ねえ、シル 〜キミと生きた世界〜
じゅき
第1章 獣人の国
天涯
第1話 名前を知った日
「ラッコ、ラッコ……ラッコ」
少女が不安そうな顔で呼んでいる。何も本当に
呼んでいるのは少女の隣で寝ている少年だ。
ラッコと呼ばれた少年が目を覚ますと、少女は少し安堵した表情を見せた。
「シル、おはよう」
ラッコが挨拶をすると、シルと呼ばれた少女はよくわからないといった顔をして何か話しかけてきた。おそらくシルも挨拶をしてくれたのだろう。
ラッコとシルは言葉が通じない。
そもそもシルとラッコは同じ人間ではない。茶色の髪を背中まで伸ばした彼女の頭には犬や狼を連想させる耳が付いている。人間と同じ耳もあるので最初は飾りかと思ったが、そうではないらしい。ラッコには彼女のことも、自分のような人間がいるのかも何一つわからない。
それもそのはずで、ラッコは昨日、この世界に来てしまったのだ。
言葉も通じず、生活の知識も無い世界にたった1人で来てしまったラッコはシルと出会った。それも最悪と言っていいタイミングで。
ラッコは寝起きの頭で昨日のことを思い出していた。それはできれば最初から最後まで夢であって欲しい出来事だった。
***
ラッコが気がついた時には既にこの世界にいた。
青い空の下、草が生茂る丘の上、1本だけ生えている木のそばでパジャマ姿のラッコは目を覚ました。
最初こそ混乱したものの、この状況を夢だと思い込むことでどうにか耐え、周囲を探索することにした。
素足で小石などを踏まないように注意しながら丘を降り、車両くらいなら通れる幅の道を見つけた。人の気配を感じたラッコは多少なりとも心に余裕を持ち始め、道なりに歩くことにした。
しばらく、歩いていると何やら叫び声のようなものが聞こえた。さらに少し進むと宿屋のような少し大きい建物が見えてきた。建物の前に何人かいるようだが様子がおかしい。
ラッコは道沿いの林に入り、茂みに身を隠しながらゆっくりと近づいた。静かに様子を伺うとどうやら二人組の大柄な男が誰かを襲っているようだ。襲われているのは女性とラッコと同い年くらいの少女だ。さらに近くには別の男が血を流して倒れている。
もしかしたら男たちに少女たち家族が襲われているのかもしれない。だとしたら倒れている男は少女の父親だろうか。
母親らしき女性は身体を掴まれながらも男たちから少女を逃すために必死に抗っている。
少女も同様に身体を掴まれながらも男から逃れようともがき続けていた。
「どうしよう。ぼくも逃げた方が……でも放っておくわけには……」
ラッコはそんな少女たちを助けたいと思いながらも動けずにいた。
今、ラッコは初めて純粋な暴力を目の当たりにしていた。治安のいい環境、優しく穏やかな家庭で生まれ育ったラッコには無縁なはずの世界が目の前で繰り広げられていた。
強烈なストレスに精神を支配されかけるラッコ。そんな彼を正気に戻したのは男の叫び声だった。
どうやら少女が男の手を噛んだらしい。男が痛みで手を離したすきに少女は身体を掴んでいるもう片方の手も振り解く。
女性も少女と同じように噛みついて振り解こうとした。それがよくなかった。噛みつかれて逆上した男は女性を力任せに殴った。吹っ飛ばされてぐったりと動かなくなる女性。
「なんてことを」
ラッコは無意識のうちに男たちに向かって小石を投げていた。
「あっ」
ハッとするも気がついたときにはもう遅い。
男たちはこちらに向かってくる。
「まずい、逃げないと……いたっ」
ラッコはどうにか逃げようとするも小石を踏んだのか足に痛みが走り、上手く動けずにいた。
そうこうしているうちに男の1人がラッコの身体を掴んで持ち上げた。そのまま男が腰のナイフを引き抜いたとき、ラッコは迫ってくる死への恐怖から目を瞑った。そのとき少し離れた位置から男の断末魔が聞こえた。
