第2話

 曹瑛の借りているマンションは新宿駅から徒歩15分の住宅街の一角にあった。5階角部屋のドアを開けると、ポーチの明かりがついた。

「邪魔するぞ」

 榊は曹瑛について部屋に上がる。居室が2つにリビングとダイニングキッチンは別の広々とした部屋だ。


「適当にしろ、バスルームはそこだ」

 曹瑛は冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、榊に投げて寄越す。自分も半分飲み干し、そのままベランダに出てタバコに火をつけている。

「先にシャワー借りるぞ」

 榊の声に返事はない。言葉通り適当にしろということだろう。いちいち尋ねることがナンセンスなのだ。


 新宿の街は夜も眠らない。ベランダから見上げる空は、けばけばしいネオンの明かりで星も見えない。目下の車道を走る車のヘッドライトが街路樹を照らし、通り過ぎてゆく。

 この街の雑踏に紛れると、自分の存在や匂いが薄れるような気がして不思議と落ち着く。暗殺者時代にターゲットを狙い潜伏するのは、専ら雑然とした都会だった。その習性が今も染み付いていることに曹瑛は自嘲する。


 気がつけば短くなっていたマルボロを揉み消した。リビングに戻ると、風呂上がりの榊がソファに腰掛け、バスタオルで頭を拭いている。

「着替えを用意してやっただろう」

 曹瑛は不満を包み隠さず、榊を睨む。榊はミネラルウォーターを飲み干し、立ち上がった。黒のジャージはカゴに置いてやったものを着ているが、上半身は裸だ。


「着替えってあれ」

 榊は眉根をしかめ、言い淀んでいる。曹瑛は暗い瞳で榊を見据えていたが、ふいと顔を背けてバスルームに入っていった。

 榊は小さくため息をつき、テーブルの上のマルボロを一本指に挟み、真鍮のジッポで火をつける。ベランダに出て紫煙を燻らせ始めた。


 狙われる心当たりが無いわけではない。これまでも言われのない怨恨で元同業者から標的にされたことはあるが、自力で退けてきた。しかし、今回は勝手が違う。相手がなかなか尻尾を出さない。我慢比べに負ければ、死を意味する。

 曹瑛に頼るのは不本意極まりないが、これほど適任な男はいないだろう。まさかここまで親身になってくれるとは、正直驚いている。


「しかし、あれはないだろう」

 マルボロを揉み消しながら榊は誰にともなくぼやく。好意を無碍にするのは性分ではないが、自分にもプライドというものがある。

 リビングのソファにもたれ、スマートフォンで業務連絡を確認していると、シャワーから出た曹瑛がタオルで頭を拭きながら榊にシャツを放り投げた。


「お前のだ」

 榊は手にしたTシャツを広げてみる。水色の生地の中央、胸の部分に目を見開いたタラコ唇のペンギンのようなキャラクターがプリントされている。榊は曹瑛の胸元を見やる。同じデザインの黄色いTシャツを着て仁王立ちしている。

「俺は寝るときに上着を着ない主義だ」

「ならば、勝手にしろ」

 曹瑛はヘソを曲げたらしく、自室に引っ込んでいった。


「あいつの部屋着のセンス…」

 恐ろしく壊滅的だ。榊は頭を抱えた。しかも奴と色違い、これを着ているところを結紀にでも見られたら一生笑いのネタにされるだろう。

 榊は寝室にと与えられた部屋の扉を開ける。白檀だろうか、香の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。書斎にしているらしく、壁一面に書棚、黒のマホガニー製の小さな机が置かれていた。


