5章

第25話 色あせた毎日

 私は会社を休んだ。入社して以来、初めてのずる休みだ。

 はじめくんとのママ関係を解消したことによるショックから立ち直れないでいた。

 会社に正直に事情を説明することもできないため、体調不良ということで休暇をとった。


「神宮寺先輩、大丈夫ですか?」


 職場の後輩の小夏から、心配のLINEが来る。

 彼女をだましていることに罪悪感がつのった。

 あたりさわりのない返事をして、スマホをベッドに放り投げた。


「おなかすいた」


 冷蔵庫にはもう食べられるものはない。

 かといって外に出る元気もない。


「やる気がでない」


 何もしたくない。

 空腹に苦しみながら、ソファーの上でうずくまった。

 休みの一日。時計の針はいつもより遅く感じる。


「ママぁ……」


 ママはもういない。

 はじめくんはもう赤の他人だ。

 二度と昨日までの関係に戻れはしない。


「うぅ」


 私ははじめくんの将来を妨げないために関係を解消した。

 正直に伝えたら否定されることが目に見えていたため、私がダメになってしまうと嘘の理由を伝えて距離をとることにした。

 でも、その嘘は本当だったのかもしれない。

 はじめくんに甘えっぱなしの日々を過ごした結果、とっくのとうに私はダメになってしまっていた。




    ◆




 僕は高校生だ。

 高校生の日常は、学校に行くことだ。毎日繰り返している、代わり映えのしない日常。色あせて、何の感動もない、つまらない日常だ。


 桜子さんと出会い、僕は必要とされる喜びを知った。

 つまらない日常が輝いて見えた。毎日が感動的だった。自分が誰かに必要としてもらえる、価値のある人間なんだと思えた。

 でも僕は桜子さんに必要とされなくなった。

 僕は――無価値だ。


「おい笹内、聞いているのか?」


 隣にいた圭吾くんが先生に呼ばれてるぞと僕の身体を揺らしていた。

 いつの間にか、体育の授業になっていたらしい。

 無意識のうちに体操服に着替えて校庭に出ている。

 確か体育の授業は、今日の最後の授業だったはずだ。

 授業を受けて、昼ごはんを食べて、また授業を受けて。そういう時間を過ごしていたはずなのに、はっきり覚えていない。

 覚えていないということは、それだけつまらなくて価値がなく、代わり映えのない時間だったのだろう。


「はい、聞いています」

「……大丈夫か?」

「大丈夫ですよ」

「具合が悪かったらすぐに言うんだぞ?」


 若宮先生に笑顔で応えた。

 先生に心配をかけるようなことは何も存在しない。


「はじめ、お前今日なんか変だぞ。大丈夫なのか?」

「なんともないから大丈夫だよ」

「ボーっとしてると怪我するからな」


 圭吾くんにも心配をかけてしまっているらしい。

 今日の授業ではサッカーをやるようだ。サッカーは苦手だ。

 少し準備練習をした後、2チームに分かれて試合を行うことになった。


「へい、パス!」


 圭吾くんを初めとした、スポーツが得意な人たちが中心となって試合は展開される。

 サッカーが下手な僕は周囲に合わせて動いて誤魔化していた。


「はぁ」


 憧れの人、桜子さん。

 最初はただの憧れだった。その凛とした姿をカッコいいと思っていた。

 ある日、偶然にも彼女が私生活にだらしないことを知った。最初は幻滅したけれど、それ以上に必要とされることが嬉しくて、僕は桜子さんのママになった。

 彼女はズボラな人間だ。家事全般が壊滅的だし、酒好きで酔い癖も悪い。一般的に言えば、駄目人間なのかもしれない。でも、そんな欠点の多い彼女のことを愛おしいと思った。


 桜子さんは美人だ。スタイルも良い。時折、ドキドキしてしまうことはあるけれど、恋愛感情は一切なかった。彼女が僕のことをママとして求めてくれたからなのか、僕は手のかかる娘ができたような気がしていた。

 大事にしたい。見守りたい。支えたい。癒したい。僕は己の気の向くままに、やりたいことをやっていた。

 楽しい日々だった。おばあちゃんが亡くなって一人になってから、初めて楽しいと思える時間だったと思う。

 にもかかわらず、僕は桜子さんに拒絶されてしまった。


 今日の朝、桜子さんの部屋の呼び鈴を鳴らそうとしたけど、できなかった。LINEのメッセージを送ろうとしたけど、できなかった。

 きっと、拒絶されてしまうだろう。

 また明確に拒絶の言葉を聞いてしまうことが怖い。


「ナイスシュート!」


 圭吾くんがアシストして、クラスメイトの男子がシュートを決めた。叩き合って喜んでいる。

 彼らは体育の授業にも一生懸命だ。

 桜子さんのママだった頃、彼らを見て僕も頑張ろうと思えた。一生懸命な姿に心をうたれた。

 でも今は彼らを見ても何も思わない。無感動だ。

 

 今だからこそ、はっきりと分かる。

 桜子さんは僕を良い方に変えてくれていた。僕の世界に彩りを与えてくれた。

 でも、もう全て終わってしまったけれど。


「危ない!」


 誰かが叫んだ。

 僕はまるで他人事のように、サッカーボールが眼前に迫ってくる光景を眺めていた。

 そして、僕の視界は暗転した。

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