オリジン・デパーチャー#1-3

 バラバラになった世界の中を、冬壁は落ちていった。

 

 暗闇の中に目の前に次々と現れるものが次々に切断される。あの日以来冬壁を腫れ物をさわるように扱う父親、眉を潜める親戚、伸びた髪をひっぱる男の子、いじめを無視する教師。軽薄な動画の投稿者、虐めの集団、唇を固く閉ざし、いっそ疎まし気に自分を見つめる母親、そしてあの鋏の男。

 それらをすべてが、伸ばした手のひらからすり抜けるようにたちまち幾千の断片へと断裁され、冬壁はなおも落ちていく。

 世界の全てがいとわしい。全部切り裂いて切り捨てて、何もないところに、誰もいないところに行きたい。何も、誰もわたしを脅かさないところへ。


「違うよ……あなたは、自分で自分を切り落としたんだよ。かわいそうに」


 その声は、勝手に自分を助けようとして勝手に死んでいった赤い服の少女のものだった。

 振り向く――あの日の沈みかけた夕焼けの階段に彼女は立っていた。長い剣を手に、心配そうに見ている。


「今さら、なんなの? アンタが死んでなければわたしは殺さずにすんだのに!」


 お前のせいだ――冬壁は自分の手に握った凶器で赤い服の少女も切断しようとした。 

 だが他のものと違ってその姿は、鋏が触れると手応えもなく掻き消えてしまった。


「ねえ、おねえちゃんと一緒に、帰ろう?」


 離れたところにまた、その姿が現れる。


「今さらだって、言ってるでしょ!」


 もう一度切りかかる――今度は宙に浮く鋏もけしかけた。

 黒い鋏の群れが触れた――だが、その赤い服の姿は急にその輪郭を大きく歪めた。

 石を投げ込んだ水鏡のように夕焼けの中の少女が歪んでいき、その中からあいつが――

冬壁のこれからを、永久に、徹底的に変えてしまい、嫌でも逃れる事の出来なくなる存在が、その姿を初めて現した。

 

 目に飛び込んでくるのは、黒。そして、白。フード付きのパーカー、膝のあたりが擦り切れたジーンズ、両手の革の手袋、底知れぬ深さを持つ左右の瞳。その全てが、墨汁で塗り潰したように黒い。

 対照的に、その髪は恐ろしい程白い。色素が足りないというより、まるで白い大理石で人の髪を作ったかのような光沢を持つ純白。肌もかなり色が薄く、小さな唇にもほとんど赤味がない。一度見たらまず忘れられない外見だ。

 

夕焼けに沈むアパートは溶けた飴のように引き延ばされ、そして歪んでいた。

その歪む階段に立つ冬壁は――モノクロのそいつが何者なのか、なぜ冬壁以外に誰もいないはずの此処にいるのか。わけも分からないまま、冬壁はそいつに本能的な拒絶の感情を覚えた。

感情のままに、鋏をそいつに向けて飛ばす。

 そいつは、慌てた様子もなく自分目掛けて飛んでくる鋏の群れに手を翳した。ぐにゃりと形が崩れて歪み、黒い紙で折られた紙飛行機へと形を変えた。


「ふーん、力尽きてもうた誰かさんの忘れ形見、と聞いてどんなもんやと思って来てみれば。

これはなかなかおもろい子を引き当ててもうたなあ」


 そいつは黒い紙飛行機を弄びながら、その色素の薄い唇を吊り上げた。

 にやりと笑う顔。それは髑髏が嗤っているように、冬壁には見えた。

 冬壁は苛立った。何がおかしくて笑うのか――何が目的で自分に近づくのか。


「アンタ……アンタも、わたしを嘲笑うの」


 声は震えても、いつでも切断してやる、とばかりに冬壁はぶら下げたままだった巨大な鋏を持ち上げて突き出した。


「ちゃうよ、ウチはあの子らみたいに冬壁ちゃんをいじめたりせーへんし、可哀そうやとも思わん」


 ニヤニヤしたまま、そいつは続ける。


「ウチはなあ、冬壁ちゃんが気に入ったんや。いじめっこを憎んで、冬壁ちゃんを誘拐したハサミの男を憎んで、世界を憎んで憎んで、バラバラに切り裂いたつもりやろうけど、冬壁ちゃんは自分のいた世界から自分を裁断した……」


