白銀の頂
一章 頂の始まり
第1話 銀幕は上がる
この足が地平線まで歩いていくことはない。
この手が頂にかかることはない。
俺は誰だ
「待て、てめえ!!」
怒号を背にしながら男は構わず走り続けた。
迫りくる白い髪の集団から、これまた白い髪をした男は逃げる。
「待つかよ!!」
振り向かず叫びかえし、男、ブルーノは角を曲がる。
道行く人、もしくはその場でうずくまっている人、ぼうっとした人間たちは皆一様に、中世ファンタジーが舞台のアニメやゲームに出てくるキャラクターたちのような恰好をしていた。
アニメやゲーム。
ずきりと頭が痛む。ああくそ、思い出せない。どういったものかはわかる。でも。
「おい!!」
路地を曲がった先にもいた。だよなと気落ちしながらも方向を変えて、また逃げる。
逃げている先々で見るのは、浮かない顔色をした人間ばかりだ。
ここにとらわれた。
俺達は不幸だ。
最悪だ。
そんなことばかりを考えている顔、顔、顔。
「くそが……」
歯がきしむ。虫唾が走る。
どいつもこいつも嫌いだ。
喜んでいる顔も嫌いだ。
怒っている顔も嫌いだ。
哀れな顔も嫌いだ。
楽しい顔も嫌いだ。
冒険者が、嫌いだ。
憎いとさえ言っていい。
憎悪の対象だ。
いや、人間だけではない。
この世界も、醜く忌まわしい。
息が詰まる。
喉が絞まる。
だが、一番憎いのは、自分だ。
死んでしまえばいい。
自分を殺せるのならば五度だって殺している。
無理な話だというのは分かっている。
なぜならば、ここは。
エルダーテイル、だからだ。
「どうだ、ミサキ」
白いマントと白髪を風にはためかせ、狐尾族の妖術師は訊ねた。一見では性別がわからない。ゲームのキャラクターであったことから、美男美女ばかりなのは当然だがより中性的な印象を受ける。
「三十分も逃げられてる」
ミサキと呼ばれた男性は揃いのマントを羽織り、いかにもな様子で肩をすくめる。気にしていないふりをしているが、少し気にしているのはL2にはお見通しである。
彼の見る視界にはSFなどによくあるような投影型ディスプレイのようにアキバの街のマップと、追いかけている自身も所属している白銀の頂メンバーの動きが映っていた。
追っているのは当然逃げているブルーノという男。理由なんてのは白髪だからで十分。
白銀の頂というギルドはそこそこ有名だ。戦闘系大手ギルドのような知名度はないにしても、それなりにプレイしていれば嫌でも聞こえてくるギルド。聞こえてくるのは主に馬鹿なことをしているだとか、そういうことばかり。
つまり、白銀の頂というのは馬鹿ばかりの集団なのである。やれ女装で固めるだの、クリスマスの性の六時間にレイドをぶん回し続けるだの、衛兵を恐れず町中で抜刀し監獄にぶちこまれた回数が千回を超えただの、嘘のような話などもあるくらいだ。
そんな白銀に所属、したいと思う人間はいるかどうかは別として、参加条件は白髪を愛していること。
白髪を愛し、白髪を憎み、白髪を尊び、白髪を哀れみ、白髪を嘆き、白髪を喜ぶ。頭がおかしいとしか思えない人間の集まりだ。
彼らは後ほど大災害と言われるこの状況下にあっても、怯みこそしたが恐れはしなかった。むしろ歓喜した。
だって白髪になれている。仕事から帰って来てお風呂場の排水溝に詰まっている髪の毛がすべて白髪だったらなどと考える奴もいるくらいだから仕方ないといえば仕方ない。しかし、人間というのはいろいろいるもので歓喜しているものもいれば怯えているものもいるもの。このあたりは常識を持っている人間は皆そうだった。問題は阿保の方だ。
馬鹿は行動した。このような窮地にあってこそ、白銀の頂、否、白髪のすばらしさを広めたほうがいいのではと。勧誘が始まった。誰も集まらんかった。ここで終わりにしておけばよいのに、以前から目につけていた白髪も勧誘した。断られた。理由は日ごろの行いだ。
情報を仕入れながら暮らしていると、L2はある日の帰りに路地で雨に塗れて倒れている男を発見した。
何を隠そう、それがブルーノである。自身の名前すらおぼつかなかった彼は泥やらなんやらでズタボロで汚れていたが、白髪センサーは反応した。
これはいい白髪だと。
実際に白髪を見ているかのようなリアルな質感、それに加えこんな白髪が実在していたらきっと崇めていただろうと思うほどの美しさ……はあまり持ち合わせていない。たぶん本人のオーラのなさのせいであろう。
気合と愛着、白髪に対する憎悪、様々な感情がなければ作り出せない白髪だったとL2は確信した。
この男は白髪が好きだ、いや、愛している。
だからろくに口をきけず朦朧とした意識の男をギルドハウスに持ち帰った。
再び寝て、起きた男はようやくちゃんと喋れており、自身のことを曖昧ながらブルーノと話し、白銀の頂というギルドに連れ帰ったこと。
