タクシードライバーの恋

三笹

第1話

深夜1時。

あたしは明る過ぎる街の中にいた。

街灯が隙間なく道路を照らし出し、白線が青白く区切る枠の中をひた走る。


車内に言葉はなかった。

車のエンジン音と、時折発生するウィンカー音と、唸るようないびきだけだ。

酔客は面倒なことが多いが、こうやって眠っていてくれる分には大歓迎だった。


あたしはくたびれたサラリーマンを起こさないようにそっとハンドルを切って、最後の道を折れた。

音量を絞ってあったiPhoneのナビが女の声で到着を告げる。


「お客様」


寝入っている客は口を開けて寝入ったまま起きそうもない。

あたしはメーターを止めてシートベルトを外すと、背後にある透明な仕切り板を拳でドンドンと叩いた。


「お客様!」

「……んあ」


よだれが垂れて、客のワイシャツに染みができる。


「1,780円になります」


あたしはできるだけにこやかな顔を作って、メーターを指さした。

客は目を数回瞬かせると鞄をごそごそと漁って財布を取り出し、千円札を2枚乱暴に放る。


「釣りはいい……」

「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」


あたしはレバーを引いて後部座席のドアを開き、客を外に追い出すと、急いで全ての窓を全開にした。


「酒くさい……」


それから、トレーの上でひらひらと揺れる千円札を掴んでグローブボックスに突っ込むと、腕の時計を確認する。


「あと、1時間と45分」


今は日曜日の深夜、正確に言えば日付が変わったので月曜日だ。

仕事をする人も飲み歩く人も少なく、どうしても稼ぎが少なくなりがちな時間帯だった。


あたしはため息をつくと、それでも車をオフィス街に走らせる。

考えても仕方がない。

あたしにできることは、ただ行動することだけだった。


東京のタクシー会社に転職してきて早2ヶ月。

慣れないなりに道を覚え、地名を覚え、ランドマークを覚えたが、なにぶん街が巨大過ぎた。

知らない場所を告げられても平然とナビに入力すれば目的地には行けてしまうが、それではいつまでたっても稼げるようにはならない。


この仕事は何よりも街を知り、人の流れを知ることが大事だ。


目を皿のようにして新たな客を探しながら、暗い夜道をのろのろと転がす。

左右にそびえ立つビルはところどころ明かりがついていて、一棟丸々と暗いものは見当たらなかった。


「ご苦労なことで」


地元ではこんな時間まで電気がついていることはまずなかった。

そもそもオフィスビル自体が少なかった。

夜勤のタクシーも、必然的に最低限しかいない。

こうやって客を探して流し営業をすることなど、到底できはしなかった。


巨大なツインビルの間を抜けて、脇道に逸れる。

街路樹がきれいに整備され、奥まった場所には人目を避けるように石のベンチがぽつぽつと設置されている。


こういうところで同僚とランチをするのだろうか。

あたしは、通りにおしゃれなキッチンカーが並び、アボガドやらチーズやらが入った高そうなサンドイッチとコーヒーを注文する架空のビジネスマンを想像してみたが、いまいち実感が湧かなかった。


