第2話

 天丼屋を出て、曹瑛は劉玲と電話をしている。夜風が吹き抜けて、先ほどまで熱々の天丼とお茶で温まっていた体が瞬時に冷えた。

 伊織は聞き耳を立てながら寒さを紛らわせるために足踏みをしている。

「ええなあ、鍾陽いうたら今をときめく大スターやで。若い子からマダムまで渋い色気にやられとる。さらに男でも憧れる格好良さや。サインもろてくれよ」

 電話口の向こうの劉玲は、鍾陽に会えたことを羨ましがっているようだ。

「そんなことはどうでもいい、何か分かったのか」

 曹瑛はあくまでも大スター自身には興味がないらしい。


「鍾陽はん、北京の通信大手のイメージキャラクターの依頼を断ったそうや。その企業は黒社会と繋がっている、それが理由や」

 曹瑛は無言で劉玲の話を聞いている。

「しかし、企業のオーナーが面子を潰されたと憤慨して鍾陽はんを狙うようごろつきを差し向けたという話や。日本で事件が起きれば報道される。俳優業を引退させるつもりや」

「わかった」

 曹瑛はスマホをポケットにしまった。


「鍾陽さんが悪い奴らに狙われている・・・」

 伊織は唇を噛む。インタビューで彼の人柄を垣間見ることができた。俳優の仕事に誇りを持ち、真剣に努力していることが伝わってきた。そんな人の未来が勝手な人間の手で奪われるなんて。

「怒ってるのか」

 曹瑛が伊織の顔を横目に見る。伊織は口をへの字に曲げている。

「明日現場に行って、鍾陽さんに危険だと知らせる」

「今夜あたり危ないかもしれないな」

 曹瑛の言葉に、伊織は青ざめる。曹瑛はスマホで電話をかけ始めた。中国語で会話をしている。相手は鍾陽のようだ。


「鍾陽は品川のホテルに宿泊している。お前の取材が途中になっていることを気にしていた。これから行くか?」

「え、いいの?」

 曹瑛の意外な言葉に、伊織は驚いて目を見開く。

「明日もスタントを頼まれた。奴が死んだらそれが果たせないからな」

 曹瑛も鍾陽を助けるつもりなのだ。

 Ninjaが夜の街を駆ける。行き先は品川ハイアットホテルだ。普段より飛ばしている。伊織は吹っ飛ばされないよう必死で曹瑛にしがみついた。


 地下駐車場にNinjaを停め、エレベーターで鍾陽の宿泊する15階へ上がる。1508号室をノックすると鍾陽が顔を出した。

「俺は用がある」

 曹瑛は廊下に残った。鍾陽の部屋に招き入れられた伊織はどきまぎしながら会釈をする。昼間は編集長の王麗鈴が一緒だったが、今は大スターと1対1だ。

「どうぞ、座って」

 ゆっくりと丁寧な中国語で話しかけられる。王麗鈴と話をしていたときはもっと早口だった。伊織に気を遣ってくれているようだ。応接セットの豪華なソファに腰を下ろす。思いのほかクッションが良くて、体がすぽんと沈み込んだ。

「今日は君が友達を紹介してくれて本当に助かったよ」

 鍾陽が笑顔を向ける。

「まさかスタントをするとは思ってなくて、怒られちゃいましたけどね」


―1507号室

 その頃、曹瑛は隣の部屋で息を潜めていた。コンコン、とノックの音がする。曹瑛は返事もせず、沈黙を守っている。ノックの音はだんだん大きくなり、次の瞬間、ドアは乱暴に蹴破られた。

 黒ずくめの男が2人、警戒しながら部屋に侵入してきた。後ろ手にドアを閉め、部屋の様子を伺っている。ベッドに寝ている鍾陽を見つけ、近づいていく。ふとんをかぶって眠っているようだ。男たちは胸元から銃を取り出した。銃口にはサイレンサーが取り付けてある。躊躇いもなく、ベッドの膨らみに向けて引き金を引いた。


 バスルームに潜んでいた曹瑛が気配を消して男たちの背後に近づいていく。鳥打ち帽をかぶった男の首筋に手刀を入れて気絶させた。相棒が床に倒れたことに気付いたもう一人の細眉の男は振り向きざまにこめかみに肘を食らい、床に転がった。


―1508号室

「ぼくは貧しい地方の出身でね。実家は車の修理工場、祖父母のやっている畑のおかげでなんとか生計を立てていた」

 鍾陽はぽつぽつと生い立ちを語り始めた。子供の頃を思い出しているのか、優しい表情をしている。

 小学校にやってきた劇団の芝居を見て大泣きするほど感動し、俳優を目指そうと決意したという。青年期は必死で働いてお金を貯めた。不退転の決意で北京の俳優養成所へ通い始め、なんとか量産される抗戦ドラマに端役として使ってもらえるようになった。


 それから10年ほどは全く鳴かず飛ばず、深夜のアルバイトをしながらも俳優業をこなす過酷な毎日が続く。

 ある時、転機が訪れた。知り合いのつてで引き受けたモデルの仕事から、整った目鼻立ちと落ち着いた雰囲気が注目され、人気ドラマの出演にこぎつけることができたのだ。そこでの演技が評価され、今の立場があるという。