ゲスト登録して入らせたことを話しながら、ブルーノの手を掴んでギルド所属申請をさせようとしたら全力で抵抗された。
そして脱走。
「まさかこんなに素晴らしいギルドの勧誘を断るとはな……!!」
「拉致監禁起き抜けに宗教勧誘だよ」
ミサキの突っ込みを無視して、L2は盤面を見る。
「待遇に不安があるというなら現在空席のギルドマスターをくれてやろう、フハハハハハハハ!!」
悪役のような笑い声を背にしながら、ミサキは苦笑。
それでも、
「楽しませてくれよ、新人」
黒い笑みを浮かべ、作戦の推移を確かめた。
「げひゃひゃひゃひゃ!!! どこへ行くっていうんだブルーノぉ!!」
「白髪を、白髪をさわらせてください、さきっぽだけでいいんで! ちょっとだけなんで!!」
「白銀の頂はとってもいいところよ、カモォーン……!!」
後ろからやばい集団がおってきていた。全員が白い。自分も白いものだから仲間のうちの一人として見られているのかもしれない。なぜなら目が合ったそこらの冒険者がさっと目をそらしたからである。関わりたくないだろうなと思う、今現在関わっているのだからもうマジでいや。
だん、と大きく二つの音が着地し、路地の看板に二人の男が現れる。
「初めましてだな、ニュービ―!」
「俺はディオファントス!」「俺はライザ―!」
「俺達は愛の狩人……この世界を救うものたちだ」
またやばいのが増えた。勘弁してほしい。名乗ってない奴らだけで筋肉質の変態やスキンヘッドの白髪もいたのに。
「なんだよお前ら」
「困ってるだろうと思ってな」
「はぁ?」
追ってくるのから逃げると、二人は並走してくる。
「お前らこいつらの味方だろ」
「まあそうだけど、何処の誰とも知らないやつを歓迎する気はなれねえってことだよ」
なるほど、たしかに筋は通っている。
上から手を差し伸べられ、ブルーノは荷物を足場に飛んで、引き上げてもらう。
ぴたりと、引き上げる手が止まる。
「? おい、なにしてるんだ?」
「……大事なことを聞き忘れてたけどお前、彼女はいるか?」
「もしくは女の子と仲良くしてたりしないよな?」
いいもしれない迫力を出しながら二人は問うてくる。それに若干気おされながら、答えた。
「そんなものはいない」
「そうかそうか! じゃあ俺たちは仲間だ!」
引き上げられ、背中をバンバンと叩かれる。歓迎のつもりのようだがどうにも仲良くできそうにはない。
「お前たちなんなんだよ」
「ラヴハンターだ」「この世からカップルを削るんだよ……!」
やばいだろ。
「彼女がいないやつに悪い奴はいない」「彼女がいる奴は大体世界滅亡を願っている悪だ」
怖い。
ははは、と適当に話を合わせているとすんすんと鼻を鳴らした。
「……なぁ、ブルーノ。あんた、見た感じというよりパッと見モテなさそうなオーラを持ってるけどよ」
「なんだよ」
「なんか女の匂いがする……」「魂から女の匂いがする……」
「はぁ!?」
なんだこいつら。
「この裏切り者がぁ!!」
豹変して、二人は襲い掛かって来た。ブルーノはそこらにあった空き箱を投げつけ、屋上から逃走。
路地にたまっていた白髪からは逃げれたが恐ろしい非モテを見せつけられた。たぶんああいうのがモテない原因の一端だ。
「っと!」
人気のだいぶ減った路地にも白銀はいた。
「今のかわすか!」
チャイナ服を着た狼牙族の女性はにやりと笑い、矢継早に攻撃を繰り出していく。
「おいおい、衛兵はどうなってんだよ!」
それを的確にかわしながら、ブルーノが愚痴る。
「ああ、これくらいじゃあ来ないよ。当たってもいたくないから試してみなよ」
「勘弁するよ!」
バックステップ。好機と踏み込んだ狼牙族の顔目がけて、そこに立てかけてあった木材を目隠しに放った。それを叩き落とすと同時にブルーノが迫る。
来るかと女は構えるがブルーノはそのまま壁を蹴り走り、通り過ぎた。
ひゅーと後ろから口笛が聞こえてくるのにもかまわず走り抜けると、少し広い場所に出た。同時にさっきまでの通路にでかい箱が落とされ、引き返せなくなる。
そこに待ち構えるのは施療神官の男。手にグローブをはめており、ボクサーのようなファイティングポーズをとった。
一哉と表示されるステータスバーを見て、ブルーノは眉を顰める。
「回復職だろ、お前」
「こっちが本業だ」
開幕のゴングはなく、二人は同時に走り出す。
くんっ、と一哉が身をひねり、拳を繰り出した。
腕が消えるほどに素早く鋭いそれがブルーノを捕えようとするが、存在がぶれた。
「……!」
半歩ずれた場所でブルーノが一哉をかわす。
クイックステップ。移動系の特技。街中で禁止されているのは攻撃系の特技だけと気付くが遅い。
抜けたブルーノはぐんぐんと速度を上げていく。
それを少し遠くで見ながら、やはり白髪の付与術師は耳に手を当て、こちらに近付いてきている参謀に念話を繋げた。
