天龍茶館の陰謀

第1話

「わあ、すごい。本格的!」

「とてもいい香り、中国茶ってこんなに奥が深いんですね」

 烏鵲堂のカフェに初めてやってきた様子の2人連れの女性客がしきりに感動の声を上げる。曹瑛は穏やかな笑みを浮かべながらお茶の飲み方を説明する。曹瑛の手技をじっと見つめる女性客の顔は驚きに満ちている。伊織は隣のテーブルで次号の日中交流雑誌の原稿を校正しながらそのやりとりを微笑ましく眺めていた。


 女性客は楽しい時間を過ごし、必ずまた来ますと曹瑛に声をかけて喜んで帰っていった。

 烏鵲堂は1階に中国専門書を扱う書店、2階が中国茶や点心が楽しめるカフェとなっている。曹瑛はカフェをメインに切り盛りし、書店は空いている時間帯にバイトに来てくれる大学生の高谷に任せている。バイトには伊織が通う中国語講座や日中交流のイベントで知り合った大学生が来てくれている。学生にとっては、バイト代が入るだけでなく曹瑛について実践的な日本語の練習ができるということで一石二鳥のようだ。


「カフェも本屋も順調だね」

 カフェスペ―スの閉店後、片付けを手伝いながら伊織は曹瑛に声をかける。

「お陰様でな」

 あの無愛想な曹瑛がお店なんてやっていけるのだろうか、と伊織は思ったがそれは杞憂だった。豊かなお茶の知識に洗練された手技、そして客には驚くほど愛想がいい。店の提供する品質の良い茶葉やサービスも好評だが、店長である曹瑛の隠れファンも多いらしい。


「曹瑛さん、お客さんなんだけど」

 1階で書店の店番をしていた高谷の声だ。通常の客であれば、閉店したことを伝えて帰ってもらうところだが、わざわざ声をかけてきたのには理由があるのだろう。

「上がってもらってくれ」

 曹瑛の返事に、階段を上ってきたのは40代前後の男だった。グレーのスーツを着込み、丸い縁なし眼鏡をかけている。細い目は縁がつり上がり、やや冷たい印象を受ける。薄い唇には微笑を浮かべて、カフェスペースを見回して値踏みしている。


「初めまして、私は天野貴明と申します。明日、この近所に茶館をオープンさせる予定がありましてね、ご挨拶に伺いました」

 もったいつけた素振りで名刺と、茶館のパンフレットを曹瑛に手渡す。曹瑛はそれを一瞥し、どうも、と短く返事をする。


「良い店ですね、なかなかの人気店だとか」

 天野は微笑む。顔の筋肉を無理矢理引きつらせたような不自然な笑顔だ。

「何をもって人気というのか知らないが、口コミとリピーターでもっている」

 曹瑛は淡々と答える。天野はその言い方が気に入らないのか、ピクリと唇を歪めた。

「私は中国政府公認の茶芸と品鑑のエキスパート資格を持つ師範だ。中国茶研究会の理事も務めている。雑誌のインタビューにも何度も出演しているし、専門書籍も出している。私の出す茶館は話題性間違いなしだ、オープンしたら君の店はすこし暇になるかもしれないね」


 伊織は天野の言葉に内心腹を立てた。なんて自惚れの強い男なのだろう。曹瑛はどうでるのか。

「俺には何の資格もないし、茶は趣味の一つだ。お宅の店が繁盛しようとしまいとどうでもいいことだ」

 天野は言葉を失った。自分の輝かしい経歴を趣味の一つと同列に返され、しかも近くに競合店ができる脅威を気にも留めていないという。さぞやプライドが傷ついたに違いない。

「失礼する」

 憤慨した天野は曹瑛を睨み付け、階段を降りていった。


「瑛さん、面倒なことになったね」

 心配した伊織が声をかける。

「何が面倒なんだ」

 曹瑛は平然としている。

「近くにライバル店ができるんだよ」

「ライバルになどならない。俺は奴と競う気などないからな」

 