「あいつ、なかなかの読書家だな」

 榊は感心しながら書棚を見ようとして、目を伏せた。本棚はその人間の人生だ、それを興味本位で覗き見するのは気が引けたのだ。

 用意されていたマットレスにダークグレーのシーツを敷いて横になった。明かりを消すと、知らず眠りに落ちていた。


***


「入るぞ」

 朝、曹瑛の声に榊は目を覚ました。半身を起こし、顔にかかる髪をかき上げる。曹瑛はクローゼットを物色し、グレーのカットソーをハンガーにかけた。

 昨日着ていたシャツは洗濯したがまだ乾かないから、今日はとりあえずこれを着て帰れということだった。

「ああ、悪いな。助かる」

 榊はシャツにキャラクターがついていないことを密かに確認し、内心安堵した。


 ダイニングテーブルには朝食が準備されていた。クレープ生地でレタスと油条(中国の揚げパン)、ベーコンを包んである。

「煎餅馃子、華北地方の朝食だ」

 独特の香味が食欲をそそる。揚げたての油条はサクサクだ。曹瑛は作り置きの茶葉卵の殻をむしっている。榊もひとつ手に取った。

 差し出された豆乳ドリンクは問答無用で砂糖入りだった。


 食後の一服と、曹瑛と榊はソファの両端に座り、タバコを吹かしている。

「今日の予定は」

 曹瑛の問いに、榊はスマートフォンの予定表を確認する。

「昼前にコンサルのアポが二件、午後は来週開業するバーの下見、夜は外資系企業のパーティに呼ばれている」

「分かった。今日カタをつける」

 曹瑛は灰皿でマルボロを揉み消した。

「大した自信だな」

「明日は店がある」

 曹瑛はソファから立ち上がり、黒いスーツにネイビーのシャツ、グレーのタイに着替えて部屋から出てきた。

「行くぞ、お前をガードしながら敵を見つける」


 品川の榊のマンションへ行き、榊もビジネス仕様に着替えた。シャドウストライプのスーツにグレーのシャツ、ダークブルーのタイを絞める。曹瑛を助手席に乗せてBMWで今日最初のクライアント先へ出掛ける。

 新橋のオフィスビルでの商談は20分ほどでまとまった。次回は詳細をつめた企画書を出すことになる。曹瑛は影のように榊の傍らについて歩く。

「さすがに白昼堂々と襲ってくることはないだろう」

「お前は街中で殺気を感じたと言っていたな、その勘は正しいだろう」

 マンションの近くに停まっていた黒塗りの車が昨日のチンピラのものだと曹瑛は言う。


 二件を予定通りにこなした。榊は腕時計を見ると、時刻は12時半をまわっている。

「飯にしようか」

 曹瑛を連れていったのは、オフィス街の一角にあるイタリア郷土料理の店だ。店の前に置かれた黒板には本日のランチメニューが書かれている。白色のドアを開けて店内に入る。ニンニクの香ばしい匂いが漂ってきた。壁際のソファ席に座る。


「ここは生パスタが美味い」

 榊はオマール海老とサーモンのパスタ、曹瑛はボロネーゼを選んだ。前菜にモッツァレラチーズとトマトのサラダ、まぐろのカルパッチョを追加する。店内は近くのオフィスビルのサラリーマンやカップルですぐに満席となった。

 ボロネーゼにはぷるぷるの半熟卵がのっている。曹瑛は伊織と初めてうどんやに行ったときに食べた釜玉うどんを思い出す。あの時は正直、生卵を食べるとは、と正気を疑った。日本では生卵をいろんなものにかけて食べる。曹瑛もそれが気に入っている。


 じっくり煮込まれた挽肉とソースは深いコクがある。生麺はもちもちしたリッチな食感だ。平麺なのでソースによく絡む。もくもくと食べる曹瑛を榊は満足そうに眺めている。

「お前が飯を食う姿は見ていて清々しいな」

「どういう意味だ」

 曹瑛は不服そうに榊を睨むが、榊はそのままだ、と愉快げに笑う。


 午後からは有楽町に開店するバーへ訪れた。ここの設備をデザイナーと組んでプロデュースしたという。ダウンライトの店内にはアンティークなランプが灯る。ダークブラウンのオーク材の壁板、クロスはレトロ柄の落ち着いた色調にした。椅子のクッションはかなりこだわった。シックだが、温かみのある雰囲気だ。

 榊が経営者に挨拶をする。60代女性で、自分の店が持てたことと内装の素晴らしい仕上がりを喜んでいた。曹瑛も烏鵲堂の開店では榊に世話になった。そのときは切れ者ヤクザの意外な一面に驚いたことを覚えている。


 高層ビルの合間に夕陽が傾いてゆく。最後の目的地、汐留のホテルオリエンタルガーデンへ向かう。

「…気配が無い」

 曹瑛がBMWの助手席で呟く。

「俺を狙う奴らはもういないということか」

 ハンドルを握る榊が見れば、曹瑛は神妙な表情を浮かべている。

「俺がついているからだろう。しかし、次のパーティ会場は狙い目なはずだ」

 車はホテルの地下駐車場へ降りていく。

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