『彼はどう? 水連』
「動きがいい。俺達よりぎこちなくない」
『ぎこちなくない?』
ああ、と頷いて水連は後ろを見た。
「くっ……! この……!」
後ろには現実とこちらの身長差に苦労しながらも手足を動かしどこそこにぶつけているアルファがいた。見られていることに気が付くと、すっと腕を組んで何事も無いように振る舞うがそれは無理な話だろう。
「こっちとのずれがない、なさすぎる……感じがする。淀みがないし、次どこを動かすのかわかってる。まるでここで生まれたみたいだ」
冗談めかして言うと、ははと二人が笑う。
『傑作だな。じゃあ攻撃を解禁するか』
「つっても決め打ちだろ」
『そりゃね』
と念話が切れる。
見る先、ブルーノはいよいよ大広場に躍り出そうとしていた。
路地を曲がり、行くと先が見えた。ここを抜ければ広い場所に出て、人目があればあいつらもさすがに。
「ぐっ!?」
突然道にぶつかった。
いや、道じゃない。これは、
「絵!? 騙し絵か!?」
ぺたぺたと壁に描かれたそれを触って驚愕していると、はぁとため息が聞こえる。
「気乗りしない……」
綺麗な男がいた。やはり白髪だ。屋上の縁に腰かけ、騙し絵を見ている。
「あなたが描いたのか」
聞くと、じろりとこちらを見る。
「ああ」
機嫌が悪そうな短い応答はどうやらこの男の素らしい。
「すごいな」
それだけ伝えてブルーノは壁を乗り越えた。画家を名乗る資格もない男はその言葉に目を丸くし、呪いだと、一人ごちた。筆を折ろうとしていたが、今はまだその時ではないし、どうなることはできないらしい。
広場には、いまだここに留まり、待っている冒険者たちの姿があった。
相変わらずどうすればいいのかわからず固まっているものや、この数日に出てきた殺気立っているものなどもいる。
クソみたいだ。苛立つ気持ちが生まれる。ざわざわとずっと燻り続けていたものがゆっくりと熱量を上げていく。
燃え上がる寸前、達する前に白銀が出てきた。
仕掛けてくる。
両手に大盾を構えたタンク、少しだるそうな顔をしたヒーラー、軽やかな身のこなしで迫るアタッカー。
三方向からの突撃に、ブルーノは瞬時に判断した。
重いタンクはありえない。ヒーラーも動きは他とは違うがステータスが見劣りする。
ならば、とアタッカーの方を向いた。
盗剣士、リシアという名前の女が顔色一つ変えずに前に出る。
背中へと手が回され、わずかな金属の擦過音を聞きつけたブルーノは注意を取られた。
「ざんねん、リシアちゃんたちの勝ち」
だが、リシアが表した手のうちにナイフの類は握られておらず、きらりと光るものが宙に浮いているのを見た。
背中に手をやり、空中に投げた。それを受け取り、迫るのは暗殺者。赤い髪をわずかに残した白髪の暗殺者がナイフを手に落ちる。
広場を見下ろす屋上に見ている召喚術師と白い尾を持った妖術師が見えた。
L2。ブルーノを引き込み始めた女。
遅れて、広場に飛び込んできた盗剣士が来る。武器をすでに引き抜き、一直線にブルーノ目がけて。
上からくる、気配を殺していた暗殺者でブルーノに初撃を与える。その隙にヒーラーとリシアがとらえに来る。逃れても、盗剣士だ。
しかし、攻撃を行った暗殺者は衛兵に殺されるだろう。いや、殺されるまでの時間稼ぎのタンクか。
詰みかな、と他人事のように思う。
試すように、召喚術師がこちらを見ている。ブルーノをではない。この作戦が通るかどうかだけを見ている。
そのことに、少し傷ついた。
捕えられずとも、殺されれば大神殿送りだ。ここで死んでも大神殿で復活するのはなんとなくわかっている。死ねない理由の一つだ。なぜ、それがわかっているのか。理由がなんなのか思い出せない。
死ねない。何かを、するまでは。
頭が痛む。何だ。何を。
すれば。
死んでも捕らえられても白銀の頂の勝ち。反抗する理由は何だった。でも、とりあえずやばそうな集団だしなと思い直し、ブルーノは。
舌打ちした。
「~~っ!」
瞬間、きんと音が響いた。同時に暗殺者が血を噴き出し、落下。
剣を抜いた。衛兵に叩き潰されることを構わず。
リシアが踏み込んで加速。暗殺者はとっさの判断で、リシアにナイフを投げ渡すが動けない。
何をされた。早かった。盗剣士の特権である、攻撃速度。少しばかり戦闘になれている暗殺者でも見切れない。特技ではなかった。
剣技という言葉がちらつく。馬鹿なと否定するが、ありえないことはない。なぜなら暗殺者の手首は半ばまで断たれ、肘まで裂かれていた。
衛兵が来る一瞬のラグ。リシアはためらいなくナイフを振った。
まずいというのが一番の感情だ。
この男は今ためらいなく暗殺者、オブリーオを斬った。あまつさえ、その視線は倒れたオブリーオを少し追っている。とどめを刺す機会を狙っているように。
