第24話 はじめくんは私のママじゃない

 麻里は私に言いたいことを言って帰っていった。

 何も言い返せない。相手に圧倒的に分があった。

 私の心は正論で滅多打ちだ。ボロボロに傷ついた心は、はじめくんがそばにいればきっと癒してくれる。私のことを受け止めてくれるはずだ。


「甘えちゃダメ、桜子」


 私は必死で自分に言い聞かせた。

 麻里の言う通りだ。私ははじめくんに甘えていた。もっと自分を律しないといけない。

 今後、はじめくんとどのように接するべきなのか。答えが出ずに悩んでいると、スマホの着信音が鳴った。


「わっ!?」


 突然の音に驚いたせいでスマホを床に落としてしまった。

 拾おうとして、スマホの画面が目に入る。表示された名前ははじめくんだ。

 手を伸ばしたまま、私はしばらく固まってしまう。

 7回ほどコール音が鳴り、逡巡しながら電話に出た。


「もしもし」

「先生との話、どうでした?」

「凄く怒られた。もっとしっかりしろって」


 はじめくんはそうでしょうねと苦笑しながら、私を慰めてくれる。

 優しくて温かく、包容力がある。はじめくんは私がイメージするママそのものだ。


「はじめくんの部屋、行ってもいい?」

「えっ?」

「今まで入ったことなかったし、いいでしょ?」

「僕の部屋は何もなくてつまらないので。僕がそっちに行きますよ」


 断られた。

 電話をしながら、ソファーで膝を抱え込む。

 はじめくんの部屋に入りたいと何度か伝えているが、毎回断られてしまう。

 もっとはじめくんのことを知りたい。

 

 はじめくんのことを私は良く知らない。

 私がダメなところを晒せば、はじめくんは優しく包み込んでくれる。

 でも彼自身のことを晒してはくれない。一方通行で歪な関係だ。


「はじめくんのこと、何も知らない」


 盲目的にはじめくんをママとして扱うだけなら問題なかった。

 最初のころはそうだったはずだ。

 仕事も忙しくて、私生活を気にする暇がなかった。そんなときに、私のことを心身ともに癒してくれるママのような存在は非常にありがたいものだった。

 それだけでよかったはずなのに、私は彼のことをもっと知りたいと思ってしまう。

 

 この想いは恋愛感情なのだろうか。

 彼に対して悪い感情はもってない。むしろ好感を抱いている。

 それは恋愛感情ではないはずだ。親愛の情なはずだ。

 でも、彼に対して独占欲めいた醜い感情が自分の中に沸いてきているのも事実だ。

 私は私自身のことが分からなくなっていた。そして、はじめくんのことも分からない。

 何一つ、分かっていないのだ。


「ねぇ、どうして私の世話をするの?」

「桜子さんの世話をすることが楽しいからです」


 叶うことなら今後も彼と関係を続けていきたいと思う。

 でも、関係を続けていくだけのメリットが彼にあるのか分からない。

 楽しいと言ってくれている。それが本当のことなのか、私に判断する術はない。判断できるほど、はじめくんのことを知らない。


「私のために時間を使ってくれるけど、私と会うまでは普段何をしてたの?」

「学校が終わって家に帰ったら、ぼーっとしてるだけですよ」


 曖昧な返事。電話越しでも彼が浮かべている表情が分かる。きっと困ったように苦笑しているのだ。だから、私はそれ以上聞けなくなってしまう。

 心地よい関係を崩したくなくて、一歩踏み込むことができないでいる。

 本気でぶつかり合うこともない、曖昧な関係だ。

 麻里の言う通り、こんな関係は解消すべきなのだろう。


「ねぇ私たち、ただの隣人に戻るべきだと思う」

「えっ?」

「麻里にバレてきつく言われてるし、同じ階の人にも見られたし、もう潮時なんだよ」

「部屋を出入りするときに注意して、2人での外出も控えておけば大丈夫です」


 彼の言う通り、注意深く行動すれば、隠し通すことも可能かもしれない。

 でも、その先に待つのは何だ?

 前途ある好青年が、駄目女に人生を台無しにされるだけではないか。


「そういうことじゃないの。はじめくんと一緒にいたら、きっと私はダメになってしまう。一人じゃなにもできない人間になってしまう」

「そ、そんなことないですよ!」


 麻里にはじめくんをダメにすると言われ、私は何も言い返せなかった。

 その通りだったからだ。

 はじめくんに何か恩恵を与えられていると少しでも思っていれば、私は反論できただろう。でも、何一つ、彼女に言い返すことができなかった。


「迷惑なの! これ以上、私に関わらないで!」

「桜子さん……」

「はじめくんは私のママじゃない」


 声を荒げると、はじめくんは返事に困っていた。

 私たちはこれで終わりだ。

 拒絶すれば、彼はそれ以上踏み込んではこないだろう。

 はじめくんは優しい。残酷なまでに優しいのだ。


「今までありがとう、そしてさようなら」


 電話を切って、ソファーから立ち上がり壁際まで歩く。

 壁に手の平をあて、頬を壁につけながらもたれかかった。

 この壁の向こうにははじめくんの部屋がある。

 私と彼を隔てるのはたった一枚の壁だ。その壁はとてもぶ厚いものに思えた。


 自分を包みこんでくれる人がいるという安心感。私の心を満たしていた幸福は消え去り、ぽっかりと穴があいてしまった。


「ママぁ……」


 壁に体重をかけながら、ずるずるとその場でへたりこみ、涙を流す。

 こんなとき、いつもなら、はじめくんが寄り添ってくれただろう。

 目から涙がこぼれる度、はじめくんがいないことを実感し、喪失感にさいなまれた。

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