目を開くともう1人の男の背中に斧が刺さっていた。サイズからすると薪割り用だろうか。
斧で男を殺したのは少女だった。どうやら男たちがラッコに気を取られている間に斧を取りに行き、不意をついて後ろから男を斧で攻撃したようだ。
ラッコを掴んでいた男はその場にラッコを放ると少女の方に向き直りナイフを構え唸り声を上げる。
「こいつめ!」
地面に叩きつけられたラッコは痛みに悶えながらもとっさに男の後ろ側から股間を蹴り上げた。不思議なことに無意識のうちに体が動いたのだ。
男は呻き声を上げ一瞬体が硬直する。
少女はこの機を逃すまいと男に向かって駆け寄り斧で斬りつける。男は咄嗟にナイフで躱そうとするもラッコが腕を押さえつけたためにわずかに遅れ、左胸のあたりに斧が食い込む。
男は痛みのあまりナイフを落としてしまう。
しかし、胸から血を流しながらも男は少女に右手を伸ばそうとしていた。
「うああああああああ!」
ラッコは男が落としたナイフを拾うと右の二の腕に突き刺した。耐えきれず倒れる男。
少女は男の胸に食い込んだ斧を力一杯引き抜き、男の体に再び振り下ろした。腹部の辺りから血がとぶ。
「この、この……!」
ラッコも少女の行動に引きずられるようにナイフで男の顔を斬りつけた。何度も斬りつけた。何度も斬りつけるうちに手が滑って男の首にナイフが刺さってしまった。
ナイフをなんとか引き抜くと傷口から血が噴き出し、ラッコの体にかかった。
傷口からはヒューという空気の漏れる音がしていた。
ラッコはようやく自分が何をしていたのか理解した。
「ぼくは、初めて人を……」
ラッコが手を止めたことに気がついたのか少女も斧を振り下ろすのをやめた。
少女はふらふらと動かなくなった女性の元へ歩み寄ると、その場で力なく座り込み泣き出した。
ラッコはその様子を見て一気に体中に痛みや疲労が駆け巡った。さっき踏んだ小石のせいだろうか、足の裏が痛い。
痛みを堪えてラッコも女性のそばに近寄る。殴られたときに首の骨が折れてしまったのだろうか、女性は首を曲げた状態で死んでいた。
「惨い、どうしてこんなことをするんだ」
女性の遺体からは尿が漏れていた。女性の遺体を見つめていたそのとき、ラッコは自身も失禁していたことに初めて気がついた。
ラッコはここにきて初めて気がついたことがあった。少女や母親らしき女性、男たちの頭には獣の耳らしきものが生えていた。こんなことにも気がつかなかったほど余裕がなかったらしい。
多少冷静さを取り戻したラッコは泣きじゃくる少女を見ていられず、すぐそばの建物に入った。
建物の中には誰もおらず、少し荒らされているような印象を受けた。ここは少女たちの家だったのだろうか。
しばらく歩いていると、荒らされた部屋の中に大きいシーツがあった。ラッコはシーツを掴むと出入り口まで運んだ。
「あ、あったあった。あと必要なのは穴を掘る道具か」
出入り口のそばに大きめのスコップがあったのでラッコはシーツとスコップを持って少女の元まで向かう。
ラッコは無意識のうちに殺されてしまった女性たちを埋葬しようと考えていた。それは善意とか宗教観などではなく、単純にそうでもしないとこの状況に精神がやられてしまいそうだったからだ。
「ねえ、キミのご両親をこのままにできないから……」
ラッコが話しかけると少女は涙を流しながら振り向いた。少女の表情には困惑が入り混じっている。
ラッコの話は通じていないらしい。それは声が聞こえないというよりも言葉がわからないといった様子だった。
少女も同じように、言葉が通じないことを理解したらしい。
ラッコ自身も困惑しながら身振り手振りで伝えた。必死になって伝えた。女性の遺体にシーツをかけてスコップで穴を掘る真似をした、そうして遺体を穴に入れようとジェスチャーをしたとき、ようやく埋葬したいという意思が伝わったらしい。少女は遺体をシーツで包んだ。