危険と判断し、殺すために行った。
ナイフと剣が交差する。単純にナイフが押し負けた。これでいい。隙が晒されるが衛兵が来る。
ブルーノの抜いた剣が眼前に初めて晒される。
刀と剣。不揃いの二刀流。歪。こんな持ち合わせをするのはよっぽど酔狂なやつしかいない。
「――――」
目が合う。
紅い紅い瞳が、リシアを見る。
昆虫みたいだなと思い、次には興味を失い、
どん、と衛兵があらわれた。
魔法陣が光り、そこから降りてきた衛兵は全身を鎧に覆い、都市内における絶対的処刑者として活動する。
鎧の目がブルーノを捕えた。先に手を出したのは彼。攻撃動作を起こしたのは暗殺者だが、まず近いそれを潰すことにしたのだろう。
ブルーノの姿が掻き消える。
移動じゃない。これは、
「エンド・オブ・アクト……!」
同職のリシアが呟き、ブルーノは無数の残像をばらまき、範囲内の敵を無差別に斬り裂く。
それを受け、リシア、タンク、ヒーラー、暗殺者が弾かれ、動けない彼は後ろから来た盗剣士、水野に受け止められた。
以前鎧は無傷。当たり前だ。レベルは百を越えている個体も存在する絶対だ。
構わず振り下ろされる大剣の一撃はブルーノを呆気なく叩き潰す。
はずだった。
がん、とまた大きな音が響いて、そこで理解しがたい光景があった。
ブルーノが二刀で、衛兵の大剣を受け止めていた。
相殺も防御も体をなしていないそれはブルーノの体力を無情にも四割ほど根こそぎ奪った。軽減してもこれだ。
邪魔な虫を払うような攻撃をブルーノは身を低くし回避。下から鎧を切り付けるがダメージは微々たるもの。
振り下ろしが走る。広場の地面を抉り、盛大な土煙を巻き上げた。
衝撃で風がリシアまで届く。すごいとタンクが呟く。
煙の中、ブルーノは体をわずかに体を動かし、それをよけていた。
睨みつけている。
明らかな敵対心を向けて。
薙ぎ払いを後ろへと除け、彼は息を吸った。
気合を入れるように、苛立ちを込めるように、頭の中を落ち着かせるように。
「来いよ」
切っ先を向け、挑発。ターキーターゲットだ。一時的にヘイトを向ける特技。盗剣士が使う機会はそうそうない。
衛兵と、ただの盗剣士。
挑発を受けない衛兵などではなく。
何かが合った。
示し合うことなくブルーノは前に出て、衛兵が大剣を構える。
冒険者と、衛士がぶつかり合う。
「おいおいおいおい!! マジか!!」
ミサキが思わず声を上げて、あり得ないものを見る。
冒険者と衛兵の戦闘だ。いや、戦闘と言えるものではない。
ステータスもレベルも歴然の差。圧倒的で絶対的で無意味な戦いだ。
それでも彼は、
「マジかよ……!」
衛兵と斬り結んでいた。
損害はすさまじい。
それでも、ブルーノはひるまず衛兵とぶつかり合っている。
正しく、戦闘だと認識する。
これは。
とんでもないものを見つけたのでは、とミサキが隣にいるL2に伝えようとして、振り向くと。
「エル……?」
いなかった。
「まさか……!」
広場に視線を戻すと、そこに向かっていくL2の姿があった。
「ちょ、エル!!??」
「はははははは!」
L2は笑っていた。状況が状況ではないなら腹を抱えて転げまわっていたほどだ。
面白い。
面白すぎる!
こんなものは、こんなものがこんなに早く見れるだなんて!
心が震えた。魂が震えた。
未知だ。未知がここにある。
楽しい楽しい、新しいおもちゃを見つけたような気分だ。
運命だ。いや、運命だなんてばかげたものは知らない。
これはきっと、必然だ。ああ、馬鹿だとは思うが絶対という言葉を使おう。
彼は、ブルーノは、絶対に、絶対に!
白銀の頂にいるべき存在だ!
頭がないギルドは、ついに首を見つけた。
「たのっしいな!」
大災害以上に、嬉しいことにL2は歓喜を叫びながら、衛兵目がけてフロストスピアをぶっ放した。
何も思い出せない。自分が誰かということを。こうなる前に、何をしていたか、誰だったか。
うるさい。うるさい。自分の頭がひどくうるさかった。
現状に不安を持ち、蟠る冒険者。憎悪。モテない二人の言葉。
女の匂い。
ぎり、と歯がきしむ。刃が叩き込まれる。
魂がざわつく。心が暴れる。
自分の制御できない自分が、奥底で暴れまわり、表の自分さえも乱す。
うるさいんだ。ずっとずっと内側からかき乱すような音が、女の声が、白い髪が、ごうごうと血流の音がうるさい。
黙ってろ。
思い出せ。
黙ってろ!
思い出せ!
誰かが叫ぶ、誰かが叫ぶ、誰かが叫ぶ!
何を思い出せというんだこんな状況で!
記憶も何もにこの状況で! 糸口も何もないくせに!!
冒険者はどいつもこいつも、過去があり、正しく魂というものがありながら、魄を満たしながら、なぜこうも無様な姿をさらし続けるのか。
いや、これが正しい命の在り方か。
うざい、うるさい、憎い、憎い憎い!
