第六章その4
集会が終わると体育館を出て行く生徒たちの表情は始まる前の緊張した面持ちとは正反対で晴れやかだった、まるで一つの戦いを終えたかのように。
涼は葵と合流して一緒に教室へと歩き、葵は周囲を見回しながら安堵した笑みを見せる。
「よかったね涼君、校則変わらなくてみんな嬉しそう」
「うん、僕達が守ったのはこれなのかもね」
涼も不思議な達成感に満たされて歩いていると修也は顔を真っ赤にして恥ずかしさを堪えながら、クラスメイトや他のクラスの生徒たちにからかわれていた。
「よぉ岡本、お前マジで東郷先生のこと好きなのかよ?」「岡本君って年上の女性が好きなんだ~」「岡本お前東郷先生にだけは素直に言うこと聞くからな」「っていうか東郷先生三十路だぜ、お前も変わってるな」「っていうか赤くなってるけどもしかして後悔してる?」「あ~あこんなことならスマホで動画撮っておけばよかったなぁ~」
からかいや冷やかしに我慢の限界が来たのか修也は裏返った声で当たり散らす。
「うるっせぇぇぇぇぇええええええっ!! さっきから黙ってりゃあ言いたい放題言いやがって!! 纏めてぶち殺すぞこらぁあああああっ!! ああそうだよ、東郷先生のこと大好きだよ!! 三十路でも美人だし笑うとスゲェ可愛い顔するのお前らも見ただろ!! 言っておくけど人として尊敬してる意味でだからな!! それに後悔なんて少しもしてねぇからよ!! だからこれ以上グダグダ冷やかすと容赦しねぇぞ!!」
涼は八方塞がりな修也に声援を送る。
「修也! かっこよかったよ!」
修也は怒りと恥ずかしさを堪えて発火寸前の真っ赤な顔を左手で隠し、右手で親指を立てた。
放課後になると今日は祝杯を挙げる気なのかホームルームが終ってすぐ、部活や生徒会、委員会に属していない生徒は軽やかに鞄を取って教室を出て行く。
涼は葵、大地、美紀と教室を出て睦美とすっかりエーデルワイス団六人目のメンバーとなった修也と合流してみんな揃うと、早速週末の放課後を楽しむため昇降口で靴を履き替える。
その間、放課後六人で週末どこかに遊びに行こうと他愛ない話しや、冗談を言い合ったり、不良の修也に優等生の睦美は露骨に嫌った態度を見せて彼と罵倒合戦を繰り広げる。
「っていうかあんた! いつの間にあたしたちの輪の中にいるの?」
「いいじゃねぇか! 俺は涼や土谷と一緒にいたいんだ!」
「言っとくけど、私はあなたのこと一目見た瞬間から大っ嫌いだからね!」
「なんだとこの堅物石頭女! 見た目で人を判断するな!」
喧嘩を繰り広げる睦美と修也、大地と美紀はまるで落ち着いた夫婦のような眼差しで見守る。
「なぁ美紀、こんな楽しい放課後久し振りな気がする」
「うん、当たり前のようにある放課後って実は掛け替えのないものだったんだね」
二人の言葉に改めて涼は自分達が守ったものの大きさを実感しながら、みんなの後ろを二人で歩く。
校門を出ると葵の隣を歩いて横目でチラリとその真っ直ぐ前を向いた横顔を見つめると、葵も視線に気付いたのか愛らしく微笑んで涼は思わず顔を赤くして視線を逸らす。
「どうしたの涼君、あたしの顔になにか付いてる?」
「あ……いいや、その……」
涼は返事の代わりにお互いの指先が触れると葵はドキッとしたのか、柔らかそうな頬が赤くなってすぐに照れ臭そうな微笑みに変わり、涼はそっと優しく包むように手を握った。
もう言葉は必要なかった。
葵の柔らかくて血の通った温かい感触、それがゆっくりと涼の手を握り返す。