 ニヤニヤ笑いを止め、吸い込まれるほどに黒い瞳を両方冬壁の泣き腫らした目に向けて、いっそ柔らかいとさえ思える声で、そいつは続けた。


「冬壁ちゃんは、ええ子や」

「何を、いってるの……

わたしは、あの男と同じ力で、おんなじこと、を……」


 言葉にするだけで、自分の口と舌が切り裂かれるような錯覚。


「別にあの子ら命までは切られてないで? 冬壁ちゃんの世界のお医者さんでも助けられるやろ、まあさんざおイタしたんやし、ええ気味ちゃう?」


 優しいウソなのか本気で言っているのか、分からなかった。その言葉の甘さに身を任せたい感情と、そうしてはいけないと思う理性があった。


「ん……冬壁ちゃんは真面目さんやな。だいだい、異質物で暴れた後、キミは悪ないよって言ったらコロッと落ちるんやけど……」


 すぐには、言っていることが飲みこめなかった。死んでいないと言われても、一人や二人が犠牲になったことをなんでもないことのように言う彼女が分からなかった。


「んん、じゃあお望み通りに冬壁ちゃんのヤバさを教えたげよか♪」


 いつの間にか背後に回り込まれていた。白い毛先が冬壁の毛先をくすぐり、耳元で愉快そうな声が流し込まれる。


「冬壁ちゃんのその力は、キミを誘拐したあの男のモンとおんなじ力や、何でもかんでも切断してまう鋏……あのシザースフェリアとなあ」

「冬壁ちゃんはほんまにすごいわ! あのヘンタイが持っとったらあのたいそーなシュミで切り刻むだけで世界を歪めとったところを、ちっちゃい冬壁ちゃんが殺して止めた! しかも冬壁ちゃんの体はそいつから鋏の異質物を引き継いだ、奇跡みたいなもんや。しかも物体だけやない、時間や空間、概念まで何でもござれ、スパスパ裁断してまうごっつい鋏に成長させたんやで、大したもんやでぇ」


 高らかにほめそやす言葉。冬壁は再び自身への嫌悪感を覚えた――まるであの男の返り血が自分の血液と一つになり、心臓から全身を循環しているのだと突きつけられた気がして。膝から力が抜け、尻餅をつく。


「いやだ……こんなの、わたしはいらない……」


 ずっと握ったままだった鋏を投げ捨てようとしたが、指が吸い付いたように離れない。あの日黒ずんだ血で貼りついた凶器は、ずっと付きまとってきたのだと思い知らされた。

 そんな冬壁を見下ろしていた彼女は、膝を折って目を合わせた。

 どこまでも真っ黒な目玉の奥に、ひどい顔をした冬壁が映る。


「冬壁ちゃんの鋏みたいな、フツーやったらありえへんようなチカラを手に入れたモンはだいたい暴走して世界そのものも壊してまうヤバさなんやけど、冬壁ちゃんはそうせんかった、無意識でもな」


 弄んでいた黒い紙飛行機を、無造作に放り投げる。歪んだアパートの手すりを飛び越えたそれは、空中で急速に風化するように細かい断片になって散った。


「冬壁ちゃんは世界から自分を切り離した。もうあの世界は冬壁ちゃんには触れられへんし、冬壁ちゃんもあの世界に干渉できへん。その前に冬壁ちゃんが傷つけられたのは、世界のほんの一部や」

「わたしが、切り離されている……?」


 それがどんな意味を持つのかわからなかったし、目の前の彼女が慰めるようなことを言ったり突き落とすようなことを言ったりするのが、分からなかった。


「じゃあ、ここはなんなのよ……」


 歪んだ夕焼けのアパートを見渡す。

「冬壁ちゃんが自分を裁断して落ちてきたココは世界と世界の、ぎょーさんある並行世界やら異世界やらの狭間や。世界のどこでもないし、昔でも未来でもない。宙ぶらりんの場所や。今見えとるもんは冬壁ちゃんのトラウマがそう見せとるだけや」

「誰もここには長居は出来へん、そのままやったら世界と世界に押し潰されて消えてまうからな」


 そして歌うように。


「だからここからどこにいこうがいつに向かおうが、それは冬壁ちゃんの自由や」


 とびっきりのご褒美をあげるように、そいつは言った。


「どこに行くっていうの? わたし、もう誰にも関わりたくない。誰に傷つけられるのも、誰かを傷つけるのももう嫌……だったらもうどこにもいたくないし、誰にも関わりたくない」

