遙かなる故郷

第1話

 階段を登ってくる足音に曹瑛が顔をしかめる。閉店後の烏鵲堂カフェスペースに堂々と入ってくる人間は限られている。黒いハーフコートを羽織り、縁なし眼鏡をかけたいけ好かない男が手を振る。


「榊さん、こんばんは」

 テーブルで読書をしていた伊織が声をかける。

「よう、この間は面倒をかけたな」

 ライアン・ハンターの見合いのことだ。望まない見合いを破談にしてくれとライアンに頼まれ、曹瑛を巻き込んでのニューヨークのイタリア系マフィアとの乱闘騒ぎになった。伊織と高谷も非力ながら危険を顧みず奮闘してくれた。榊は伊織に紙袋を手渡す。受け取ってみると温かい。

「よくものこのこと現れたな、榊」

 黒い長袍姿の曹瑛が腕組をして、暗い瞳で榊を睨み付けている。


「そう怒るな、お前もひとつどうだ」

 榊が伊織に手渡した袋を指さす。伊織が紙袋を開けるとふわっと香ばしい匂いが漂ってきた。

「すごい、大きな鯛焼き」

 伊織は覗き込んで思わず声を上げる。尻尾の先までぎっしりあんが入った鯛焼きだった。

「寒い日はこういうのもいいだろう」

 榊はコートを脱ぎ、椅子に座る。伊織と曹瑛にひとつずつ勧めて自分もかじりついた。曹瑛は厨房で手早く武夷水仙を淹れてテーブルに持って来た。それから手にした鯛焼きをじっと見つめている。


 伊織は頭からかじりついた。

「伊織は頭から派だな」

 榊の言葉に伊織は食べかけの鯛焼きを見る。

「そうだね、気にしたことないけど大体頭から食べるかな。榊さんは尻尾なんだ」

「尻尾のこのパリパリがいい。曹瑛はひれからだな」

 それぞれにこだわりがあるらしい。

「鯛焼きの食べ方で性格が分かるの知ってるか」

 榊の言葉に伊織と曹瑛は首をかしげる。

「頭からの伊織は大雑把で楽天家、俺はしっぽだから慎重派のロマンチスト。曹瑛はひれで甘えん坊の寂しがり屋ってとこだ」


「なにそれ、面白い。瑛さんは当たってる・・・」

 伊織が言い終わらないうちに曹瑛のデコピンが飛んだ。

「鯛焼きというのか、美味かった。しかし、こんなもので性格が決まるというのはいただけない」

 初めて鯛焼きを見て、その愛らしさにどこから食べるか迷った上での選択だった。曹瑛は次からは腹から食べようと心に決めた。


「ところで、もう一つあるね。今日は高谷くんは来てないよ」

 おでこをさすりながら伊織が尋ねる。

「ああ、今日はここで約束があってな」

 榊は腕時計で時間を確認する。夕方6時、待ち合わせの時間だ。階段を登る軽やかな足音が聞こえてきた。


「おお、榊はん。伊織君も久しぶりやな」

 朗らかな笑みを湛えて現れたのは曹瑛の兄、劉玲だった。流暢な関西弁を操る人懐こい陽気な性格で、面倒見が良い。実の顔は上海マフィア、九龍会の幹部だ。そのギャップに彼の正体を知ったときに驚く者は多い。

「今日はな、榊はんとビジネスの話なんや」

 曹瑛は劉玲にもグラスに淹れた温かい茶を持って来た。榊が鯛焼きを劉玲に勧める。


「おおっ、これ懐かしいな。関西におったときによう食べたで。これは薄皮で美味そうや、うん、絶対美味いやつや」

 鯛焼きひとつでテンションが上がる劉玲。伊織と曹瑛、榊は劉玲をじっと見つめている。それに気が付いた劉玲が眉を顰める。

「なんや、そんなに見つめて食べにくいわ」

 劉玲がかじりついたのは腹だった。伊織と曹瑛が榊の顔を見る。

「腹からいくのは好奇心が強く、積極的。親切心が強く周囲から信頼される人気者タイプ」

 おお、当たってると伊織は納得した。

「なんや、俺のことか。そんなに褒めるなよ」

 話の流れが分からないまま褒められた劉玲は喜んでいる。

「鯛焼きの食べ方で性格が決まれば世話はない」

 曹瑛は不服そうだ。


「ごちそうさん。で、榊はん、本題なんやけどな」

 劉玲がシルバーのアタッシュケースから薄い冊子を取り出した。中をめくると絵画展の図録のようだった。

「今度、榊はんの画廊を借りて絵画展を開催する予定なんや」

「劉玲から話を持ちかけられてな、うちの画廊を使ってくれることになった」

 榊はヤクザ時代の債権回収で入手した飲食店や画廊などのイベントスペースをいくつか所有している。もとは破産した物件だが、榊自らプロデュースし、リノベーションを成功させている。榊の実業家としての手腕は見事だ。


