4年目の復讐劇

第1話

 朝もやに煙る道場は静謐な空気に満たされていた。素足で踏む板張りの床は冷たく、気持ちが引き締まる。吐く息が白く凍り付いた。榊は弓を引き絞り、息を止めた。張り詰めた弦に緊張が漲る。意識を真っ直ぐ正面に集中し、弦を弾く。後方に腕を伸ばしたまま、矢の行く末を見守る。

 風を切って飛んだ矢は的の木枠を削った。中心にはほど遠い。息を吐き、腰に弓を戻した。心ここにあらず、ということは分かっていた。


 品川の自宅マンションから徒歩30分の場所にある須ヶ原神社には境内の脇に弓道場があった。弓道は高校生の頃に部活で始めた。いわゆる幽霊部員だったが、外部講師が来るときだけは顔を出し、心得を学んだ。

東京に出てからしばらくは疎遠になっていたが、自宅近くに弓道場があるのを知り、精神統一のために時折矢を番えに来るようになった。


 的を射た時の爽快感も好きだが、それよりも弓を引くときの緊張感、真っ直ぐ先を見据え、集中力が高まる瞬間が心地良かった。心が乱れていれば、的を外す。自分と向き合える瞬間だった。


 榊は弓と矢を仕舞い、道場に一礼した。振り返ると、顔馴染みの宮司が穏やかな笑顔で会釈する。

「いつもながら凜々しい立ち姿です。しかし、今日は心に迷いがあるようですね」

「見抜かれるものですね」

 榊は自嘲する。

「またいつでもお越しください」

「ええ、ありがとうございます」

 榊は深々と頭を下げた。


 椿の花が朝露に濡れている。ひんやりと冷気を放つ石畳を歩き、境内を後にした。石段で立ち止まれば、朝日が街を照らし始めていた。ガラス張りのビルの輝きが眩しくて榊は目を細める。いつもと変わらない朝日だ。だが、今日は特別な日だった。


 マンションに戻り、コーヒーを湧かした。サラダにトーストと卵で簡単な朝食を済ませた。フィリップモリスに火を点け、ベランダで煙をくゆらせる。それからクローゼットを開き、黒いスーツを取り出す。白のワイシャツに黒いネクタイを締めた。コートを羽織り、地下駐車場へ向かう。BMWのエンジンをかけ、冷たいハンドルを握った。


 狭い路地を抜け、舗装されていない駐車場に車を停める。助手席に置いた白百合の花束を手に取り、車を降りた。古い木の門をくぐり、墓石の並ぶ小道を歩く。この辺りでは珍しい黒御影の墓石の前で足を止めた。墓碑銘には“鷲尾”の文字が刻まれていた。

「兄貴、久しぶりだな」

 榊は花立てに水を注ぎ、白百合を生けた。コートのポケットから数珠を取り出し、手を合わせる。


 鷲尾は榊の極道時代の兄貴分だった。鳳凰会柳沢組の若頭で、大学生だった榊の男気に惚れ込んで、組に入らないかと誘ったのは鷲尾だ。柳沢組は小さな組だったが、鷲尾と共に過ごした日々はギラギラとした刺激に満ちていた。

 4年前、鷲尾は組同士の抗争で、組長の柳沢を庇い命を落とした。生きていれば、組はもっと大きくなっていたかもしれない。

「もっとあんたと一緒に暴れたかった。あんたが生きていたら、俺はカタギになっていないだろうな」

榊はぽつりと呟いて、踵を返した。


 BMWの運転席でネイビーのタイを締め直した。今日の予定をスマホで確認する。午前中に店舗リニューアルの打ち合わせが2件、午後は銀座の画廊の入れ替え立ち会いと建材・住宅設備の展示商談会が入っている。今日も忙しい一日になりそうだ。


 夜は新宿の小さなバーに立ち寄った。オーク材の扉を開くとダウンライトの店内にはカウンター席とボックス席が4つ。GOLD HEARTより手狭だが、一人で飲むには丁度良い空間だ。榊はカウンター席に座る。ダークブラウンの長い髪をまとめ、ワインレッドのドレスを着たママがグラスにブランデーを注ぐ。