「このまま消えるって言うなら、もう放っておいて楽にさせてよ」


 首を振りながら弱弱しく呟いた言葉を、


「ところがそうもいかんのや、このウチが冬壁ちゃんを気に入ってしもうたからなあ。一緒についてきてもらうで? どこまでもなぁ」


 にやにやとそいつは否定した。


「死んでも……御免だわ……!」


 この忌まわしい鋏をもってしてでもこの訳の分からないモノクロの少女を拒絶する。冬壁はそう決めた。

 まるでダンスにでも誘うように芝居がかった仕草で、冬壁の手を取ろうとしたとき、思いっきり巨大な鋏を振りかぶった。


「お、っと」


 黒い鋼は黒いパーカーを目指して伸ばされた。そうすればこの女は自分から離れていくはず、と思った。


「なかなかええ勢いやなあ、でも刃先がブレブレやで」


 モノクロのそいつは、冬壁の鋏にしなだれかかるように抱き留めていた。


「ッ!」


 冷たい鋼越しにパーカーの奥の体温を感じた気がして、冬壁は後ずさった。両手で左右の把を握り、刃を開く。

 鋼の擦れる響きに、魂が削られるような気さえしながら、冬壁はその刃の狭間にそいつを閉じ込めようとした。


「うんうん、その異質物も、きっとこの先巧く使いこなせるはずや」


 平然と語りながら、モノクロの彼女はその手にいつの間にか、漂白した象牙のように白く、長い長い柄から馬鹿でかく湾曲した刃を生やした鎌を手にしていた。

 細長い柄だけが受け止めているのに、ひび一つ入らない。


「でも、今は肩の力を抜いて、リラックスや、冬壁ちゃん」


 鎌に触れた部分から、鋏の刃が粘土に変わったかのようにねじれ、歪み、ボロボロと崩れていく。

 冬壁の両手が自由になり、空を切った。

 二人が踏み荒らした振動に耐えかねてか、歪んでいたアパートの階段が崩壊し、冬壁の体が足元の暗い深淵に落下を始める。


「さ、時空の歪みの風の吹くまま気の向くまま、二人旅としゃれこむで、冬壁ちゃん」


 放り出した手を、黒いパーカーから伸びた指が捉える。共に落下しながら、その言葉は一切の不安も迷いもないようだった。

 冬壁は初めてまともにモノクロの少女の顔を見た。そいつはニヤニヤとこちらを見返してくる。

 純白と漆黒、その手には死神が持つような巨大な鎌。


「アンタは――なんなの」


 喉から絞り出すように、やっとのことで、そう尋ねた


「ん――名乗っとらんかったか。よう聞いといてな、冬壁ちゃん――」

「初めまして、やな。ウチの名前は――夏樫小雪なつかしこゆき。冬壁ちゃん、これからよろしく、やで」


 音も光も歪んで万華鏡よろしく幻のように冬壁を取り巻いて、どこかへと流されていく中で。

 モノクロのそいつ――夏樫小雪だけが、今の冬壁にとって確かな何かだった。



 


「そうそう、初めて会った冬壁ちゃんはかわいかったなあ、血まみれでベソベソして、ムキになって……今もカワイイけどなっ」


 たっぷり懐かしむように話すと、夏樫は、自分と全く同じ白い髪、黒いパーカーの相手に向かって微笑みかけた。「鏡」の異質物の作る分身に向かって。


「ウチの真似っこなら、そう思うやろ?」


 手にした白い鎌でねじ伏せた自分の複製が捩じくれたグロテスクな姿になり果ててもなお、夏樫は一向に気分を害した様子もなかった。


「ドッペルゲンガー相手に何言ってるのよ。遊んでないでさっさと本体の鏡を潰しにいくわよ」


 夏樫のほうを見ようともせず、巨大な黒い鋏を携えた冬壁が一方的に告げて、足早に立ち去った。


「ふふ、この続きは――出会った冬壁ちゃんとウチがどうやってらぶらぶになったんかは――また今度、じっくり聞かせたるからなぁ」


 ニヤニヤと笑って複製の顔を踏みにじった後、夏樫は大鎌を肩に担ぎ、ゆっくりと冬壁の向かった方向へ歩いて行った。


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