なつかしさんとアイス
「はあい、なつかしさんやでぇ」
まるであの日からずっとそこに立っていたように、なつかしいあの声がした。
振り向いたけれどそこには誰もいなかった。
「ここやでー」
声の方向に首を巡らす。荒れ放題の雑草に沈み込むレール、枕木の上に、なつかしさんはいた。白い髪を夕日で輝かせ、猛暑の中相変わらずの真っ黒な長袖のパーカーと真っ黒いジーンズ。
「なつかしさん……」
僕はプラットホームから飛び降りてなつかしさんに近寄る。あの時は僕より大きかったなつかしさんを、頭一つ分くらい上から見下ろしていた。
「おおきなったなあ、坊や」
にっと笑うその笑顔も、あの頃から何も変わらない。背丈も服も、あの日からまるで時間がたっていないような出で立ちでなつかしさんはそこにいた。
「なつかしさんは、どうして……」
どこでなにをしているのか、どうしてあの日ここにいたのか、どうして急にいなくなったのか、今日は何をしているのか。
聞きたいことが多すぎて言葉にならない僕の表情を見て、なつかしさんは手品のように片手に二本の棒付きアイスを取り出して僕に差し出した。一番近いコンビニでも10分かかるのに、まったく溶けていなかった。
「アイスでも食べよか、ウチのおごりや」
僕となつかしさんは駅の階段に腰掛けてアイスキャンデーを食べた。なつかしさんを横目で見たけれど、口でアイスを咥えたまま足をゆらゆらさせるだけで何もしゃべってくれない。仕方ないから僕はアイスの棒を持って、少しずつ舐めながら僕が告白されてから振られた顛末を話した。僕がすぐに話せることと言えばそれしかなかった。
「それで僕は、ちゃんと彼女を見てないんだって。さみしい目で、どこかを懐かしそうに見てる、って」
そこまで喋ると、なつかしさんは食べ終えたアイスの棒をタバコでも吸うように指で挟んで口を開いた。
「ふーん……キミにそんな思いをさせるんはどこの誰なんやろなあー」
分かっていて言っているような口調。僕はたまらなくなってなつかしさんのほうに身を乗り出した。
「なつかしさん、僕はなつかしさんのことが……」
言いかけて、アイスの溶けた汁が僕の指に垂れる。慌てて身を引く。僕となつかしさんの間の石段に溶けたアイスが染みを作る。
勢いが潰されてまたアイスを咥えた僕をじっと見つめて、なつかしさんはいたずらっぽい表情を浮かべた。
「つまりキミは、おねーさんで卒業したかったんか? 童貞を」
「そん、そんなことは」
僕は思いっきりむせた。否定しようとすると半分溶けたアイスが口からすっぽ抜けてまた落ちる。
なつかしさんはひとしきりケラケラと笑ってから、空中に手をやってもう一本アイスを取り出して見せた。
「あはは、ごめんごめん。ほら、アタリが出たからもう一本、や」
なつかしさんが咥えていたアイスの棒を見せると確かに「あたり」と書いてあった。
新しいアイスを受け取って、僕は思い切って尋ねた。
「なつかしさん、教えて欲しいんだ。どうしてあのとき――」
「ここでキミに出会って、一緒にSLを動かして、そんでいきなりいなくなったか、やろ?」
なつかしさんは座ったまま足を揺らして、
「まあ、アレが答えやな」
くいっと指差した方を見る。日が沈み薄闇が忍び寄る中で、公園の雑草に沈むレールが虹色に光り、どこまでも伸びていく。金網で塞がれたSLが、あの夏の日と同じように輝き、蒸気で駆動する各部が重厚な音を立てている。煙突が盛んに煙を吐き出し、今にも発車しそうだ。
先ほど見た劣悪な保存状態の姿は、虹色の煙に撫でられて魔法のように掻き消えていく。
「キミや、この町の小さい男の子たちはたいてい一回、ここで“ごっこあそび”をしたことがあるやろ」
なつかしさんは立ち上がると、階段を上っていく。
「たいてい、飽きるとか、おおきゅうなって他の遊びに興味がうつるもんや。けど、たまーに熱心で、めちゃくちゃおおきな想像力でコイツが動くところを想像できる子がおる」
僕も立ち上がり、後をついていく。
「このおじいちゃんSLはこどものあんなこといいなできたらいいな、っちゅう心が大好きなんや。それを食べて、燃やして、その力で時空をまたぐ線路を走ってあっちこっちの世界に行ってまう」
「あっちこっちの世界、って」
「あんときウチとキミが見たような、魔法ずくめの世界やらロボットだらけの世界やら、やな」
やっぱり、あれは夢じゃなかった。なつかしさんは突拍子もない話をしているのに、なつかしさんが話しているというだけで自然と受け入れている自分がいた。
駅の入り口をくぐり、プラットホームに向かう。蒸気が歯車の隙間から漏れ出す音が出迎える。
