぎりの二魔ニャ」

「リーダー、何でいかせたニャ? フラウダ様の命令に背くつもりなのニャ?」


 自分達のリーダーへと黒髪ショートカットの獣人が詰め寄った。事実、闇組と呼ばれる魔王軍暗部の精鋭にとって幼い二魔の術を中断させるなんて容易なことだった。彼女達のリーダーが静止を命じさえしなければ。


「やめなさいニャ。今のリーダーの行動は正しいニャ。ずっと前に私達はフラウダ様の為に動くと決めたはずニャ」


 金髪の獣人が怒る黒髪じゅうじんの肩へと手を置いた。


「だからこそあの二魔を守るのが僕達の使命じゃないニャ?」

「頭を冷やしなさいニャ。今までの観測結果から見てもあの二魔の力は疑いようがないのよニャ。ならあの子達がフラウダ様がこのままでは危ないと言い、それを阻止できると行動するならば、たとえフラウダ様の意思に反しようとも私達の行動は決まっているはずじゃないのかしらニャ」

「それは……でももしもあの子達に何かあったらどうするニャ? きっとフラウダ様は悲しむニャ。僕はそんなフラウダ様を見たくないニャ」


 黒髪の獣人の猫耳がペタリと伏せる。


「その時は私が腹を斬ってお詫びするニャ」

「俺はリーダーについていくニャ」


 今まで黙っていた赤髪の獣人が力強く宣言する。黒髪の獣人はショートカットの髪を掻き毟った。


「ああ、もう、分かったよニャ。どっちにしろ既に状況は動き出してるんだし、リーダー、指示を頼むニャ」

「フラウダ様の援護に向かう……と言いたいとこなんだけどニャ」

「何か気になる事でもあるのかしらニャ」

「フラウダ様はグラシデアを連れて行ったニャ。いけすかない奴だけど、軍団長だけあって実力は確かニャ。何が待ち受けているのかは知らないけど、この状況でフラウダ様が不覚をとるなんてありえないニャ」

「確かにそうだよねニャ。聖天者達の動きには目を光らせているけどこっちに来てるなんて情報入ってないし……入ってないよねニャ?」


 質問をした獣人を除いて、その場の全員が頷いた。


「リーダーはニアの予知を疑っているのかしらニャ?」

「いや、予知の精度は私も非常に高いと予測しているニャ。だからこそ不可解なんだニャ。フラウダ様が人間ごときの兵器やその辺の雑魚共にやられるわけがないニャ」

「それはそうだよニャ。フラウダ様は最強ニャ」

「私も全く同意見だわニャ」

「俺はフラウダ様を愛してるニャ」


 部下達の言葉を聞きながら、ネココは腕を組むと眉間に皺を寄せた。


「そう、フラウダ様が負けるわけないニャ。不測の事態があってもグラシデアの奴がいるんだし……もしもこの状態でフラウダ様が追い詰められる状況が発生するとしたら……数? いや、ちょっとやそっとの数じゃフラウダ様には勝てないニャ。なら数と実力以外の要素……」


 眉間の皺が一瞬で消えて、ハッとした顔が上がる。


「リーダー?」

「まずいニャ。すぐにグラシデアの親衛隊に連絡を入れて三つの村全てに非常事態宣言を出すニャ。それから点呼を取って村から出てる者がいないか確認ニャ。特にニアとクローナと親しい者が村から外出していた場合は何としても見つけ出して村に……フラウダ様の張る結果内に連れ戻すニャ」

「ど、どういことニャ?」

「村に大規模な襲撃が予測されるニャ。推定兵力は千から万。既に包囲されていることを想定して、フラウダ様への奉仕は先に述べた役割を全力で行うことだと心得るニャ。間違っても焦って援護に行こうとして各個撃破されるなんて意味のない死に方をするんじゃないニャよ」

「「「了解ニャ」」」


 ネココを含めた四魔の表情から感情がスッと抜け落ちる。


「よし、散るニャ」


 音もなく移動する魔王軍最高のアサシン達。そうして今度こそ部屋には誰も居なくなった。

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