よくわからない世界だ。

他人と話をして指示を飛ばすだけで、想像もできないような給料がもらえるなんて。

あたしの想像力が乏しいだけで、実際にはもっと多様な仕事をしているのだろうとは思う。

思うが、理解ができない。

あたしは手と足を動かす以外の金の稼ぎ方を知らない。


ふっと目をやった先、歩道に人影が見えた。

ベンチに腰かけて、足を組んでいる。

高いヒールが前方に突き出され、ぷらぷらと揺れていた。


また酔っ払いか。

あたしはため息をついてから、アピールするように女の目の前で速度を落とした。

気付いてくれることを祈りながら、あたしは女の目の前を通り過ぎる。

その時、女はすっとベンチから立ち上がると、すたすたとあたしに向かって歩いてきた。


あたしはとりあえずハザードを付けて路肩に停めると、女の出方を窺った。

徐々に近付いてくる女のヒール音を聞き、次いで、こつこつと軽く窓を叩かれる。


「乗せて」


くぐもった声が聞こえる。

あたしはレバーを引いて後部座席のドアを開けた。


「どちらまで行かれますか?」

「日本橋あたりまで。そのあとは指示するから」


落ち着いた、少しだけ低い声が車内に響く。


「承知いたしました」


あたしはiPhoneの画面をタップして『日本橋駅』と入力すると、ナビを開始する。

ハザードを消してメーターを開始。

それから背後を確認しつつ、アスファルトの上をゆっくりと滑り出した。


車内は人が2人乗っているとは思えないほど静かだった。

あたしは慎重に運転しながらバックミラーをちらりと見やる。


年齢はあたしよりも少し上で、30を過ぎたあたりか。

軽く波打った髪を肩のあたりまで伸ばしている。

今日は2月にしては暖かい日だったので、薄手のトレンチコートを羽織っている。

だが、夜になって冷え込んだせいか、女はコートの前をぴったりと合わせて寒そうに腕を組んでいた。


「車内の温度はいかがですか?」


聞くと同時にとっさに手を伸ばし、車内の気温を0.5度上げてしまう。

しまった、と思ったが、上げてしまったものは仕方がないとそ知らぬふりをして、赤信号に緩くブレーキを踏む。


「ありがとう」


ふふ、と女が笑った。

あたしは顔に熱が集まるのを感じたが、どうせもう会うことのない人だと気持ちを切り替える。


信号が青に変わり、アクセルをゆっくりと踏む。

女を乗せた品川のあたりから日本橋までは、316号線をただ走っていればよかった。

人も車も少なく、退屈なほどに車はすいすいと静かに進んでいく。


あたしはサイドミラーを見てからバックミラーを見て、周囲に車がいないことを確認する。

ついでにミラー越しに女の顔を見ると、視線がぶつかった。

黒く丸い目がすっと細められて、女がまた笑う。


あたしはできるだけ平静を装いながら視線を外すと、道路の上にぶら下がった案内標識を確認するふりをした。


「ねえ。遠回りしてくれない?」

「どのあたりがいいですか?」

「あなたが決めて」

「では、月島あたりを経由して向かいます。よろしいですか?」

「ええ。お願い」


あたしはウィンカーを出して右折すると、隅田川にかかった橋を渡る。

今日は月がきれいに出ているため、月光が川面に反射してきれいだろう。

ここら辺にはライトアップされる橋も多くあったが、たいていは0時を回ると消されてしまうため、今回は考慮外だ。


ミラー越しに女を見やったが、顔を外に向けたまま微動だにしない。

気に入らなかったか、と心配になったが、ここに来ることを了承したのは女の方だ。

あたしはただの運転手で、任された道を安全に丁寧に運転するのが仕事。


気に入らないのならば、降りればいい。

降りないのならば、あたしは任せられた裁量の中で最適と思われるルートを進むだけだ。


高層マンション群を抜け、くるりと半円を描きながら小さな橋を何本も渡る。

倉庫街や、下町の細い道を抜け、高速道路の下をくぐる。

そしてもう一度、今度は反対側から隅田川を渡ると、そのまま金融街を走り抜けた。


「そこを左折して」


さっきまで押し黙っていた女が、呟くように指示を出した。

あたしは聞き漏らさないように注意しながら、指示に合わせて細かくハンドルを切っていく。


「そこの標識のところで停めて」


あたしはブレーキを踏んで路肩に停車した。


「ありがとう。楽しかった」


女は薄く笑って、札を2枚取り出した。


「5,520円です」


あたしはその札を受け取らずに言う。


「チップだと思って受け取って」

「多すぎます」

「じゃあ1枚だけ。手持ちがこれしかないの」

「カードも使用できます」

「野暮なこと言うね」


あたしは根負けして、女の手から1万円札を受け取った。


「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」


がこり、とレバーを押して後部座席のドアを開ける。

隙間から冷たく新鮮な空気が車内に入り込み、あたしは少しだけ身を震わせた。


窓を少しでも開けておけばよかったかな。

車内の空気が澱んでいたことに今更ながらに気が付いた。


あたしは頭の中に『空気の入れ替え、注意』と書き込むと、ドアを開けて外に出る。

車から降りた女に向かってもう一度お礼を言い、深く頭を下げた。


女はヒールの音を響かせてさっさと目の前のマンションの中に消えていったが、あたしは女が見えなくなった後もしばらくそのままの姿勢でいた。


2万円を、ぽんと出す女。


あたしがあくせく働いても、今のところ最低賃金に毛が生えた程度だ。

仕事をした日の収入でいえば、1万円程度。

そこからいろいろと引かれるから、実際はもっと少なくなる。


住む世界が違う、と言ってしまえば簡単だった。

実際に日本橋などという、あたしが逆立ちしても住めないような場所に住んでいるし、生きてきた環境も努力した量も大いに違うのだろう。


断らなければよかった。

あたしの心が勝手にそうささやきかけてくる。


今まで運賃の4倍近くの金を差し出してきた客などいなかったし、もらえると思ったこともなかった。


労働の対価として、お金をもらう。

女にとって、今回のことは2万円に値するものだったのだろうか。

あたしには到底釣り合うとは思えなかったが、女にとっては釣り合っていたのだろうか。


わからない。


あたしは頭が痛くなってきて、それ以上考えることを止めた。

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