第2話
ウッドデッキに座って透明なエメラルドブルーの海を眺めている。時折吹き抜ける海風は心地良く、思わず眠気に誘われそうだ。しかし、その平和な雰囲気をかき消すように爆音が鳴り響く。先ほどのジェットスキーの音だ。海水浴客が大勢いるというのに、ビーチ近くで相当なスピードを出している。
「あんなの危ないよ、もっと沖でやればいいのに」
伊織がムッとした表情を浮かべている。
「誰かに見せびらかせたいんだよ、ナンパ目的もあるかもね」
輩の行動パターンだ。高谷が肩を竦めた。榊と曹瑛は無言のまま鋭い視線を向けている。
コストパフォーマンスが良すぎる海の家の焼きそばには列ができ始めた。親子連れやカップルが喜んで買っていく。劉玲は首から掛けたタオルで汗を拭いながら鉄板に向かっていた。
「どけよ」
乱暴な声がして、派手な蛍光カラーのパーカーを着た男たちが列に割り込んできた。小さな子供の手を引いた若い父親を押しのけ、水着姿の女性グループをナンパしている。女性客は嫌がってその場を去って行った。
「4つくれ」
金髪に日焼けした肌の男がヘラヘラ笑いながら劉玲に金を差し出す。背後にはドレッドヘアに髭面、もう一人は坊主頭に偏光サングラス、そして茶髪に釣り針モチーフのネックレスを下げた男たちが立っている。不遜な態度の輩に関わり合いになるまいと、お客さんは離れていく。
「あんたら、割り込みはあかんで、ちゃんとならんでや」
劉玲が笑顔でコテを突き出す。文句を言われると思っていなかった男たちは騒ぎ始めた。
「順番を譲ってくれたんだよ」
「ガタガタ言わずに早くよこせ」
鉄板の前に4人が並び、劉玲を威圧する。
「順番は守りましょう、幼稚園で習わんかったんか」
劉玲の顔から笑みが消えた。鋭い眼光で男たちを睨み付ける。その迫力に男たちは一瞬黙り込む。
「馬鹿にしやがって」
坊主頭が鉄板脇に積み上げてあったケース入りの焼きそばを叩き落とそうと腕を振り上げた。しかし、その腕は急に動きを止めた。
「何だ、てめえ」
目の前に立つ大柄な男にがっしりと腕を掴まれていた。赤い海パンにTシャツ姿の孫景だ。シャツの上からでも鍛え上げた胸筋が分かる。坊主頭はその手を振りほどこうとするが、ピクリとも動かせない。じわじわと締め付けを強める手に、引いたり押したりと無駄な足掻きをみせる。
「痛え、離しやがれ」
「おい、何してやがる」
ドレッドヘアが孫景に殴りかかった。獅子堂がその拳を軽々と手の平で受け止め、そのまま拳を握り潰す。
「ぎゃああ」
指の骨が軋む痛みにドレッドヘアが涙目で喚く。
「や、やめてくれ」
情けない声で許しを請う。孫景と獅子堂は輩を解放した。周囲には野次馬が集まってきている。さすがに分が悪いと踏んだ金髪と茶髪は無様を見せた坊主とドレッドを連れてビーチへ戻っていく。怒りをぶつけるようにジェットスキーを爆音で吹かしながら、半島の向こうへ消えていった。
「俺たちの出る幕は無かったな」
様子を見守っていた榊が残念そうにぼやく。曹瑛も殺気を漲らせて臨戦態勢だったが座ってかき氷を食べ始めた。
「孫景はん、獅子やん、おおきに。助かったで」
「あんたが本気だしたら屋台がメチャクチャになるからな」
「違いない」
孫景の言葉に獅子堂が頷く。劉玲はまた笑顔に戻って気分良くコテを振るう。輩が去ってお客さんが戻ってきた。さっきは痛快だった、と3人にジュースやお菓子の差入れが届いた。焼きそばもかき氷も串焼きもしばらく列が途切れることは無かった。
ひと休みした後、軽くシャワーを浴びて島内を散策することにした。木の板を張った遊歩道が森の中へのびている。背の高い常緑樹が木陰を作り、涼やかな風が吹き抜けていく。真夏の到来を告げるように蝉が忙しなく鳴いている。
木立を抜けると、左右に高い壁が現われた。石をブロックのように積み上げた壁だ。さらに先へ進むと、蔦に覆われたレンガのトンネルが見えてきた。
「ここはかつて要塞だったんだ」