 曹瑛は面倒くさそうに厨房で明日の仕込みを始めた。書店の売り上げをまとめた高谷が2階へ上がってきた。

「何だよ、あれ。感じ悪い。挨拶もせずに出ていったよ」

 高谷も天野の態度に腹を立てていた。

「明日、この近くで茶館をオープンさせるんだって」

「え、あいつが?どんな不味い茶を出すんだ」

 高谷がこんなに怒るのも珍しい。伊織は高谷を宥めながら苦笑した。


 伊織は曹瑛が置いていった茶館のパンフレットを手に取る。洒落たデザインのフォントで“天龍茶館”と書いてあるのが店名だろう。天野のスカした顔写真と経歴が長々と書かれている。

「曹瑛さんの店がこんな奴に負けるはずないよ」

「多少暇になるならありがたい限りだがな」

 曹瑛の返事に高谷は脱力している。曹瑛の言葉は本心だろう。曹瑛にしてみれば、カフェは趣味の延長で、暇があるならのんびり本でも読んでいたいとよくぼやいていた。


 翌日、伊織は地下鉄駅から烏鵲堂に向かう途中に天龍茶館を見つけた。地下鉄駅を出てすぐ目につくロケーションにある。この街の飲食店は入れ替わりが激しい。新しい店ができることなど気にも留めていなかった。

 見れば、パンフレットと同じスリムなフォントで店名の看板が出ている。店内は満席、店の外には10人ほどの待ち客が立っていた。

 烏鵲堂のお客さんもここに引っ張られたかもしれない。伊織はざわつく心を抑えて烏鵲堂へ向かった。


 カフェの閉店まで残すところ30分ほど。店内を見渡せば、普段よりややお客さんが少ない印象がある。伊織は窓際の席に着いた。

「今日は武夷岩茶が入った」

 曹瑛はいつも入荷したばかりの新鮮な茶葉を勧めてくれる。

「じゃあそれにする」

 曹瑛がコンパクトな茶盤に茶器をセットしてテーブルに置いた。

「中国福建省にある武夷山で採れる茶だ。硬い岩肌に長い時間をかけて茶の木が根を張る」

 曹瑛は説明をしながら流れるような手つきで茶を淹れる。何度も見ている伊織でもその動きには目を奪われる。金木犀のような甘い香りに、口に含めば爽やかで芳醇な味が広がる。


「すごく美味しい」

 伊織の顔がぱっと明るくなる。天龍茶館のことなど一瞬で忘れてしまうほどの感動があった。烏鵲堂のお客さんが減るんじゃないかと心配していたことが馬鹿らしい。オープン当初の目新しさからお客さんが一時的に流れていくかもしれない。しかし、曹瑛の淹れるお茶はこんなにも人を感動させているではないか。

「伊織が気を揉むことは何もない」

 曹瑛はそれだけ言い、他のお客さんのところへ呼ばれていった。


「瑛さん、俺余計な心配してたよ。烏鵲堂は大丈夫だよね」

 カフェの閉店後、笑顔の伊織に曹瑛は首をかしげる。

「烏鵲堂はもともとただの本屋だ。もしカフェが潰れたなら2階も本屋にすればいいだけのこと」

 平然と言い放つ曹瑛に伊織の顔が青ざめる。

「え、お客さん減っちゃったの・・・?」

 困った顔で目を見開く伊織を見た曹瑛が吹き出した。

「多少はな。どうせ溜まり場だ。カフェは開けておく」

「そういうことじゃないよ」

 伊織は頭を抱えた。


 新宿へ帰る地下鉄駅に向かう途中、天龍茶館の前を通り過ぎた。曹瑛は横目でチラリと見るだけで立ち止まりもしない。本当に気にしていないんだな、と伊織はしみじみ思った。

「伊織」

 地下鉄駅の入り口でおもむろに名を呼ばれ、伊織は立ち止まった。

「なに?」

 もしかして、天龍茶館へ行ってみたくなったのだろうか。

「たまごかけご飯というのは美味いのか」

 曹瑛の唐突な問いに伊織は眉根を寄せる。

「え、まあ、美味しいけど何で急にそんなこと思いついたの」

「今日店に来た客がたまごかけご飯のおいしさについて長々と話をしていた。炊きたての白飯に新鮮な卵を落とし、よく混ぜる。醤油も特別なものがあるそうだが」

 曹瑛の真剣な顔に、伊織は真面目にたまごかけご飯についての説明を始めた。

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