闇からの招待状

第1話

 地下鉄神保町駅から烏鵲堂まで徒歩5分、その間にはマニアックな蔵書の古書店や昭和の時代から続く喫茶店など味わいのある店が並んでいる。

 最近では、駅を出てすぐの路地にある店のあんがぎっしり詰まった鯛焼きにハマっている。烏鵲堂に立ち寄るうちにこの町にも詳しくなり、愛着が湧いてきた。

 仕事帰りに新しい店を開拓しようと、神保町駅を出た伊織は烏鵲堂を通り過ぎた路地を曲がってみた。ふと、マッサージ店の看板が目に留まった。中国式マッサージが30分から受けられるようだ。


「へえ、マッサージかあ」

 伊織は看板をまじまじと見つめる。最近、帰宅してからも企画出しで精力的に調べ物をして、原稿を書いている。好きな仕事なのでつい熱が入り、夜更かしをすることも多い。執筆が集中する時期には肩凝りもひどくなる。

 リラクゼーションには無縁と思っていたが、一度体験してみようという気になった。何かしら記事のネタになるかもしれない。


 マッサージ店は2階と書いてある。雑居ビルの狭い階段を上ると、古くさいすりガラスの扉に「中国式マッサージ 蓮花」と看板が貼り付けてあった。ガラスごしの室内は薄暗く、正直胡散臭い。伊織はドアノブに手をかけようとして、どうしようか迷い始めた。

「こんにちは、さあ入って入って」

 突然、扉が勢いよく開いた。紺色の漢服風詰襟ジャケットを来た初老の男性が顔を出して、伊織を中へ招き入れる。伊織は満面の笑みで手招きされてさすがに断り切れず、店内へ足を踏み入れる。


 白檀が香りが鼻をくすぐる。お香を炊いているのだろう。優しく、心地良い香りだ。半ば強引に勧められるままに伊織はソファに腰掛けた。すぐに温かいお茶が出てくる。

「どのコースにしますか」

「えっと・・・この足浴って何ですか?」

 見慣れない言葉が気になって尋ねてみた。足マッサージのことだという。今日は取材で結構歩きまわって疲れたこともあり、伊織は足浴を体験することにした。


 部屋は紫色の薄いカーテンで仕切られている。伊織は豪華なソファに座らされる。先ほどのおじさんと同じ漢服ジャケットを着た若い男性施術師が大きな桶を持ってやってきた。桶の中には湯が張ってある。伊織は裸足になるよう促される。

「こんにちは、よろしくお願いします」

 少したどたどしいが、きれいな発音で挨拶をされた。伊織もよろしく、と返す。時折聞こえる会話から、ここのスタッフは全員中国人のようだ。足を湯につけるよう言われ、ゆっくりとさし入れる。

 湯は少し熱めだったが、だんだん慣れて心地良い温度になってきた。施術師がこれは漢方ですよ、と説明しながら入浴剤のような粉末を湯に溶かした。

「わあ~気持ちいい」

 漢方独特の匂いが漂い、足がぽかぽかと温まってくる。施術師はその間、伊織の肩や腕をもみほぐしにかかる。


「お兄さん、随分凝ってますね」

 施術師のしなやかな手がピンポイントでツボを押していく。マッサ―ジなんて始めただが、これはハマりそうだ。

「パソコンを使う仕事で、肩が凝るよ」

 伊織が仕事で日本と中国の文化交流の雑誌を作っていることを話すと、そこから話が盛り上がった。施術師は26歳で、日本に来て5年になるという。

 身体がほぐれ、湯から足を上げて足裏マッサージが始まる。足ツボは時々悲鳴を上げそうになるくらい効いたが、丁寧な施術に感動しきりだった。


「ありがとう、身体が軽くなったよ」

「どういたしまして」

 若い施術師はにっこりと微笑む。どこか目の焦点が合っていない。

「私は少し目が悪い、でも不自由はないですよ」

 伊織の反応に気がついたのか、施術師が説明する。マッサージ、いわゆる按摩は視覚障害者の伝統的な仕事のひとつと聞いたことがある。

「とても上手だったよ、また来ますね」

 伊織も笑顔を返した。施術師の名札には郭天宇と名前が書かれていた。


 店を出るとき、入れ違いに黒のブルゾンにジーンズ姿の背の高い男が入って来た。一重瞼の切れ長の目、口髭を生やした妙な迫力のある男だ。店のドアが閉まると、中国語の会話が聞こえてきた。どうやら身内のようだ。

 ポイントカードも作って貰ったし、鍼やお灸もあるよと勧められたので、伊織はまた来てみようと思いながら階段を降りていった。


「いや~まさにゴッドハンド、すごく良かったよ。瑛さんも行ってみるといいよ」

 その足で烏鵲堂に向かった伊織は、曹瑛に足浴を勧めていた。

「肩が凝るのは運動不足だ、筋肉をほぐせ。ストレッチをしろ」

 どうも曹瑛には不要のようだ。中国には足浴の店は星の数ほどあり、別段珍しくもないという。さほど興味無さそうに厨房に引っ込んでいった。


 その後も伊織はマッサージ蓮花に時々通うようになった。郭天宇とも顔見知りになり、お互いの故郷の話や、好きなアーティストの話で盛り上がった。郭天宇は日本の歌手が好きだという。好きが高じて日本語を覚えて、知り合いの縁を頼り、この店で働いていると教えてくれた。

「この近くに烏鵲堂というブックカフェがあるの知ってる?」

「お客さんから評判が良いと聞きます。本格的な中国茶が飲めるお店ですね」

「今度一緒に行こう。友達のお店なんだよ」

 伊織の誘いに郭天宇は嬉しそうに頷いた。


 身体が軽くなった伊織が上機嫌で烏鵲堂に立ち寄ると、あの髭の男がテーブルにいた。印象深くて、よく覚えている。曹瑛と中国語で会話をしている。なんとなく不穏な雰囲気を感じて、伊織は離れた席についた。男はグラスの茶を飲み干し、静かに階段を降りて行った。

「瑛さん、あの人と知り合いなの」

 伊織がおずおずと尋ねる。

「お前に関係ない」

 曹瑛は憮然としている。愉快な話では無さそうだ。深掘りするのも気が引けて、それ以上何も言えなかった。

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