「この町、そういう子がこのSLに乗ったまま、別の世界に行って帰ってこーへんくんなったりしとるんや。ここ十年くらいで急に子どもの数が減っとるのは、このSLにおもちかえりされた分、やな」
「え…… 子どもの数が減ってるのは、SLのせい?」
僕はぎょっとしてSLを見た。夢ばかりが詰まっていた巨体が、突然恐ろしく見えた。
「そうや、この町の子は空想するのが得意な子がぎょうさんおったんやろなあ」
「そういう子は……どうなるの?」
灯りなどない暗く沈むプラットホームで、なつかしさんは頭だけこっちに振り向いた。薄闇に白い髪が浮かび上がる。
「そうやなあ、まあこっちの世界では最初からおらんくなったことになって、行ってもうた世界からは変えられへんことがほとんどや。この汽車、定期運行しとらんからなあ。片道切符や」
もしかして、みんなで遊んでいたあの夏、僕らはこのSLに連れて行かれるところだったんだろうか。もしそうだとしたら、ぼくはあのままいなくなっていたのか。黒光りする威容への恐怖感を誤魔化すために、さらに尋ねる。
「じゃあ、なつかしさんがこの公園に来たのはどうして?」
「それはなあ、キミがこれに“引っ張られる”前にやっとかなあかんかったんや」
フェンスの向こうで息吹を上げる黒々としたSL。あれほど汚れていた姿が嘘のようにピカピカだ。その金網にかかった看板を、指差す。
「このSLにもう誰も乗らへんように、役所のおエラいさんにちぃっとお願いして、こうしたんや。閉鎖してな。乗る子どもがおらへんかったらおとなしゅうしとるやろ、って」
なつかしさんはいったい、何者なんだろう。あの時からこれまで何度も思ったことだったけれど、ますます疑問が湧いてくる。でも、
「だったら、どうして僕を乗せて――不思議な世界を見せてくれたんだ?」
口に出せたのは――聞きたいのは、ひとつだけだった。
なつかしさんは金網に白い指を触れさせ、滑らせた。霧のようにフェンスが全部消え、動きだしそうなSLが露わになる。
「そうやなあ、ウチはキミほど想像力あらへんから、これを動かされへんかった。コイツが動く方法を調べとかな、封印も撤去も出来へんかったから、キミに教えてもらいにきたんや」
「じゃあ、動かし方を知りたいって、本当だったんだ」
「そうやで。おおきにな、お陰で封印出来た」
なつかしさんは僕に笑顔を向けて、後ろ向きにSLの運転台に向かって歩いていく。
「じゃあ、今ここにきたのは――?」
なつかしさんは、笑みの形の口の端をくっと吊り上げて、少し下げて、
「キミの心が、ウチを求めてもうたから」
「え?」
「他の子どもたちは金網で覆ったら興味を無くしてくれた。乗り込んでごっこ遊びが出来へんからな。でも」
なつかしさんは首を傾げるようにして、僕の顔を覗き込む。
「多分、ウチとこの汽車で世界から世界に行ったのが心に焼き付いてもうたから、コイツはまだキミに反応するんや」
「キミがウチのことを思い出すときはきっとこのSLとセットやったはずや。SLを思い起こして、おねーさんを想い描いて、そーいうのがつもり積もって、キミがもう一度ここに来たとき復活してもうたんやろ」
春も、夏も、秋も冬も、この公園の傍を通るたび、僕は駅を、封鎖されたSLを見つめて、そしてなつかしさんを想った。時に、僕を想ってくれる彼女よりも優先して。そのせいなのだろう。
「だからまあしゃあない、ウチはこのSLを持ってくことにしたわ」
「持っていくって、どこに?」
なつかしさんは虹色の線路が伸びる先、一番星の光り始めた空を指差した。
「だあれもこのSLに触られへんような、とおいとおい世界のどっかへ。もう悪さできへんように」
「なつかしさんも、そこに行っちゃうの?」
小さいころに戻ったようにそう訊いた。
なつかしさんはなんでもないことのように、
「ウチもそもそもこの世界のヒトやないからなー」
なつかしさんは後ろ歩きで運転台に片足をかけた。
「なつかしさんに、もう会えないのか?」
胸を突きあげるものに急かされるようにそう言葉にすれば、
「ふふ、そんな切なそうな顔で見てくれたら嬉しいわあ。でも、せやな、未来のことは分からんけど、まあ当分は会わへやろ。キミの青春はこっからや、がんばりや」
なつかしさんがもう片足を持ちあがる。このまま行ってしまう、どこか遠く、外国でも宇宙でもなく、僕の想像できないところへ。
「なつかしさん!」
僕はとっさに、体を動かしていた――
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