幸せを噛み締めて涼を見つめる眼差しと微笑み、それが守ったものであり、取り戻したものであり、これから先も守っていくものだ。
「変……だよね葵と手を繋いで歩くの初めてじゃないのに、初めてのようにドキドキする」
「うん、何気ないことだけど凄く掛け替えのないことなんだよ」
葵の言う通りだ、そう思えるように変われたのも葵のおかげだ。
涼の胸には葵への愛しさと感謝の気持ちでいっぱいだ。
温かく微笑んだ瞬間、視界に異物のようなものが入った気がした。
九品寺交差点の横断歩道の信号待ちのため立ち止まった時、灰色のフリースにフードを目深に被り、肥えてだらしないお腹の出ていた男がポケットから何かの液体が入った薬瓶を片手で器用に開けようとする。
涼は全身の神経が本能的に危険だと感じ、脳内の警報がけたたましく鳴り響いた。
「誰だ! 止まれ!」
涼は咄嗟に瓶の男に向けて叫ぶと葵は「えっ?」と男の方を向いた。その瞬間、男は右手の薬瓶の中身を葵にかけようとしてる。涼は迷わず葵を後ろに押し出して庇うと、制服の左半身に液体を浴び、二・三滴の雫が涼の左手に牙を剥いた。
「うああああああっ!!」
「いやぁああああ涼君!!」
涼は左手に付着した液体で焼けるような激しい痛みに悶え、葵は悲鳴を上げると美紀は叫んだ。
「液体に触れないようにブレザー脱いで! それヤバいよ!」
涼は痛みを堪えながら左手が更に液体に触れないようその場でブレザーを脱ぎ捨てると、煙を上げて溶けてる! 微量だけでもこの痛みだ、もし葵の顔にかかっていたらと思うと想像したくない! 涼は液体をかけた男を見ると、背中を見せて幹線道路沿いに逃走する。
「野郎逃げやがった! 追いかけろ!」
涼は手の痛みよりも葵に何かしようとした怒りが上回って叫ぶと、大地は美紀と睦美に頼む。
「美紀! 花崎! 警察呼べ! 草原を頼む!」
「コラァァアアアアア逃げるなクソキモデブ野郎!」
怒り心頭の修也がダッシュで追いかけると、涼も左手に構わず続いて追いかける。
幸い足が遅かったのかすぐ追いついた。
「観念しやがれ! 逃げられねぇぞ!」
修也が捕まえようとした手を伸ばした瞬間、男は振り向きながら何かで振り払うと修也は足を止めてギリギリでかわす、大地も戦慄して足を止めて涼を制止する。
「待て涼! こいつヤベェぞ!」
「おいおいおいおい! テメェ何でナイフなんか持ってるんだ! 危ねぇじゃねぇか!」
修也も本気で命の危険を感じたのか両膝をガクガク震えさせながら指差して、ドスの利いた声を響かせる。目深に被った男の手には大柄なサバイバルナイフ、涼は睨みながら怒りを込めて言い放つ。
「おいお前、葵に何をしようとした!」
「う、うるせぇ!! よくも邪魔しゃがって!」
やはり男の声だ。追い詰められて精一杯の見栄を張ってるのか、震えた声でナイフを突き立て突進してくる。刺されたら致命傷は免れないと全身から冷汗が噴き出す。
本能的な恐怖ですくんでしまう足に鞭を打ってかわすがその先には葵がいる。
「しまった!」
涼は自分の浅はかさを呪って尻餅をつく。男が逃げた先にはエーデルワイス団の女子三人がいる! クソッ! 図られた! 狙いは葵だ、大地と修也も気付いてすぐに手を伸ばすがさっきより速い! どうやったらあんなに速く走れるんだ!?
「葵! みんな逃げろ! 速く!」
涼は叫ぶが、葵は恐怖で震えてその場で尻餅ついたままだ。睦美と美紀が必死で腕を引っ張って立ち上がらせようとしてるが三人ともやられる! 助けられるのは自分だけだ!