嫉妬だと誰かが嘲笑った。うるさいんだよ。
ブルーノが乱暴に剣を叩きつけ、大剣を打ち付ける。
子供の癇癪みたいだ。
小さいころ、体調不良だということがわからずただ苛立つ子供みたい。
こういう知識はある。
ただ、俺という記憶がない、ブルーノという蓄積はある。
だが、ブルーノになる前の俺という魂が砕けたように漂白された様に、眠りこけているかのように、一切が思い出せない。
それでも何かが叫ぶ。
攻撃が交差する。
重い斬撃が体を揺らす。身を軽やかに動かし、斬撃を叩き込んでいく。
避けて斬って避けて斬って防いで斬る。単純な動作のそれらは衛兵を相手にして、なおずれを修正するかのように精度を上げていく。
が、やはり劣勢は歴然。
これがいいと、白熱した思考の中でブルーノが笑う。
剣と剣がぶつかり合う音。
満たされていくようだ。
虚の中に何かが注ぎ込まれていく。あるいは取り戻していく。
これは憂さ晴らしだ。イラついたから物に当たっているだけ。
最低の行為だという思いもある。
でも、どこかで、ブルーノではない誰かが以前から願っていた。
全力で、衛兵に挑みたいと。
勝負は明らかに、その男の負けへと傾いていく。
広場の誰もが、それに目を奪われる。
打ち合う冒険者と衛兵は互いに一歩も引いていない。
攻撃を交わすごとに冒険者はすり減っていくが彼は気にせず、ただ殺意を込めて吠えるように行く。
突然、べきりと異音が響いた。見ればブルーノの左腕が折れ曲がった音だとわかった。
釘つけになっていた彼らは決定的な敗北を予感し、しかしそれが割り込んできた。
氷の槍が投射され衛兵の動きが鈍る。その間にブルーノは下がり、呪文を投げつけたやつを見た。
「お前、どういうつもりだ」
死んだ方がどう考えても楽だろうにとひどく鬱陶しげな視線を受けても、L2は笑う。
「事情が変わった。君に恩を売った方がいい」
「恩?」
鼻で笑い、踏み込む。剣戟を続けながら、怒鳴る。
「今更だな!」
「建前でもある。本音は、」
そう、と特別口の端を釣り上げる。
「面白そうだからだ!!」
次々とサイクルを組まれ、投射される呪文が戦闘に追加された。わずかにテンポが乱れたことによりブルーノがステップをトチるが、新たな刀が大剣を阻む。
「入ります」
言葉少なに、猫人族が入った。武士、名前は銀次郎。白い毛並みを持っていることから白銀と判断し、ブルーノは右を任せた。
三対一。増えた手勢に衛兵は攻め方を変えず叩き潰すことを選んだ。
斬撃、斬撃、魔法。アタッカー、タンク、アタッカー。
攻撃に振った三人は真正面から無謀にも挑み続ける。
ああ、と誰かが呟いた。
懐かしいなとも。ずいぶんとみていなかった気もする。
そんなに日にちはたっていないのだ。あの日から、あの落ちてきた日から。
それでも、彼らを知っている者たちは思い出した。知らなかった者たちは、新人の白髪をおかっぱに切りそろえた、生真面目そうな神祇官の少女はなんですかと訊ねる。
そうか、知らないのかと古株の、先ほどまで鬱屈そうな顔をしていた冒険者は苦笑した。
馬鹿なことをやる連中だと誰かが言った。あんな馬鹿なことをやって、やりまくっていた連中なのだと笑う。
オッドアイのポンチョを羽織った初心者をつい最近卒業した吟遊詩人は耳を傾けながら、彼らから目をそらさなかった。
あれが白銀の頂だ。
これが白銀の頂だ。
いかなる状況でも、自分を曲げようともしない。
そんな、ギルドだ。
他の場所からはじき出されても、白髪が好きなら、誰だって歓迎する、馬鹿なギルドだ。
己を証明するように、己であり続けるように、戦闘の音をアキバに響かせる。
ダウンしていたリシアが立ち上がる。戦闘にはおそらくは入れない。
テンポが完成している。自分の腕では足手まといになる。
L2は魔法を詠唱しながら、普段よりも動きやすいことに気が付いた。
攻撃が通る。役割を果たせている。銀次郎の動きも早い。
自分はいつも通りだ。銀次郎もいつものように攻撃を引き付けている。
だが、違う。
やりやすい。
この状況を作り出しているのはブルーノだという確信。
立ち位置、攻撃タイミング、回避。
そのどれもが滑らかに動く。声を出して潰す瞬間がない。
ブルーノが動いているからだ。
相手の攻撃をずらすように一撃を入れ、視界の端に常に立ち回り、ほしいタイミングでいる。
ぞくぞくした。
攻撃が当てやすい。
戦いやすい。
良い。呼吸もばらばらになりがちな白銀をまとめるだけのポテンシャルを秘めている。
なぜなら銀次郎は一番暴走しやすいし、L2自身はそうではないが合わせるのが苦手だ。
あちらが合わせてくれている。
踊っているみたいだ。歯車が合ったように軽やか。
気分よく戦いを続けていたが、それはやはり勝ち目のない戦いだ。
衛兵が踏み込んだ。先程から打ち続けていたL2が銀次郎のヘイトを越えた。
三人で回すことの限界だ。
L2は笑い、
「――素晴らしい」
切り裂かれた。重い一撃は紙くずのような防御を蹂躙する。返す一撃で後ろの銀次郎を薙ぎ払うと、あっけなく白猫は砕けた。
残るはブルーノ。彼は武器を下げ、血塗れで睨み付けている。
肩で息をして、やはり無理かと自嘲するように笑うが、
「たのしいな」
衛兵が初めて明確に怯んだ。
怯えに飲まれる前に、叩き潰す。
こうして広場の決闘は終わりを告げた。
最初から分かっていた結末。
それでも、広場に広がる血と熱は残っていた。
『……マリ姐?』
「え、あ……ごめんな、シロ坊。いま……」
『どうかした?』
ううん、と施療神官のギルドマスターは首を振り、なんでもないといった。
「ただ」
『ただ?』
「ちょっとシロ坊に似てる……かなぁ……みたいな子が今衛兵と戦ってたんよ」
『……衛兵ってあの衛兵? ほんとに?』
「そう……たぶん白銀やと思うねんな……一緒におったんがそうやし……」
『ああ……白銀の頂か……だったら、……いや、相変わらずなんだねあそこは』
「あ、でも似てたいうても目付きがちょい悪いくらいかな……そんな似てへんかも」
そう、たぶん、きっと、ただの勘違いだとマリエールは思った。
深い海の底にいる。
光がうっすらとさしていた。
あれは太陽なのか。わからない。ただ、太陽はいくつもあるようなものじゃないというのはわかった。
だったら月だろうか。
わからない。
静かな海の底。息はできないはずなのに、空を見上げていた。
どこまでが海で、どこまでか空なのかわからない。
ただ青い。
無数に差し込む光が、ようやく何か分かった。
あれは記憶だ。
光の柱が何本も突き立っている。死んだらここに来るのだとなんとなく思った。
くぐもった音の中、何かが見える。
白い髪。
赤い瞳。
自分によく似た色。
だが髪は長くて、瞳はより深い。
そうだ、あの目の色は再現できなかったのだ。
再現?