「場所は銀座、一等地や。こんな場所、なかなか借りられへんで」

 続いて絵画展のチラシをテーブルに広げる。中国の若手芸術家の作品をフィーチャーしたもので、3回の会期に分けて絵画、陶磁器、書を取り混ぜた展示と販売を行うという。

「中国には豊かな才能がある若い芸術家がおる。しかし、なかなか世に出る機会が無くてしぼんでいく奴が多い。なんとかして人目に触れて飛躍するチャンスがないかと考えているんや」


 これは劉玲の個人的な事業で、若い才能を世に広めるために企画したという。もちろん、慈善事業ではないので美術品が売れたら手数料はいただく。売れなくても作品を世に出すチャンスだ。若い芸術家にはありがたい話だろう。

「今、中国の若手芸術家は非常に元気がある。画廊にとっても新鮮な話題になって宣伝になる」

 この展示会は榊にも良い話のようだ。


「すごくいいですね、会期中に取材に行ってもいいかな」

 伊織の勤める出版社は日中友好の架け橋をテーマにした雑誌を出版している。日本で中国の若手作家の展示会が開かれるというのは興味深い。良い記事が書けそうだ。

「もちろん、伊織くんぜひ記事書いてや。作家本人も紹介できるで」

 週末には来日した作家がギャラリートークをしたり、ライブペインティングの企画もあるという。

「チラシあるんですか、うちの社や通ってる中国語教室に置きますよ」

「この店にもフリーペーパーを置くラックがある」

 曹瑛も協力的だ。


 土曜日の午前中、伊織と曹瑛は榊の経営する銀座の画廊にやってきた。曹瑛は烏鵲堂には午後から顔を出すことにしている。カフェスペースもアルバイトに任せられるほどになってきたらしい。

 天気の良い週末とあって、銀座は人通りが多い。銀座という名前だけで地方出身の伊織は気後れしてしまう。画廊は通り沿いのビルの地下と1階、2階を展示スペースに持っている。思ったよりも広くて驚いた。“一心 中国気鋭の若手アーティストが繋ぐ心”と題した看板が出ている。赤色の派手な下地に見事な筆文字の看板は力強く、人目を引いている。


「盛況ですね」

 スーツ姿の榊を見つけ、伊織は声をかける。白い壁に並ぶ作品の前にいくつも人だかりができている。いくつかの作品の前には作家本人が立ち、解説をしている。

「そうだな、作品もなかなか見応えがあるし、正直俺も驚いている。もう何点かオファーが来た作品もあるそうだ」

 榊は客の入りを眺めて満足そうだ。劉玲も初日とあって様子を見に来ているだろう。

「ゆっくり見学していってくれ」

「はい、ありがとうございます」


 1階には人目を引く大型のキャンバスが展示されている。中国の雄大な自然風景が並んでなかなか壮観だ。

「これは福建省にある武夷山だな。店で出している武夷岩茶はこの山で採れる茶葉だ。下に見える河を船で下ることができる」

 曹瑛が絵の風景について解説してくれる。

「こんな険しい山から採れるお茶なんだ」

 写実的な武夷山の絵を伊織は感慨深く眺める。

「劉玲が産地とかけあって良い品質の茶葉が手に入る」

 劉玲はフットワークが軽い。烏鵲堂で本格的で上質な中国茶がリーズナブルな価格で楽しめるのは、劉玲の働きが大きい。


「あ、この間行った上海の外灘だ」

 外灘の広場で劉玲の部下とは知らず、黒服に囲まれて絶体絶命だと焦ったのは良い思い出だ。あのときは曹瑛が止めなかったら、伊織は黄浦江に飛び込んでいた。

 外灘の煌めく夜景が重厚な油絵のタッチで描かれている。その横には上海の古い町並やレトロモダンな女性像が並ぶ。

「この辺りはハルビンの風景だね」

 次のコーナーではハルビンの氷祭や聖ソフィア大聖堂が描かれている。ハルビンは曹瑛の故郷だ。一点一点立ち止まり、感慨深く眺めている。


 “遠い郷愁”と題した絵の前で曹瑛は足を止めた。広いキャンバスに大胆な筆致で田舎の風景を描いた作品だ。収穫前の金色の麦、遠くにはなだらかな山、そして透き通った青空、白い雲。抽象的な絵で、説明が無ければ何を描いたものか分からない。しかし、曹瑛には響くものがあったようだ。


 側に立つ若い中国人女性が作者のようで、来場客に絵の情景を一生懸命拙い日本語で伝えている。

「これはハルビンの農村風景です。私の育った村。とても貧しい村です。でも、とても美しい村です」

 そう言えば、曹瑛の故郷もこのような金色の麦畑がどこまでも広がる風景だった。伊織はプラント潜入前に劉玲と曹瑛とともに訪れた村の情景を思い出した。その温かい色味と不思議な奥行きを感じる絵に吸い込まれるような気がした。

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