第2話

 伊織はマッサージにすっかりハマっていた。取材が順調に終わり、時間ができたので「蓮花」へ向かった。今日で4回目、これまですべて郭天宇が担当してくれた。若いのに腕がいい。狭い階段を上り、蓮のイラストの看板のついたドアを開ける。

「いらっしゃい、今日はどうする?」

 カタコト日本語の店主とも顔馴染みになってしまった。伊織はソファに座るよう促される。


「今日も足湯ともみほぐしでお願いします」

 伊織が店内を見回す。いつもなら郭天宇が顔を出して施術エリアに案内してくれるのだが。

「郭天宇はお休みだよ」

 郭天宇と話をするのも楽しみのひとつだったので、伊織は心持ち残念に思った。中年女性の施術師がこちらへ、と伊織を案内する。リクライニングのついたソファに腰掛けて施術師を待った。カーテンが空いて顔を見せたのはあの長身の髭面の男だ。伊織は思わず目を見開いた。ここの店員だったのか。

「よろしくお願いします」

 髭の男は思いがけず温厚な笑みを浮かべた。伊織もお願いします、と反射的に頭を下げる。


 男は湯を張った桶に手を入れ、温度を確かめている。伊織は緊張しながらその様子を見ている。

「弟がいつも君の話をしている」

 男は慣れた手つきで湯に漢方薬を流し込み、伊織に足をつけるよう促す。

「郭天宇さんのお兄さんですか」

 それを聞いて、伊織は内心ほっとした。最初見たときの妙な威圧感のインパクトが強く、戦々恐々だった。それに烏鵲堂で曹瑛と不穏な雰囲気で話をしていたことも気になっていたが、彼の兄弟なら悪い人ではないだろう。

「天宇は年の離れた弟でね。俺は郭皓淳だ」

 桶に足を入れると、心地良い温度にホッとする。


 足湯をしている伊織の背後に郭皓淳が立つ。伊織は思わず背筋がゾクリとするのを感じた。背中に鳥肌が立っている。背後の郭皓淳の存在を肌で感じるというか、妙に落ち着かない。

 肩を竦めていると、郭皓淳の手が肩を滑る。大きな手だ。そしてゆっくりと肩から首を揉み始めた。

「強さは大丈夫かな」

「はい」

 穏やかな声だ。肩を揉む強さも良い塩梅で、気持ちがいい。いつの間にか先ほどの妙な気配は消えていた。

 彼は河南省の農村の出身で、日本に暮らす弟を訪ねてやってきたという。「蓮花」の正式な店員ではなさそうだ。地元では省都の鄭州でマッサージ店を営んでいるという。郭天宇の繊細な施術も良かったが、郭皓淳もかなり上手い。中国人はなぜみんなマッサージがこんなにも上手いのだろうか。曹瑛も実は上手いんじゃないだろうか、頼んだところで無視されるだろうが。


「ありがとう、気持ち良かったです」

 肩も足も軽くなった。これはやみつきになりそうだ。

「俺は鍼が得意だ。また試しに来るといい」

 郭皓淳は笑顔を向けると、カーテンの向こうへ消えていった。テーブルに店主が温かいお茶を用意してくれていた。伊織はソファに腰掛けた。店長はパソコン画面とにらめっこしている。ネット予約システムを導入したものの、まだ慣れないらしい。


 ふと、奥から郭皓淳の低い声が聞こえてきた。中国語だ。先ほどの愛想のある声音とは打って変わって、感情を抑えた響きだ。店長と他愛の無い話をしながら、伊織は郭皓淳の言葉に耳の全神経を集中させていた。神楽坂、FKビル、今夜20時に、と単語が聞き取れた。誰かと待ち合わせをするようだ。

 代金を支払い、伊織は店を出た。胸騒ぎがして、烏鵲堂へ足を向ける。


 夜7時前、1階の書店は半分シャッターを下ろして閉店準備をしていた。カフェスペースを覗けば、厨房に明かりがついている。曹瑛が先ほどまで操作していたのだろう、テーブルの上でスマホ画面が光っていた。いけないと思いつつ、目に入った画面には地図が映っていた。神楽坂と駅名が見えた。嫌な予感が的中したことに胸が疼く。