女の姿が揺れる。
輪郭を取り、白く長い髪の女がこちらに泳いできた。
あれだと思う。
誰だ。
頭が痛い。
わからないのにわかる。
あれは。
あれはなんだ。
唐突に女が黒い影になり替わった。
影がブルーノを掴んで、ようやく息ができないことに気が付く。
大量の泡を口から吐き出し、もがいた。
影はひどく強い力でこちらを掴んできて、逃がしてくれない。
手をかく。水ばかりを掴んだ。足を動かす。じたばたと海底の砂埃を巻き上げるだけで何の意味もない。
息ができない。
大量の空気を吐き出して、足りなくなったそれを取り入れようと反射的に吸うのを我慢した。
影がブルーノに顔を近付ける。
どこまでも黒い。何も見えない。ブラックホールのように光さえ飲み込んでしまう。
「ススキノにおいで」
頭に直接響く。
なんだ。
何が。
こいつは。
「そこで知りたいことを教えてあげよう」
待て、と叫びそうになって、手を伸ばした次の瞬間、影の姿は消えて地上にいた。
「がはっ!」
咳を何度かして、呼吸をする。呼吸ができる。
「なんなんだ……」
意味が分からない。
ここはどこだろうと視線を巡らせる。
海と、砂浜が続く静かな場所だった。
そして、地球が見える。
「は……?」
地球。いや、これは。
「セルデシアのものか……?」
過去に現実のような地続きだった世界が何かにより砕かれ、その破片から再構成された……と噂されているエルダーテイルの世界だ。
ハーフガイアプロジェクトという、地球を二分の一スケールで再現しようという馬鹿みたいな計画の結果。
じゃあ、ここは。
「月か……?」
はっ、と小さく笑い、ブルーノは息をついた。
「なんだ、行違えたのか」
「っ!?」
自分以外の声にブルーノは飛び上がり、そちらを見た。
そこに、星辰の霊衣というマント服を着た、召喚術師の吸血鬼がいた。
「あ、あんたは……?」
「そう怯えないでほしいな。何も取って食おうとしてるわけではないのだし……」
たどたどしく両手を上げて、無害ということをその女性は示す。
「質問に答えよう。私は……うむ、なんだ、この時点では勿体つけたほうがいい気がするな? いやだが信頼を勝ち取るためには素直に名乗ったほうがいいだろうか……」
ぶつぶつと呟きだした吸血鬼を見て、ブルーノはとりあえず害はなさそうだと判断。濡れた全身でようやく、立ち上がった。
「答えにくいなら名乗らなくていい」
「いいのか? 気になるだろう?」
「ああまあ……でも、もっと気になるのを見たからな」
あの海の中の化け物。白く長い髪の赤い目の女。
「……っ」
目の奥が痛んだ。見たことがある。舌が少ししびれる。名前は――。
「平気か?」
「……あ、ああ」
消えてしまった。まあいいだろう。
「行違えたって言ったよな? それは、どういうことだ」
「うん? そのままの意味だ。君を追って、彼女は行った。それだけのことだ」
何のことだか理解はできなかった。する必要もあまりないのかもしれない。
「どうすればあっちに帰れると思う?」
そういいながら、地球みたいなのを指さす。
「帰る……そうか、君は帰るというのか」
「何か、変かな」
「いや? ううん……そうか……」
記憶を失っているのか、と口の中だけで女性は呟く。
「待っていれば来た時と同じように帰れるだろう」
「来た時の意識なかったんだけど……」
「ではその通りに帰れるさ」
何の心配もないと柔らかく女性は言った。
来るときも意味が分からなかったのだから、来た時も意味が分からない。道理かもしれない。少なくとも、真実を知るまでは。
ここでできるのは待つことだけだ。
無数の光と、海面に反射するきらきらした光、それと地球を眺めて、ややあってからにブルーノは告げた。
「俺は、ブルーノだ」
「ん?」
なんだと同じく地球を観察していた女性がこちらを見た。
「名前だよ。聞いておいて、名乗ってなかったからな」
吸血鬼は何度か目をぱちくりとさせてから、はははと笑う。
「なんだ、そんなことか。妙な男だなぁ、君は。兄の知識でも妙だ、私の知識でもな」
ふふんとなぜか楽しそうに女性は笑って、ふと告げた。
「迎えが来たな」
「え?」
突然、眠りのようなものがやってくる。視界が明滅した。
よろけて、膝をつく。
「抵抗しないほうがいい。時間切れだ。もう少し話したかったが……仕方がない。今度会う時にしよう」
力が入らなくなる。
聞こえていることがあまりよく吸収できない。
「また会う時に、私は名乗らせてもらうとしよう」
だから、
「また会おう、ブルーノ」
待て、待ってくれ。
もう少し、この景色を見たい。
綺麗な、記憶を、魂を。
足掻き、立ち上がる。
そこで、海面に反射した自分を見た。
黒い髪をしていた。
え?