「今年もこの日に来てくれたのね、榊くん」

 ママは穏やかな表情で微笑む。榊は軽く会釈をする。


「きれいな百合の花、ありがとう。毎年先を越されるわね」

「すみません」

 榊は頭を下げる。

「いいのよ、あの人も榊くんが来てくれるのをきっと喜んでいるわ」

 この店のママ、麗子は鷲尾の内縁の妻だった。年の頃は50が近いそうだが、水商売の女らしくないナチュラルメイクでずっと若く見えた。榊が初めて鷲尾に会った日、怪我をした腕の手当をしてくれたのも麗子だった。


 カウンターの端にいる男がじっとこちらを見ていることに気が付いた。榊は男に目を向ける。麗子がそれに気付き、紹介したいという。男が席を立ち、榊の隣に座った。

「この人は鷲尾崇司さん。晃司さんの弟さんなのよ」

 やや垂れた目尻に無精髭、口元を歪めて笑う仕草が鷲尾に似ていると思った。しかし、その目は疲れ切って、血走っている。鷲尾の目はいつも力に満ちあふれていた。


「君が榊くんか」

「どうも」

 榊は会釈をする。無意識に鷲尾の声を想像していたのか、意外と声が高いと思った。崇司はタバコを取り出し、ライターで火を点けた。

「兄貴がいつも君の話をしていたよ。いい弟分ができたってな」

 ふふ、と崇司は笑う。

「一度どんな顔なのか見てみたいと思っていた。兄貴の言うとおり、男前だ」

 麗子に榊が来る日時を聞いて、待っていたのだという。


「兄貴はバカだよ。あんな小物の親分の下について、そんなのを庇って死んだ。麗子さんも不幸だ」

 崇司はブランデ―をあおる。そこには苛立ちと、麗子に対する複雑な思いが滲み出していた。榊は黙ってフィリップモリスに火をつける。

「兄貴を殺した奴が分かった」

 崇司はグラスの縁を指でなぞりながら虚ろな目で呟く。榊は手にしたグラスを置いた。どういうことだ、鷲尾を撃ったのは敵対する組の若者だった。今は殺人罪で服役している。


「背中を貫通した銃弾が大動脈を損傷した。それが直接の死因だ」

 初めて聞く話に、榊は思わず崇司の顔を見つめる。

「若者の銃弾とは別に、スナイパーライフルの銃弾が見つかった。プロの仕業だ」

「なんだと・・・」

 榊は絶句する。

「誰が兄貴を殺したか、やっと掴んだ。新海武彦というライフルの使い手だ」

 グラスの割れる音に榊はハッと顔を上げる。テーブル席の客に酒を運んで戻った麗子が、顔面を蒼白にしている。


「崇司さん、あなた」

 崇司はブランデーを一気に飲み干した。

「バカな兄貴だが、俺のたった一人の兄貴だった」

 崇司は席を立つ。一万円札をカウンターへ置いて、後ろ手に手を振りながら店を出て行った。

「彼は鷲尾が死んでから、ときどきここに飲みに来てくれるようになったの。鷲尾は愚かだったって、お酒が入るといつもそんなことを言って」

 麗子はグラスの破片を拾い上げる。小さく呻く声がして、美しい形の眉が歪んだ。破片で切ったのだろう、指から真っ赤な血が一滴流れ落ちた。


「大丈夫か、麗子さん」

「ええ、ちょっと動揺して」

 麗子は作り笑顔を向ける。その表情が痛々しく、榊は目を細めた。

「崇司さん、どうするつもりなのかしら。彼は医者なの。極道の世界とは無縁なのよ」

「俺も新海という男、調べてみよう」

「危険なことはしないでね、榊くん」

 麗子の言葉に無言で頷くと、榊はタバコを揉み消し席を立った。

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