伊織がトンネルの入り口に設置された看板を読み込む。戦中、猿ヶ島には砲台が置かれ、東京湾を守る役目を果たしていた。
トンネルの中は涼しく、高谷は思わず身震いする。ダウンライトに照らされるトンネルの壁もすべてレンガで作られていた。トンネル内には弾薬庫や指令本部跡が残っている。
「フランドル積みという日本で数少ない手法が用いられているそうだ」
榊の説明によると、フランドル積みは優美に見えるが、構造的には弱いのだという。
トンネルを抜けると、展望台へ向かう階段が延びている。両側に茂るのはシダのようだ。額から流れる汗を拭いながら階段を上りきると、展望台と砲台跡があった。
「砲台は使われることは無かったんだって」
砲台跡と言っても、大砲はすべて撤去されている。石造りの壁に穴が穿たれており、かつてはここに大砲が設置されていたのだ。展望台からは遠くレインボーブリッジやスカイツリーを眺めることができた。
曹瑛は先ほどから島の歴史を語る看板をひとつひとつ真剣に読んでいる。そんな姿を複雑な思いで見つめていた伊織と、曹瑛の視線がぶつかった。
「歴史から学ぶことは多い。それが負の遺産であればなおさらだ」
「うん、そうだね」
曹瑛の口調は驚くほど穏やかで、伊織は深く頷いた。
蝉時雨の森を抜け、ビーチに戻ってきた。榊は磯で釣りをするという。釣り具のレンタルもサービスに含まれていた。
「久しぶりだが、大物を狙うぜ」
釣りは守備範囲外らしく、さすがの曹瑛も勝負に持ち込む気はないようだ。ヤシの木に釣られたハンモックに揺られながらマルボロを吹かしている。榊について高谷と伊織も磯へ向かった。潮が引き始めたばかりで、蟹やヤドカリが歩き回っている。
「ヒトデがいる」
高谷が子供のようにはしゃいでいる。
「このヤドカリ、でかい」
伊織も童心に返って磯の生き物探しを始めた。榊は岩場で釣り糸を垂れている。時折、リールを巻く姿が見えたので、何か釣れてはいるのだろう。
「榊原の家にいた頃、榊さんと一緒に初めて海に行ったのを思い出すよ」
砂浜に座る高谷が、榊の背中を見つめながら話し始める。
「それまで海なんて見たことが無かった。初めて見る大きくて青い海、足にかかる白い波飛沫、波の音、すべてが新鮮だった」
高谷は遠い目をしている。孤独な少年時代に、年の離れた兄は心の支えだったのだろう。伊織は静かに頷く。
「榊さんに泳ぎを習ったこともあるけど、俺はぜんぜん上手くならなくて」
高谷は未だに浮き輪だよ、とおかしそうに笑う。太陽はいつの間にかずいぶん西へ傾いている。橙色の光が波を照らしている。
「そろそろ引き上げるか」
榊はクーラーボックスを重そうに抱えている。中をのぞくと30センチ以上はある大物が入っていた。
「真鯛だね、これだけあれば刺身が取れるよ」
伊織が目を見開く。他に20センチほどの真鯛が2匹、イイダコが3匹連れていた。
「いい潮の流れだった」
なかなかの釣果に、榊も嬉しそうだ。
テントに戻ると、劉玲が手を振っていた。孫景と獅子堂も一緒だ。海の家の食材が余っているので、一緒に夕食を、ということだった。
伊織は榊が釣り上げた大物の真鯛を刺身包丁で捌く。それを曹瑛が興味深く覗き込んでいる。
「じいちゃんに仕込まれたんだよ」
漁師をしていた祖父に魚の捌き方は一通り習ったという伊織の手並みは鮮やかだ。透き通った新鮮な刺身が皿に盛り付けられていく。
大鍋には2匹の真鯛をぶつ切りにして贅沢な鯛汁を作る。できあがった汁に刻んだ白ネギを乗せた。海の家で売っていた串焼きの帆立やイカ、タコをバーベキューの肉と一緒に焼き始める。香ばしい匂いに食欲をそそられる。孫景が見守って炊き上げた飯盒の白飯は丁度良い仕上がりだ。
「運び屋は野宿も多いからな、得意なんだ」
「カッコいいところを千弥ちゃんに見せつけられんで残念やな」
劉玲にからかわれて、孫景は顔を赤くして押し黙った。
グランピングで用意されたバーベキューセットに海鮮が加わって、賑やかな夕食が始まった。まずは缶ビールで乾杯をする。日が暮れて海から涼しい風が吹いてくるが、まだまだ気温は高いため、冷えたビールが美味い。