現実の自分。
ブルーノの意識が、閉ざされた。
静かで冷たい石壇から、身を起こす。
死んで、蘇った。
欠けたものは何一つとしてない。むしろ得たばかりだ。
慣れ親しんでいるであろうペナルティを確認すると、予想通り90レベルからは下がっていた。
大神殿から出ると、夕焼けが目に沁み込む。手をかざしながら歩いていくと、出入り口から数メートルのところに、白髪たちはいた。
「随分早かったね」
召喚術師のミサキがそう言って、少しばかりとげのある言い方で出迎える。
「あんたは……ミサキさんか」
「敬語はいらない。それなりのものは見せてもらった」
衛兵との戦闘。目撃していた彼らは、追っているときよりとはブルーノに向ける視線が違っていた。
それで、と夕陽を前に据え、ミサキは影に染まったブルーノをにらむ。
夏のような暑い日差しは、より夕陽を強くする。誰彼時とはよく言ったものだと感心する。
彼が何者であるか、定める時間にはちょうどいい。
「腕が立つものは目立つ。特に白銀みたいな連中は特にだ」
一癖も二癖もあるやつらがそろったギルドだ。いわゆるはぐれ者である奴も流れ着いていたりもする。
「だが、君のようなプレイヤーは知らない。誰もだ、印象が薄いのは分かっている。でもだ」
でも、
「君のことを知っている奴がどこにもいないんだよ。それなりに顔が広いやつにも聞いた。アキバにいるということは、予定外でもない限りここで活動していたプレイヤーということになる。
誰も知らないんだ、誰もわからないんだ、君のことが」
なあ、とミサキは訊ねた。
夕暮れに、黄昏に立つ、曖昧男に。
「君は誰だ、ブルーノ」
時が止まったように、静寂に沈んだ。
問われたブルーノは動かない。動けるはずも、ない。
そんなことは彼が一番知りたいことだ。
おい、と背中から二人の白髪がやってくる。
背の高い猫人族と白い狐、銀次郎とL2だ。
「ミサキ、糾弾しているようにも聞こえるな」
「僕は確認してるだけだよ。だってそうだろう。誰も知らないんだ。これは異常だよ」
ブルーノを挟み、二人は相対する。
「影が薄いだけだろう。何万人もプレイヤーがいるんだ。それに探りを入れたのは今日からで、探せ切れてないのは当たり前だ」
「目立つ奴ばかりじゃないのは分かってるさ。でもあんなことをやらかした人間だ」
「あの程度は馬鹿ならゲーム時代にやってる」
「ゲーム時代にならね。今はどうだ。積極的に戦おうとするやつはまだ少ない。衛兵という絶対に立ち向かう奴は、それなりにねじが外れてる」
L2が何かを言う前に、ブルーノが言葉を挟んだ。
「やめてくれ」
夕陽が落ちていく。夏のようなエルダーテイルの天気と美しい景色は色あせてはいない、むしろ鮮明になってさえいた。
「俺が誰かと聞いたな。答えよう」
ごくりとつばを飲み込む音が二つ。
息を吸って、告げた。
「俺には、記憶がない」
口にした途端、重く、正しく、ブルーノ自身に確固たる事実が付きつけられた。
足元が崩れていくような感覚がした。ガラガラと崩れていくような、ぐにゃぐにゃとゼリーのように柔らかく沈み込んでいくような。
取り戻せない現実が、彼に覆い被さる。
「は……?」
それを聞いた誰もが己の耳を疑った。
「ありえな……」
いと続けようとしたミサキが口をつぐんだ。
ありえない? ではありえないことが起きている今のこれはどうなる。それに気が付き、言葉は意味をなくす。
「どういうことだ」
「そのままの意味だ。俺には、俺としての記憶がない。いや、正確に言うなら自分はブルーノだと気付いた直前からの記憶がない」
自分の名前が何で、どうしてこの職業を選んだのか、何をしていたのか、社会人なのか学生なのか、なぜこの髪色に凝ったのか、何処に住んでいたのか、料理人を選んだ理由も、子供のころの記憶も、不揃いの二刀流の由来も、両親のことも、どんな冒険をしてきたのか、どんな風に生きてきたのか。
すべて、思い出せない。わからない。
奈落に叩き落されたみたいだ。
「なら、なぜ……ここの知識は持っている」
特技など、衛兵が来ることも知っているように見えた。そうだ、勝ち目のない勝負だということを知っている。アキバの街だって、知っていなければ壁を越えて走ったりできなかっただろう。
「目が覚めた時からあった。都合のいいことを言ってるのは分かる」
ブルーノは自分の手を見た。
影から、彼は色彩を取り戻す。
白い髪が揺れる。白いコートを風にたなびかせた。
「なぜ戦えたのかはたぶん説明できる。鳥と同じだ。彼らのように最初から自分は飛べると、戦えると知っていたんだ」
遺伝子に刻まれていたように、魂に刻み込まれていた。
「…………馬鹿な」
冗談か何かだろうと思った。
