オリジン・デパーチャー#2-12
みー、猫が鳴く。赤い目が光る。
俯いていた冬壁は弾かれたように顔を上げた。しかし、猫が仕掛けてきたのは冬壁ではなかった。
その視線の先。少年の母と、制服の、この世界の紅葉が駆けてくるのが見えた。
その横合い、理科室のプレートが掲示された部屋のドアが、内側から吹き飛ばされる。
飛び出した人体模型。その正中線の半分、剥き出しの筋肉が異常に膨張し、岩のように巨大な拳を握る。
人体模型は二人を追いかけ、腕を振り下ろす。
紅葉が人形のように吹き飛ばされ、壁にぶつかって動かなくなった。
母親は腰を抜かして倒れ込み、逃げようにも逃げられない。
――ぼくも、おかあさんなんて嫌いだ。
タケル少年が口にした言葉が冬壁の頭に浮かんだ。
もしや猫は、子どもの不用意な言葉をも、叶えるべき願いとして受け取ったのでは。
「あっ……!」
拳が再び持ち上げられる。
冬壁はとっさに自分の手を持ち上げ、そしてためらった。自分の鋏の力を放てば、人体模型は破壊出来るかもしれない。だが、金魚を教室の壁ごと切り裂いたことを考えると――人体模型と近い場所にいる母親の体も切ってしまうかもしれない。
「お、かあさん……っ」
少年の声は掠れていた。咲良が淡々と告げた、今まで子猫の力で叶えてきた願いの代償。
――その順番が、なんにもしらないバカな男の子に、彼の母親に回ってきた。それだけのことじゃない。わたしには関係ない。親にも疎まれたわたしが、愛されていながらそれを分からない男の子になにかしてやる必要なんて、ないじゃない。
そう囁く、ぞっとするほど酷薄な自分と。
頭から血を流して動かない、制服姿の紅葉と、今にも殴られようとしている母親を見つめ、
――目の前で、誰かが死ぬのはイヤだ。あの日、鋏で殺された子どもたちみたいに。
二人を見殺しに出来ないと叫ぶ自分がいた。
――でも、どうやって。得体の知れない鋏の力なんか使ったら。あの人ごと。迷ってたら間に合わない。どうしたら。
過呼吸になる冬壁の目の端に、床に散乱した文房具――ひっくり返った道具箱の中身が見えた。その中の、先の丸まった刃の、安っぽいピンク色の持ち手のついたそれが目に入る。
祈るような気持ちで、冬壁はその鋏を拾い上げ、震える右手で握って、立ち上がり、教室の床を蹴った。
あのときも、こんな安っぽいピンクの鋏だった。
――あのときは、気持ち悪くて、気持ちよかった。
――あのときみたいな気持ちになるのが、こわい。
けれど、目の前に、今にも奪われようとしている命がある。
今は、違う。今だけは。目の前にいる人を、少年の母親を、もう二度と会えない自分の母と違い、子どもを純粋に愛している女性を、助けるために。
そう言い聞かせた。震える指先は汗と血でぬめり、鋏を取り落としそうになる。心臓の音が、すぐ耳元で鳴っているようで、うるさい。
とっさに身をよじった母親の頭のすぐ横の壁を、人体模型の拳が抉る。
彼女は恐怖で目を瞑ってしまっていて、二度は避けられない。
今しかない。
――わたしの力なら……、わたしの鋏なら、わたしの言うことを、聞いてみなさいよ!!
焼き尽くすほどの思念を胸の中で叫び、安いピンクの持ち手を握りしめた。
冬壁には感知出来なかった。
鋏と自分の体に起きた変化を。
返り血が指を伝い鋏へ這い出し、赤が黒に変色しながら、ピンクを覆い隠し、鋏全体を覆う。
黒く染まった刃が、先ほど見た怪物騎士の剣のように伸張し、鋭く巨大な武器へ――冬壁がこの先何度も手に取ることになる、力を制御して振るうための鋏へと姿を変えた。
黒ずんだ血に染まった服が、その穢れを拒絶するように、純白へと塗り替えられる。二つにくくられた黒髪はより黒く沈み、廊下の窓から差し込むわずかな光に照り映えた。
「おねえ、ちゃん……!?」
驚きを漏らす少年の声も、耳に入らない。
紅葉と母親、そして人体模型の怪物に向かって掛けながら、握りしめた。己が握った武器を。
目の目の事以外、何も考えられなかった。
冬壁はただ、黒い長大な鋏を、両手で握って思い切り横薙ぎにした。構えなんてものはなかった。ただ夢中だった。
剣のような、閉じられた刃の背が、人体模型を真横の壁に叩きつける。
「うわああっ!!」
むちゃくちゃに叫びながら、左右に開いた鋏で、動きを止めた人体模型の胴体を挟み込む。
そして、左右の手で握り込んだハンドルを一息に押し込む。
黒い刃は、やすやすと人体模型の上半身と下半身に切断した。
「冬壁さん、まだだよ!」
うずくまっていた紅葉の声に、はじかれたように顔をあげる。勢いで宙を舞った上半身、肌色と剥き出しの赤の二色の顔の二つの目玉がこちらに迫り、動かないはずの口が吸血鬼じみた牙を剥いて迫る。
模型の両手が、冬壁の首をつかみ、締め上げる。が、同時に反射的に伸ばされた冬壁の手が、握られる鋏が、人体模型の首を捉えていた。
ぎりぎりと圧迫され、ちかちかする視界の中で、命を持たないはずなのに睨みつけてくる模型の顔が、あの日頸動脈に鋏を入れた男の顔に重なって見えた。
武器である鋏を握る両手が重かった。あの日の、そして鋏の力でいじめグループを切り刻んだ感覚が体を貫いた。
――でも。アンタなんかのために、ここで死んでやるわけには、いかない。
真っ白になりかけた頭の中で叫び、高々と掲げた鋏、その二つの刃を、有らん限りの力を込めて――閉じた。
ごとん、と模型の首が落ちて、転がった。
子猫の力が離れたのか、生きてもいない模型の手が冬壁の首から離れ、同じように上半身が床に落ちる。
しばらく黒い大鋏を掲げた体勢のまま、大きく息を吐く。力が抜けた途端、膝から崩れ落ちた。
握ったままの鋏を支えに、しがみつくようにして、なんとか持ちこたえた。体が重い。けれど、倒れていられない。
顔を持ち上げ、睨む。
いつの間にかすぐそばまで来ていた、赤い目の子猫を。
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