ラッコからスコップを受け取るとき、少女は何かに気がついたらしい、ラッコの手を引き建物の中に入っていった。
ラッコを椅子に座らせると、少女は水の入った桶と布、軟膏のようなものが入った容器を用意した。少女はラッコの足の傷を洗い、軟膏を塗った後、布を巻いた。
道具を用意する手際が良い。ここは彼女の家なのだろうか。ラッコがそんなことを考えているうちに手当てが終わった。
手当てを終えた少女は次にブーツと布、薬草を持ってきた。彼女は自分のブーツを脱ぐと、足に巻いてある布を外した。
ラッコにブーツの履き方を教えてくれるようだ。少女は自分の足でお手本を見せてくれる。
足の裏に薬草を貼り付けて布を巻き、ブーツを履く。
教えてくれる少女の姿は真剣そのものだった。ラッコはありがたい反面、自分から言い出しておいて作業を中断させたことを申し訳なく思った。
そして、こんな状況でここまで気遣ってくれる少女を不思議に思った。
「ぼくが異邦人だとわかってくれたのかな。国どころか、世界が違う気もするけど」
ラッコは少女に世話をしてもらって、少しだけ心に余裕が生まれた。
少女は作業に戻ると今度は、ラッコが来たときから倒れていた男性に布を巻いた。やはり父親だったのだろうか少女の瞳からは大粒の涙が溢れていた。
ラッコは少女も自分と同じで、ラッコの手当てやブーツの履き方を教えることでこの現実から少しでも目を逸らしたかった、気を紛らわせたかったのだと気がついた。
その後は2人で遺体を台車に乗せ、少女と2人で台車を押して行き、ラッコが目覚めた丘の上に遺体を埋めた。
運ぶときも穴を掘るときも一言も話さなかった。
少女は埋めるとき、少しだけ遺体の布を巻くって、両親の手を握った。
その後はラッコよりも先に少女が遺体に土をかけた。その姿は両親への未練を断ち切ろうとするような、悲しみや苦痛から逃れようとするようだった。
埋め終えた後、木の枝で墓標を立てた。
その後、木の板を見つけたラッコは名前を記そうと考えた。
そのためには彼女から名前を聞き出さなければならない。
ラッコは少女に向かい、自分の胸を叩きながら名乗った。
「ラッコ、ぼくはラッコ」
そう名乗った。もちろん本名ではない。
本名だと彼女にはわかりにくいかもしれないと思った彼は「ラッコ」と名乗った。
それを聞いた少女も返す。
「ラッコ……シル、シル」
少女はシルと名乗った。ラッコとシル、言葉が通じない2人は初めて言葉でコミュニケーションが取れた。
同様の方法でシルの両親の名前も確認して、ナイフで板にカタカナの名前を刻んだ。経験のない素人なので文字が角ばったりズレたりしたが、どうにかシルの父親の名前を刻むことができた。シルはおそらくこの世界の言葉であろう、見たことのない文字を板に刻んでいた。
最後にシルの真似をしてシルの両親に祈り、丘の上の墓場を後にした。丘を降りるときシルは一度だけ振り返った。
夕暮れ時の道を戻り、建物を目指す。
夕陽が照らしているものの、灯もなく、林に囲まれた道は陽が遮られて薄暗い。
「ちょっと気味悪いな」
それでもまだやることがあった。
「こっちもどうにかしなきゃね」
建物の前に着いた2人は最後の仕事に取り掛かった。
暴漢2人の死体の処分だった。暴漢たちが持っていた僅かな小銭らしきものや役立ちそうなものを剥ぎ取るとシルと2人で台車に乗せて、林の奥に運んだ。
林の奥には広く流れが少し早い川があったのでそこに死体を投げ捨てた。
暗くなってしまいラッコには死体がどうなっているのかはわからないが、早くなくなって欲しいとだけ思った。
建物に戻って手分けして戸締りを終えたとき、ラッコは疲れがどっと出てきた。
シルが何処かへ行ってしまったので椅子に座ったラッコは1人で物思いにふける。