それでも、彼の言う言葉はすんなりと自分の中に入ってきた。
嘘を吐く理由がどこにある。狂人の振りか、あるいはそのものか。
そう考えたのは一瞬だ。
だって、目の前の男から、何も感じなかった。
何もない。
それを否定することはできない。
「長期記憶が壊れてる……のか?」
「なんだそれ?」
聞き返されたミサキは、思い出しながら答える。
「人間の記憶の仕方は二種類あるんだ。聞いたことはないか? 長期記憶だとか短期記憶だとか」
ああ、と半数程度が声を上げる。
「エピソード記憶、とかいうやつか」
「それは長期記憶の一種……じゃなかったかな、僕も少しかじった程度だ。簡単に言うと、まあ印象深いことだとかをずっと覚えていることだ。生きている間保持される、忘れることができないものだとかいうやつ。経験のエピソード記憶、言葉の意味だとかの意味記憶、体の動かし方の手続き記憶なんかもある」
それが何らかの事情に破損した。
「こんな世界なんだから魔法を有りとして考えてもいいんじゃないか? 何者かに記憶を壊されたりした、だとか。完全には壊しきれずこんなふうに残った」
「もしそうだとしたら彼を害し、記憶をこわせるものがいることになるよ」
そんな存在、今の我々にとっては天敵以上のものだ。
「そういうことだ。面倒なのを背負いたくなかったら、見なかったことにしろ」
ブルーノはその場を去ろうとするが、L2がその肩を掴んだ。
「待て待て待て。記憶喪失だということを聞いて放っておけるか」
「エル!」
「ミサキ、こんなおもしろそ……大変な人間がいるんだぞ?」
「今面白いっていったじゃん!」
「どうせブルーノには聞こえてないだろうが!」
ばっちり聞こえてるがな。むしろこの至近距離でどう聞こえてないんだよ。
「こんな得体のしれない……」
「得体が知れないのがいるのはネトゲで当たり前だろうが」
「ぐっ……」
その通り過ぎて言い返せなかった。
何してるかわかんないやつが多すぎる。どんな睡眠時間してるんだみんなとかいつもミサキは思っている、特にL2。
「でも今は」
「良いじゃん別に」
ミサキとL2の話し合いに、リシアが口を挟む。
「みんなで触って確認して数本髪抜いたでしょ。こんな白髪してるやつが悪いわけないって気絶してる間に」
「は!? お前らなにしてんだよ!?」
「うるさい! 将来はげるんだから今からでもいいだろ!」
「よくねえよ!」
無視された。
「それにさー、面倒事が今更一つ二つ増えたくらいでガタガタいえる奴なんていないでしょ」
ね、と話しかけた先に腕を斬り飛ばされたオブリーオがいる。
「リシアがそういうなら……まあ」
な、と白銀に目を向けるが誰もオブリーオを見ちゃいなかった。
「いいんじゃね。面白そうだしさ」「面白いって言っちゃったよ」「でも面白いだろ。だって記憶喪失だぜ? レアだ」「それにまあ良い白髪だしな」「そこかよ」「でもあいつ女の匂いするんだぜ!?」「なに!? 恋バナ持ちか!?」「良い動きしてたよな」「僕は興味ない。好きにしろ。絵をかいてる」「どうなってもいいってのは一理あるな」「いや俺は二理あるな」「なんで張り合ってんだよ」「ひゃっはぁ!」「突然叫ぶな!」「ひゃっはぁ!!」「ヒャッハァ!」「囲むなぁ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた白銀を前にして、はあとミサキは息をつく。まったくこの連中は。彼らをよそに、銀次郎はふとブルーノを見た。
「何か少しでも覚えてることはないのか。手掛かりとか」
「俺まだ入るなんて言ってんだけど……」
「別に入らずとも当面うちの施設を使えばいい。宿無しは少しはきついだろ」
そういうL2にううんとブルーノは少し考え、ひとまず思い出したことを告げる。
「ススキノ……に」
「ススキノ?」
L2がぴくりと反応した。狐尾が揺れる。
「ああ、そこにいけば何かわかるかも……しれない」
「ススキノ……ススキノか……それは」
にやりと、彼女が笑う。
「随分と都合がいいな」
「?」
何のことかわからないブルーノは首を傾げ、数人があーと気付く。
「ススキノに仲間がいるんだ。そろそろ迎えに行こうかという話が出ててな。なんでも少し厄介に巻き込まれているらしい」
どうせ首を突っ込んだだけだろうがと付け加えて、
「どうだろう、ススキノに行くまでとりあえずは手を組もうじゃないか」
それを断る理由を、ブルーノは非常に嫌なことに、持ち合わせていなかった。
アキバからススキノへ。
まだ知らない、彼らの後を追うように、すれ違うように、
ブルーノは遥か北の地へと向かうことになる。
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