第2話
ダウンライトのバスルームで少し熱めのシャワーを浴びながら、榊は長く伸びた前髪をかき上げる。鍛え上げた滑らかな薄い褐色の肌に水滴が流れ落ちる。湯を浴びたまま、瞼を閉じれば、鷲尾の弟の背中が脳裏に浮かんだ。
「復讐、か」
榊は独りごちた。厚手のバスタオルで水気を拭き取りシャツを着て、灯りを消したままソファに倒れ込んだ。グラスのブランデーを喉に注ぎ入れる。いくら飲んでも酔えそうになかった。
鷲尾の死には言いようのない喪失感を覚えた。鷲尾を撃った男は何度殺しても足りないほどに憎い。しかし、極道同士の抗争に復讐は無意味だということはよく分かっていた。繰り返される怨嗟の応酬に終わりが無い。
榊はフィリップモリスに火を点ける。天井に一筋の紫煙が立ち上る。それをぼんやりと見上げる。暗い部屋には時計の音だけが響いていた。
それから1週間後、榊は麗子からの電話を受け、BMWで首都高を飛ばしていた。鷲尾崇司が撃たれたという。取り乱す麗子から聞き出した総合病院へ駆けつけると、緊急オペが終わりICUで絶対安静の状態だった。心拍管理の定期的な電子音が響く部屋の中で、麗子は茫然と椅子に座っていた。
「手術は無事に終わったそうよ。血栓ができたり、血圧が急激に下がることもあるから予断を許さない状態だと言われているわ」
麗子は榊の顔を見た途端、堪えていた感情が吹き出したのか涙を流した。榊はブラインド越しに崇司の眠る観察室を覗いた。呼吸器をつけた姿が痛ましい。
見回りに来た若い医者に状況を尋ねた。勤務先の大学病院の渡り廊下で突然倒れ、血を流していたという。背中から入った銃弾が肩甲骨と鎖骨を砕き、重傷だと聞かされた。
「背中から銃撃を受けたのか」
榊は眉をしかめる。先週、崇司は兄を殺した男の名を口にした。男に近づき、狙われたに違いない。不意にナースコールが鳴った。意識が無いはずの崇司の部屋だ。
若い医者に続き、榊と麗子も部屋に入った。崇司がうっすらと瞼を開けている。榊の姿を見て、ゆるゆると手を伸ばす。
「動いてはいけない」
榊は制止する医者を押しのけて崇司の側に立った。
「新海だ。兄の仇を討つために奴に会った・・・しかし逃がしてしまった。麗子も危ない・・・俺のせいだ・・・こんなことを頼めた義理ではないが、榊さん、どうか、麗子を守って・・・」
息を振り絞るようにそれだけ伝えると、崇司はまた昏睡状態に入った。血圧が下がり、医者が慌ただしく処置を始める。
榊は背後で立ち尽くす麗子の肩を抱き、部屋を出た。しばらくして医師が出てきた。
「急激に興奮したようです。今は落ち着きましたよ」
麗子は深々と頭を下げる。
「麗子さん、しばらく店に出るな。身を隠しておいてくれ」
榊の言葉に、麗子は唇を震わせている。
「鷲尾だけでなく、崇司さんまで」
怒りと悲しみがない混ぜになった表情は血の気を失っていた。榊は麗子を彼女のマンションまで送り届けた。
「榊くん、お願いだから危ないことはやめて」
別れ際の麗子の言葉に、榊は無言で頷いた。
-夕刻、烏鵲堂
「何かあったのか」
烏鵲堂でのバイトを終え、帰ろうとした高谷は曹瑛の声に立ち止まる。振り向いた顔には憂いが含まれていた。長い睫毛を伏せて唇を引き結んでいる。
「うん、ちょっとね」
「それでは分からない」
曹瑛がここまで気にしてくれるとは、よほど酷い顔をしているのだろう。高谷は自嘲する。
「榊さんが最近、何か抱え込んでいるみたいで」
高谷はぽつぽつと話を始める。
「新宿の店にも顔を出してないし、烏鵲堂にも来てないよね」
いつも忙しそうにしているが、店にも顔を出さないなんて、と高谷は心配そうに俯く。
「電話をしてみればいい」
「うん、そうだよね・・・」
そういうときの榊には、高谷はいつも気を遣って距離を取ってしまう。榊の纏う暗い影に踏み込むことができない。榊もそれを望んではいないはずだ。
「ありがとう、話を聞いてくれて」
高谷は力無く微笑む。
「何の解決にもなっていない」
曹瑛の言う通りだ。
「そのうち電話、してみる」
そう言って、昨日もスマホを見つめてただ時間が過ぎてしまった。今夜もまた同じように思い悩むのだろう。
曹瑛はスマホを取り出し、メッセージを送った。仕込みを手早く済ませ、カフェスペースの照明を落とした。