今日1日のこと、目の前でシルの家族が殺されて、自分もシルも人を殺して、埋葬したり投げ捨てたりした。
「なんだこりゃ」
頭の中を整理するも受け止めきれずに疲労感が増すばかり。
ラッコが、これから自分はどうすればいいのか、家族を失ったシルはどうするのか、そんなことを考え始めたとき、シルが呼んでいることに気がついた。
シルに促されるまま部屋に入るどうやら脱衣所らしい。
「えっ、脱ぐの?」
シルの前で服を脱ぐのは恥ずかしかったが、わざわざ呼んでくれたのだから脱がないわけにはいかない。
シルに背中を向けながら服を脱いでいると背後から衣擦れの音が聞こえた。
衣服を脱ぎ終わったラッコが振り返るとシルも裸になっていた。
「ごめん」
ラッコは咄嗟に目を逸らしたがシルの白い素肌が目に焼きついた。
シルもやはり少し恥ずかしそうにしながら、体を拭くための布をラッコに渡し、隣の浴室に入った。
浴室は2人で入っても余裕があるほどの広さだった。シルと共に体を洗い入浴した。シルは湯に浸かる前に桶にお湯をすくった。湯をはった桶に粉末を入れ、血がついたラッコのパジャマをつけた。どうやら洗ってくれるようだ。
入浴中、ラッコはシルのことを極力見ないように努めた。
異性の裸をジロジロと見るのはよくないと思ったのと、先ほど男たちに掴まれたためにできたのであろう痣が二の腕にあって痛々しく見ていられなかったためだ。
それでも張りのある胸や丸みを帯びたお尻といったシルの体つきに目が行ってしまいラッコは慌てて視線を逸らした。
ラッコが湯に浸かろうとするとシルも同様に浴槽の向かいに足を入れ、ゆっくりと向かい合うように浸かった。足の傷にちょっと滲みた。
ラッコはシルが湯に浸かる動作を艶かしく感じて心を奪われた。ラッコを正気に戻したのはシルの視線だった。
シルは視線をラッコの股間に向けその後に少しだけ顔に移し、2人の視線が交じりあったところで顔を背けた。ラッコはこのとき、自分が股間を晒したままだったことにようやく気がついた。
「ほんとにごめん」
ラッコとシルは恥ずかしさや相手の体をジロジロと見てしまった申し訳なさを互いに感じて少しだけ気まずい空気のまま浴室からでた。
シルが用意してくれた服に着替えたラッコは、シルから生活の知識を教えてもらった。例えば、トイレは用を足したら水でお尻を洗って薬草で拭くなどだ。
この知識はすぐに役に立った。ラッコがシルからもらった水を飲んだ時にお腹を壊したからだ。
ラッコは水から土の香りがほのかにしたので、自分が元の世界で飲んでいた水と違うことはわかっていたが、それでもちょっと辛い経験だった。
ラッコの調子が戻るまで、シルはトイレのそばでずっと待っていた。
ラッコがトイレから出てくると、シルは部屋の灯を消し、ランプを持ってラッコをシルの部屋らしい場所へ案内した。
シルはベッドに入るが、寝床はベッド1つだけだ。
「ぼくはどこで寝ればいいんだ?床?」
ラッコが床に腰を下ろすより先に、シルが布団を持ち上げた。
一緒にベッドで寝てもいいらしい。
「えっと、その、お邪魔します」
ベッドはそれなりに大きいが1人用なのでシルとラッコは密着することになる。
ラッコはシルが2つの人形を抱えていることに気がついた。シルの腕くらいの大きさの人形たちを大事に、少し強く抱きしめるシル。今となっては、この人形たちはシルの両親の代わりなのかもしれない。
ベッドに入って間も無く眠りについたシルは、少しだけ涙を流し、やがて穏やかな寝息をたて始めた。
「これからどうしよう、シルはどうするんだろう」
自分はシルの両親の代わりにはなれない。シルは家族を失い、自分は元の世界に戻ることができない。
それでも、せめてシルが安らかな眠りにつけることをラッコは願った。
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