「故郷の学校に図書館を建てるのが夢なんだ」

 鍾陽は穏やかな笑みを浮かべている。

「本を読んで、いろんなことを知れば人生が豊かになる。何も無い田舎で視野を広げることはとても難しいんだよ」

「とても素晴らしいです。ぜひ実現させて欲しい」

 伊織は感動してもらい泣きをしている。

「不思議だな、こんなことは誰にも話したことがない。君の前ではリラックスしてしまうのかな」

 鍾陽は話したことはすべて記事にして良いと言ってくれた。


 隣の部屋で大きな物音がした。何者かが荒々しくドアを開けたようだ。伊織と鍾陽に緊張が走る。そのまま息を殺していると、2度、重いものが落ちるような音がした。

「鍾陽さんは隠れていてください」

 伊織はベッドサイドにあったルームランプを手にした。鍾陽はバスルームに身を隠す。

「君も隠れるんだ」

「いえ、誰かが入って来たらこれでぶん殴ります。その隙に逃げましょう」

 伊織の真剣な顔に、鍾陽は驚いた。そうは言ったものの、正直怖い。ルームランプを握る手は震えている。音を立てないようドアの近くに移動し、武器を構えた。


 ノックの音がする。伊織は息を呑む。鍾陽が慌てて近づいてきた。

「危ないですよ」

「鍵をかけていない」

 鍾陽の言葉に、伊織は急いでドアの鍵をかけようとする。それより先にドアが開いた。伊織は必死でルームランプを掲げ、叫び声を上げる。

「おおっ、なんだ」

 部屋に入ってきた男は一瞬ひるんだが、やすやすとそれをかわした。

「いきなり危ないやつだな・・・お前は伊織か」

 そこに立っていたのは郭皓淳だった。


「え、なんで郭皓淳さんがここに」

「それは俺の台詞だ、なんでここにいる」

 郭皓淳も伊織の顔を見て驚いている。

「彼は同郷の友人なんだよ」

 鍾陽は郭皓淳の姿を見てホッと胸をなで下ろした。

「隣の部屋は当初泊まる予定の部屋だったんだ。さっきの物音は何だろう」

 鍾陽の言葉に、伊織はハッと気がついた。先ほどの物音は、鍾陽を狙う暴漢が部屋に押し入ったためだ。曹瑛は鍾陽が襲われることを見越して部屋を変えさせたのだ。


「まさか、瑛さん」

 伊織は隣の1507号室のドアを開いた。ベッドの上に曹瑛が座っている。

「大丈夫?・・・あっ、大丈夫じゃない」

 伊織は曹瑛の足元を見る。黒ずくめの男が転がっている。横を向けば、椅子に手足を縛られた鳥打ち帽の男がぐったりしていた。

「起きろ、いつまで寝ている」

 曹瑛が足下の男を蹴る。男は唸りながらのろのろと体を起こす。曹瑛に気付いて、殴りかかろうとする。


「・・・!」

 額に銃が向けられ、細眉の男は動きを止めた。部屋に入ってきた鍾陽は黒ずくめの見知らぬ男たちと曹瑛の手にした銃を見比べて、戸惑いを隠せない。

「曹瑛、お前も絡んでいるのか」

「なんでお前がいる」

 曹瑛は郭皓淳の顔を見て一気に不機嫌になる。

「鍾陽は狙われている。今からこの男に依頼者と所属を尋ねるところだ」

 曹瑛は銃を胸にしまい、代わりに背中から愛用のナイフ、赤い柄巻のバヨネットを取り出す。男の首筋に当てれば、強面の細眉はヒッと声を上げた。


「手伝おう」

 郭皓淳がポキポキと指を鳴らす。営業スマイルが妙に恐ろしい。

「余計な世話だ」

 曹瑛は郭皓淳を睨み付ける。廃ビルでの戦いを根に持っているようだ。郭皓淳はそれを気にも留めず、まあまあと細眉を椅子に座らせる。細眉は何をされるのか不安に怯えながら郭皓淳を見上げる。

「楽にしていろ」

 郭皓淳は男の靴を脱がした。いよいよ訳が分からない。おもむろに足マッサージを始める。

「な、なんだ・・・おい、やめろ」

 そういいながらもマッサージが気持ち良いらしく、細眉はまんざらでもない様子だ。


「ぎゃっ」

 突然、細眉が声を上げて身もだえる。

「肝臓が悪いな、酒の飲みすぎじゃないか」

 郭皓淳が指でぐりぐりと男の足裏を押している。細眉の顔は痛みに耐えきれず、恐ろしく歪んでいる。人体のツボを知り尽くした郭皓淳の恐怖の足ツボ攻めだ。

「相変わらず悪趣味な奴だ」

 曹瑛がその様子を見て呆れた顔でぼやく。

「ぎえっ」

「ここは腎臓だな。不摂生は体に悪いぞ」

 笑顔で足ツボを攻める郭皓淳に、伊織は思わず顔を背ける。今度神保町の“蓮花”に行くときは、この人には絶対にマッサージを頼まないようにしようと心に誓った。

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