烏鵲堂の裏口を通り、書店に入ってくる榊の姿があった。暗い書店の中で、本棚から灯りが漏れていた。榊は本棚をぐいと押した。重い本棚がスムーズにスライドし、地下への階段が口を開ける。裸電球の揺れるコンクリートの階段を降りてゆく。
「座れ」
地下の小部屋に置かれた西洋アンティ-クの椅子に曹瑛が足を組んで座っていた。その脇には高谷の姿もあった。榊は眉をしかめる。無言のまま席についた。
「俺を呼び出して、どういうつもりだ」
榊の声は冷静だが、苛立ちが滲み出ている。高谷を巻き込むな、と鋭い視線を曹瑛に向ける。
「お前はこの情報に興味があるはずだ」
「知った風な口を利くな」
榊は厚みのある唇を歪ませる。その気迫は極道時代から何ら変わっていない。高谷は榊の纏う雰囲気に肌がピリピリと痺れるような感覚を覚えた。
「新海武彦42才。かつてはオリンピックのライフル競技でメダリスト候補。しかし、ドーピングや賭博による裏社会との繋がりが明るみに出て追放された。以後、フリーのスナイパーとして仕事を請け負う」
曹瑛は手元の資料を読み上げる。榊は沈黙を守っている。
「仕事は選ばず、ヤクザから一般人まで、誰でもターゲットにする。これまで殺害したのは28人。その中に鳳凰会柳沢組若頭、鷲尾晃司の名前がある」
榊はテーブルに拳を叩きつける。その音に高谷はビクッと肩を震わせた。
「これは俺の問題だ」
榊は低い声で呟く。
「新海は執着心が強く、冷酷な男だ。ターゲットを追い詰めることを楽しみ、親しい人間をも狙う」
曹瑛はチラリと高谷を見やる。榊は奥歯を噛みしめた。こめかみが怒りで痙攣している。
「相手はプロのスナイパーだ」
「お前には関係ない」
榊は吐き捨てるように言う。
「榊さん・・・」
高谷は何か言おうとして押し黙る。きっと、榊は一人で極道時代の兄貴分の仇を討とうとしている。それを止められないことは分かっていた。シャンデリアの光の下、耐えがたい沈黙が流れる。
階段をドタバタと駆け降りてくる音が聞こえ、榊と高谷は顔を上げた。現れたのは伊織だった。
「こんばんは、お店に寄ったら今から焼くって言われて、時間がかかっちゃった。でもおかげで熱々だよ」
伊織がテーブルに鯛焼きを並べる。
「これがあんで、こっちはカスタードとチョコ」
これまでの空気を知らない伊織は、榊と高谷の醸し出す深刻なオーラに初めて気が付き、曹瑛に目線で助けを求める。
「伊織、あんをくれ」
曹瑛が手を伸ばす。
「うん・・・」
伊織はあん入りの鯛焼きを曹瑛に手渡した。そして無言のまま椅子に座る。
スマホに届いたメッセージはこうだった。榊と高谷が来ている。烏鵲堂に寄れるなら鯛焼きでも買ってきてくれと。
「瑛さん、これどういうこと」
伊織が小声で囁く。
「鯛焼きが食べたかった」
「俺は帰る」
榊は立ち上がる。
「お前が他の奴に殺されたとなれば、寝付きが悪い」
「俺はそんなヘマはしない」
榊は背を向けたまま、階段を上ろうとする。それを伊織が引き留めた。
「離せ」
「ダメだ、榊さん。一人でどうにかしようとしてるだろ。“龍神”のときもそうだった」
振り返る榊の目を伊織がじっと見据える。榊は縁なし眼鏡の奥から伊織に鋭い視線を向けるが、伊織は怯まない。
「榊さんを大事に思っている人がたくさんいるんだ。だから、一人じゃない」
腕を振りほどこうとしたが、伊織の力は意外と強かった。榊はため息をついた。その顔はどこか穏やかだった。
「鯛焼き、どれにする?」
伊織に促されて椅子に座る。曹瑛がティファールでお湯を沸かし始める。紫陽毛尖をグラスに淹れ、お湯を注いだ。清々しい緑茶の香りが心を落ち着ける。
「それで、何の話だったの」
伊織の言葉に、高谷と榊はお茶を吹きそうになるのを堪えた。曹瑛が雑に状況を説明する。
「凄腕のスナイパー!?そんなのヤバすぎる・・・」
遅れて衝撃を受けた伊織の顔から血の毛が引いていく。
「捕まえてブン殴るだけでは足りないぜ」
榊はいつもの調子に戻ったようだ。高谷も安堵している。
「以牙还牙,以眼还眼」
「目には目を、ってこと?」
曹瑛の呟きに伊織が反応する。曹瑛は頷く。
「相手の武器はライフルか。孫景に頼めば調達してもらえるぞ」
「俺はライフルなんて撃ったことがない」
曹瑛の提案に榊は首を振る。
「いや、待てよ」
榊は何か思いついたようだ。カスタード味の鯛焼きを手に取り、かじりついた。
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