 曹瑛が階段を降りてきた。黒のスーツに臙脂色のタイ、ロングコートを羽織り、闇に溶け込んでいる。曹瑛はテーブルのスマホを取り上げ、ポケットにしまう。


「瑛さん、これから出掛けるんだ」

「ああ、今日は遅くなる」

 曹瑛は伊織を一瞥し、それだけ言って階段を滑るように降りていく。取り残された伊織はその背を不安そうに見守るしかなかった。

 バイクのエンジン音が唸り、エグゾーストが遠のいていく。おそらく、神楽坂のFKビルへ向かったのだろう。


「あ、伊織さん、お疲れ様です」

 書店のシャッターを閉める高谷が伊織に声をかける。

「曹瑛さん、珍しく今日は店じまいは俺に任せるって。何か用事があるのかな」

「そうみたいだね」

「ちょっと怖い顔してたね」

 高谷の言葉に伊織は表情を曇らせる。友人との待ち合わせなら、そんな顔をするだろうか。曹瑛のプライベートを詮索はしたいわけではないが、妙に気にかかる。伊織は高谷と別れ、悶々としながら神保町駅へ向かう。


 スマホで神楽坂のFKビルを検索してみる。倒産した会社の住所として表示された。もう嫌な予感が悪寒に代わる。伊織はスマホを握る手に力を込めた。曹瑛は何か深刻な問題に巻き込まれている。間違いならそれでいい。現場の様子を見て、邪魔をせず引き返す、そうしよう。伊織は唇を一文字に引き結んで顔を上げた。


 曹瑛は路地裏にバイクを停め、ヘルメットを脱ぐ。指定されたビルは廃墟になって間もないようだ。新しい借り手を求める看板が風に揺れている。曹瑛は北側の非常階段を上がっていく。郭皓淳に指定されたのは3階フロアだ。鍵は開いていた。

 ビル内に足を踏み入れる。目の前には暗い廊下が延びている。廊下の先に広い部屋が見えた。電気は止められているが、周囲のビルのネオンの明かりがガラス越しに室内を照らしている。


 打ちっぱなしのコンクリート天井が冷気を放っていた。3フロアをぶち抜いた構造で、いくつか太い柱が通っている。面積はかなり広い。使われなくなったデスクや椅子が壁際に残されているほかは何もない。ガランとした殺風景な部屋だ。

 中央の柱にもたれて腕組をする男の姿があった。白い長羽織の下には黒い長袍を纏っている。郭皓淳だ。曹瑛をじっと見据えている。


「来たか」

 郭皓淳が口を開く。

「話だけは聞いてやる」

 曹瑛は郭皓淳の前まで歩み寄り、立ち止まる。部屋の中に原色のネオンが射し込む。赤、黄色、オレンジとめまぐるしく切り替わる光が郭皓淳を照らしている。

「日本人の研究者を保護して、中国の組織に引き渡す。それで大金が手に入る」

 曹瑛は微動だにせず、沈黙を守っている。

「かつて、ハルビンの地下プラントで極秘の研究をしていた男だ。彼は幻のドラッグ“龍神”の製法を知っている」

 “龍神”というキーワードに曹瑛は唇を歪める。

「率直に言う。お前と組みたい」

「断る」

 曹瑛の言葉に郭皓淳は唇を緩める。予測していた答えだった。


「小笠原義郎、龍神の対抗薬を研究していた男だな」 

 郭皓淳は顔を上げる。

「何故その名を知っている」

「裏の情報網で小笠原が狙われていると聞いていた。目的は“龍神”の復活」

 曹瑛の低音には静かな怒りが含まれているのが見て取れた。

「お前は“龍神”の真の目的を知っているか。狂気のドラッグ、暴力と破壊。犠牲になるのはいつも持たざる者だ」


「小笠原が保護された後にどうなるのか俺の知るところではない。彼を引き渡せば金が手に入る、ただそれだけだ。だが曹瑛、お前はこの件に反対のようだ」

 郭皓淳は肩を揺らして笑う。

「話は終わりか、帰るぞ」

 曹瑛は踵を返す。

「4年前、お前に初めて会ったときを思い出す。鮮やかな仕事ぶりは見事だった。俺が誰かと組みたいと思ったのは、お前が初めてだ、曹瑛」

 曹瑛は立ち止まり、郭皓淳を見つめる。


「お前はいずれ邪魔になる。この件に協力しないならお前を排除しなければならない」

 白い羽織の両側の袖から針が突き出した。郭皓淳は手の平を曹瑛に向ける。中指に嵌めたリングに鋭く光る針が取り付けられている。全長約30㎝ほどの針の中心がリングに留められている。

 4年前、安徽省合肥市での任務。背後で河南帝鴻会の針使いの男が暗躍していた。それが郭皓淳だった。沈着冷静で正確な仕事をする男だと感心したのを覚えている。できれば、ぶつかりたくはないと思ったことも。