刺身にした真鯛は身がプリプリで引き締まっており、新鮮なので全く臭みがない。
「釣ったばかりの魚を刺身で食べるとは、最高やな」
劉玲は二本目のビールを開けて上機嫌だ。曹瑛も刺身を一口食べて目を丸くした。気に入ったのか、どんどん箸がのびる。
鯛汁はダシが良くでており、大ぶりの切り身がごろごろ入っている。大鍋に作った汁は好評で、すぐに無くなってしまった。
口を開けたホタテ貝にバターを置いて醤油を垂らす。
「これは酒のつまみにいい」
孫景が大きな貝柱を頬張る。酒飲みには磯焼きはたまらないらしい。獅子堂は実家が民宿を営んでいるらしく、海鮮の焼き方をよく知っていた。ビールを飲みのみ、イカやタコ上手に焼き上げていく。
月が高く上がる頃には用意された食材はきれいに片付いていた。タバコ組はデッキの端に座り、ゆったりと紫煙をくゆらせている。一服を終えて、劉玲が立ち上がる。
「劉玲さんたちは今夜どうするんですか」
伊織が声をかける。劉玲たちはグランピング施設に宿泊する様子ではない。
「俺らは海の家に泊まるんや、仕事があるし」
明日もバイトなのだろうか、仕事、という言い方に何か引っかかり、伊織は首を傾げる。
「ありがとな。ほな、おやすみ」
劉玲、孫景、獅子堂はビーチに向かって消えていった。
テント内は空調が効いており、涼しいほどだ。海の音を間近に聞きながら涼しい室内でふかふかのベッドに横になる。これはなかなかの贅沢体験だ。
「テントの中なのを忘れそうだよ」
ベッドに寝転がった伊織は白い天井を見上げて呟く。適度な疲労感に、このまますぐ眠ってしまいそうだ。
心地良い眠りに誘われて、高谷はふと胸元のネックレスに触れた。その感触に慌てて飛び起きる。二つついていたはずの羽のチャームが一つしか無い。どこかで落としたのだろう。ベッドの上に手を滑らせるが、それらしいものは無い。目を凝らして床を見てみるも、落ちていなかった。
森の中で落としたのだろうか。このネックレスは大事なものだ。高谷は血の毛が引くのを感じた。そっと起き出し、リュックから懐中電灯を取り出した。静かにテントを出る。
バーベキューをしていたデッキを歩き回ってみるが、やはり見当たらない。この島は大して広くはない。歩いた場所を辿ってみよう、そう思い立ち高谷はビーチに向かって歩き始める。このネックレスは元彼だった秋生にもらったものだ。銀細工職人だった秋生の手作り品で、同じものは二度と手に入らない。秋生はもうこの世にいないのだ。
高谷は肩を落としながらビーチに続く道を歩く。静寂の中に波の音だけが聞こえてくる。小さな懐中電灯で照らすにはビーチは広すぎる。もしこの砂の中に落としたのなら、見つけることはできないだろう。彼への未練は全く無い、と言えばウソになる。供養の意味で身につけていた。だが、自分は兄を選んだのだ、もう断ち切っていいのかもしれない。
「あの磯だ」
不意に背後から声がして、高谷は心臓が大きく跳ねた。振り返ると曹瑛が立っていた。曹瑛は榊が釣りをしていた磯を指さしている。
「驚かせないでよ、曹瑛さん。何で磯だと分かるんですか」
「展望台から降りたとき、その飾りは2つついていた」
確かに、そのあとすぐに磯に向かった。砂浜に落とした可能性は無くなり、高谷はホッと胸を撫で下ろした。
曹瑛が磯に向かって歩き始める。高谷は驚いて後を追う。
「一緒に探してくれるの」
「あのベッドは柔らかすぎて眠れない」
そんなことを言って、外のウッドチェアやハンモックで眠ることもできたはずだ。曹瑛の優しさに高谷は想わず頬を緩めた。以前の彼ならこんなことは無かっただろう。
磯が見えてきた。複数の人影があり、何か言い争っているような声が聞こえる。曹瑛と高谷は岩陰に身を潜めて様子を伺う。
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