「うおおおおおおっ!!」
涼は数秒でも逃げる時間を稼ぐため男に突進。そのまま男は前に転び、涼はその上にのしかかる形になるが男はたちまち体を一八○度回して涼を押さえ込む。
「この野郎お前からだ!! 死ねぇえええええっ!!」
男は両足で涼の両腕を押さえ、体重だけで骨がへし折れそうなほど重かった。
のしかかった状態でナイフを両手で逆手に振りかざす、駄目だ……死ぬ! 涼は最期の瞬間を覚悟すると男の顔が見えた。
暗く深い洞窟のようなフードの奥の男は歳を取っていた。
若く見積もって四○歳手前で下手すれば五○歳くらいだろう。黒縁眼鏡に不摂生な生活してるのか吹き出物だらけの顔に並びの悪くて所々歯が欠けた口、絶望・嫉妬・憎悪・殺意に満ちた生気のない眼差しと共に涼の心臓目掛けて振り下ろされる。
「やめてぇええええええっ!!」
葵の悲鳴が聞こえるが何もできない。ごめん葵、せっかく一緒に前を向いて歩き始めたのに……ごめん兄さん、今からそっちに行くよ。
振り下ろされる凶刃がスローモーションに見える、涼は静かに目を閉じようとした瞬間、男の手首を誰かが片手で掴んで止めた!
誰だ? 大地? 修也? いや違う、男の視線の先を追うとレイバンのアビエイターのサングラスをかけた体格のいい男――真島翔だ! その瞬間、彼は男を涼から引き離すと一瞬で無駄のない動きで鮮やかに完全に制圧して地面に押さえ込む。
翔は男を押さえたまま涼を見て訊いた。
「大丈夫か涼君! 手を火傷してるぞ!?」
「あっ、はい……手に液体が付いて……痛みます」
「化学熱傷だ! 今すぐ水で洗い流せ! 恐らく硫酸だ!」
涼はゾッと背筋が凍る。大地が近くの自販機で五○○ミリのミネラルウォーターを何本も買って修也と美紀がリレーの要領で睦美と葵に渡し、キャップを開けて涼の左手を洗い流す。
葵も動揺しながらボトルの水で洗う。
「涼君……ごめんね、あたしのせいでこんなことに」
「君のせいじゃないし大丈夫だよ、かからなくてよかった」
涼は痛みを堪えながら微笑んで言うと、睦美はギリギリと白い歯を噛み締め、低い声で憤怒を露にする。
「あの野郎……アシッド・アタックなんて卑劣なことを!」
「アシッド・アタック? なんだその技みたいな名前は? ヤバいのか!?」
聞いてた修也が言うと美紀も察したのか今まで見たことない程、恐怖に満ちた青褪めた顔になる。
「アシッドって……まさか!」
「ええ文字通り酸攻撃よ。パキスタンやインド、バングラデッシュ、イギリスで深刻な問題になってるわ。主に女性の顔に硫酸等の酸性の液体をかけて殺すのではなく、醜い姿にして人生を目茶苦茶に壊して見た目は勿論、心にも一生ものの傷を残す卑劣な行為よ! 結婚や交際を断られた等の些細な理由でね! 後少し米島君が気付くのが遅かったら……顔を溶かされて失明したり、耳が聞こえなくなったり、最悪死ぬことだってあるわ」
それで涼は生きた心地がしなかった。無差別で銃を乱射したり、刃物で刺すのとは別の意味で
「なんて野郎だ……男の風上にも置けねぇぜ!」
正義感の強い修也は怒りを露にする。
自販機のミネラルウォーターが売り切れになるくらい涼の左手を洗う、クソッ! 最悪だ、左手が焼けるように痛い! だけど、兄さんの言葉を胸に秘める。
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