対話の真海

 マンションの階段を上る足が重い。母さんがどれだけ怒っているのか。顔を会わせるなり言い合いになってしまわないか。目線は自然と足元に向いていた。見慣れてるはずの影の落ちる階段の灰色と、聞き慣れたはずのアタシの足音が、やけに心臓を跳ねさせる。

 迷いながら、とうとう最後の一段を上がってしまった。目を上げる。

「……母さん」

 泣き腫らした目で、母さんが部屋のドアの前に立っていた。体の前で、真っ白になるほど固く手を握り合わせている。

「真海……」

 母さんはよろよろと近寄って来て、ぎゅっとアタシを抱きしめた。

「かあさ、ん」

 何年ぶりだろう。ただ優しく抱きしめられるのは。

「ごめんなさい、怒鳴ったりして……」

 揺れる声。驚いた。絶対怒られると思っていたのに。

「真海のお友達から連絡をもらったとき、言われたの……お母さんなら、子供の言い分を聞いてあげないと後悔するって……」

「え、友達?」

 もう一度驚いた。母さんによれば、ゆうべアタシの友達から電話がかかってきて、アタシ

が自分の家に泊まること、アタシが傷ついていること、そして言い聞かせるように、話せるうちに話し合ったほうがいいと言ったらしい。冬壁という名前は母さんの口からは出なかったけれど、わかった。きっとアタシがシャワーを浴びてる間に電話したんだ。あのとき先にさせたのは、そのために。

「そっか……アタシも同じこと言われたよ、母さん……

 アタシ、母さんと、もう一回ちゃんと話したい。いいかな……?」

 抱きしめ返して、ちょっとキツイ柔軟剤の匂いが残る母さんのセーターに顔を埋める。

あったかい。

「母さんも、そうしたいわ……。真海、あのお友達、大事にするのよ」

 ぽん、ぽんと母さんがアタシの背を叩く。うん、と応えるアタシの鼻がツンとした。


 父さんの仏壇に、好きだったジュースが備えてある。

「お酒が飲めない人だったから、いつも会社の付き合いには困ってたわ」

 温かいココアをテーブルに並べて、母さんが懐かしそうに笑った。

「そっか……。

お父さんが死んで、一人であなたを育てなきゃ、立派にしなきゃ、ちゃんとお嫁さんに出さなきゃ、って思ってたの」

 母さんがマグカップを包む指先に、あかぎれが出来ている。

「だからずっと、塾に行きなさい、いい学校に行きなさい、って……それが真海のためだからって考えてそうしてきたの。でも、それは押し付けてばっかりだったのね……そっか……」

 アタシは涙を拭う。ゆうべ言えなかったことを、ずっと母さんに言いたかった不満を、思ってたより穏やかに告白したアタシは、ココアを少しずつすすりながら、目を伏せる母さんを見つめていた。

「思い出したわ。あなたに真海って名前を付けた後、お父さんちょっと考え込んでたのよ」

「……え?」

「自分が海が好きだからって、赤ちゃんのあなたにそれを押し付けていいのかって」

 アタシはびっくりした。考えもしなかった、そんなこと。お父さんのことを悪く思ったことはなかったし、……アタシも好きになっていたから。

 仏壇の反対側に、父さんの持っていた古い図鑑が置いてある。魚、海の生き物、船、そして潜水艦。それと、古いビートルズのアルバムも。

「お父さんと比べたら、……真海に私はひどいことしちゃってたのね……」

 溜息をつく母さんは、急に老け込んだように見えてしまって。そんな顔をさせたいワケじゃない。

「母さん……アタシは……」

 口を開いて、考え込んだ。

 アタシはアタシが傷ついて、やる気がなくなったことで母さんを傷つけたいわけじゃ、ない。ただ……

「アタシはただ、母さんに、父さんの分も作文をほめて欲しかった。夢、って書いたことを受け入れて欲しいだけだった。それだけなの」

「そう、ね……ごめんさない、真海。お父さんならきっとそうしたわ」

 母さんは泣き笑いみたいな顔をして、アタシに手を伸ばした。こわごわ差し出された指先を、ちっちゃい子どもみたいに指先で受け止める。

「真海が好きなことを……今からでもなりたいと思うなら、そうしてちょうだい。その代わり……お母さんに出来ることがあったら、言って欲しいわ」

 母さんはくしゃっ、って感じで笑ってくれた。

「……うん。そうする」

 触れた指のあったかさに、こくりと頷いた。

 母さんとアタシは、今から……ここから、たぶん、やり直せる。

 そうして、何年ぶりか分からないあったかさに、安心しきっていたとき。

 気づいた――冬壁に会うなら今しかない。

 公園に近づくなってことは、公園でまたあの怪物と戦うかもしれないってことだ。

 直感したアタシはいてもたってもいられず、音を立てて立ち上がっていた。

「真海?」

 心配そうに母さんが見上げている。ゆうべ飛び出した時もこうやって見下ろしていたんだっけ。あれから半日くらいで、同じ部屋で同じ格好で、でも気持ちはぜんぜん違う。そう思う。

 にこっとして、ちゃんと母さんに伝える。

「話すように言ってくれた友達と……どうしても今これからあってお礼言いたいの。きっと、すぐに帰ってくるから、待ってて」

 そして、アタシはゆうべと同じせんすいかん公園に向かって駆け出して行った。


 冬壁は怪物を倒したらすぐにいなくなると言ってた。だから、今しかない。

 母さんと話せたこと、前を向いて、夢に向かっていけそうなこと。ありがとうって、伝えたい。アタシが、冬壁に会えるうちに。

 遠い目をしていた、もう二度と会えない人がいるらしい、冬壁に。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る