「峨嵋刺か」

 峨嵋刺は中国武術における暗器だ。郭皓淳が指で弾けば、針がくるりと回転した。郭皓淳は構えを取る。曹瑛は背中から赤い柄巻のバヨネットを取り出した。

 互いに睨み合い、間合いを取る。窓の外のネオンが一瞬消え、部屋が薄闇に支配された。

 2人は同時に動いた。郭皓淳は峨嵋刺で曹瑛の喉元を狙う。曹瑛はバヨネットで攻撃を弾き飛ばした。


「さすがだな、東方の紅い虎と異名を取るだけのことはある。並の者なら先ほどの一撃で死んでいる」

 郭皓淳は峨嵋刺をくるくると回転させる。曹瑛の間合いに踏み込み、両手の峨嵋刺で攻撃を繰り出す。曹瑛もバヨネットで応戦する。両側からの流れるような攻撃は一瞬たりとも油断ならない。バヨネットが郭皓淳の腕を切り裂いた。郭皓淳は飛び退いて大きく間合いを取る。


 郭皓淳の腕から流れ出した血がしたたり落ち、冷たいリノリウムの床に花弁文様をつけていく。頬にも生暖かいものを感じた。

「八虎連を抜けても、腕は鈍ってはいないようだ」

 郭皓淳は指でそれを拭い。舐め取った。

「無駄な殺しはしたくない。だが、降りかかる火の粉なら振り払う」

 曹瑛は郭皓淳に鋭い眼差しを向ける。背中に峨嵋刺の一撃を受けた。傷は浅いが、痛点を狙う攻撃は、蓄積するとダメージが想像以上に大きいだろう。曹瑛はギリと奥歯を噛み、背中の痛みを押し殺した。


 曹瑛が一歩大きく踏み込む。バヨネットで郭皓淳の脇腹を薙ぐ。羽織と長袍が綺麗に裂けた。郭皓淳の峨嵋刺が曹瑛の上腕を狙う。曹瑛はそれを弾き飛ばし、間合いを詰めた連続攻撃で郭皓淳を追い詰める。首筋、胸元、大腿と皮膚が裂け、鮮血が流れ出す。曹瑛も上腕と脇腹に峨嵋刺を受け、顔を歪めた。

 しかし、勝負の流れは明らかだ。このまま曹瑛に深々と致命傷を与えるのは難しい。曹瑛のバヨネットが郭皓淳の鎖骨を砕いた。鮮血が迸る。曹瑛は眉を顰めた。郭皓淳は攻撃を避けることはできたはずだ。その隙をつき、郭皓淳は口に含んだ針を吹いた。


「ぐ・・・」

 3㎝ほどの髪の毛のような細い針が曹瑛の目尻に刺さっていた。曹瑛は郭皓淳から大きく飛び退いた。

「悪いな、一時的にだがお前の視力を奪った。どうあってもお前に邪魔をされるわけにはいかないのだ」

 ネオンの明かりがぼんやりと霞んでいく。針に突かれた右目がだんだんと視力を失っていくのを感じた。曹瑛は小さく舌打ちをする。

 郭皓淳が手にした黒い玉を床に投げつけた。火花が散り、黒い煙が立ちこめる。物理的にも視界を奪う気だ。郭皓淳は黒煙の中に姿を消した。


 暗殺者は己の気配を消すことができる。郭皓淳も例外ではない。曹瑛はその場から動かず、左目で周囲を見渡す。衣擦れの音が右手から聞こえた。暗闇から飛来音が聞こえたと思うと肩に鋭い痛みを感じた。

 見れば、直径3ミリほどの針が2本、右の肩口に突き立っている。曹瑛はそれを抜き取り、床に投げる。カラン、と乾いた金属音が響いた。

 右手の感覚がおかしい。指が痺れていく。

「お前の右手の神経を麻痺させた。その手では箸も持てまい」

 暗闇から郭皓淳の声が響く。曹瑛は声のする方に左手でスローイングナイフを放つ。ナイフは壁に突き刺さり、獲物を外したようだ。その瞬間、左腕にも痛みを感じた。腕の力が抜けていく。


 右腕は感覚を失い、バヨネットがその手からこぼれ落ちた。左手の感覚もなくなっていくのを感じた。黒煙が動いた。郭皓淳の峨嵋刺が曹瑛に襲いかかる。曹瑛は肩の力で腕を振るい、それを何とか防いだ。致命傷は避けられたが、肋骨の隙間を突かれた痛みに曹瑛は目を細めた。

「見上げた精神力だな。だが、どこまで持つか」

 気配はまた消えていく。煙幕がまた張られ、狭い空間の中で闇はその濃さを増してゆく。

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