③ 風の神の崩壊
*
三分後。嵐が強まったのを見てセリアは研究所に戻った。脱いだレインコートには大量の雨粒が残っていて、研究所の外からはザーーーーッと言う雨音が聞こえる。
研究所の奥に行く途中、ホムラに抱えられたココミとそれらを率いるキョウスケとすれ違った。これも見慣れた光景だ。テレパシーの連続駆動はココミに多大な負担を与える様で、アネモイへのPSIインストール作業を終える度に彼らは気象塔の居住部屋へと戻るのだ。
『どうも』
『……お疲れ様です』
会釈をしてきたキョウスケへ労いの言葉をかけ、セリアは足早にアネモイの元へ向かって行く。
――次はどうなってしまったんでしょうか。
五分のインストール作業が終わる度、アネモイの調子はステップ関数的に悪くなる。
先程まで、セリアはアネモイと会話の様な物が出来た。では、それが悪化したらどうなってしまうのだろうか。
カツ、カツ、カツ。リノリウムの床へ足音を立てながら、セリアは研究所の奥の部屋を開いた。
『あ、セリア、おかえり! どう? 外は大丈夫だった? あ、髪が濡れてるよ! 風邪ひいちゃうからすぐに拭かなきゃ!』
『――』
セリアの思考が一瞬空白した。今のアネモイの言葉は論理関係が明確で、あたかも普通の言葉の様だった。
まさか、まさか、何か奇跡が起きて、アネモイの悪化が止まり、それどころか思考回路が正常に成ったのではないか。
そんな期待がセリアの胸に飛来する。
どんなお話をしようか。いや、一緒にお菓子屋に行くのも良い。キャンディがそろそろ無くなりそうだった。
セリアの脳裏に様々な未来予想が浮かぶ。
だが、それと同時にセリアは気付いてしまった。
今、自分に話しかけたアネモイは〝中央左側〟の台に座っている。
『セリア、本日のインストールで記憶の定着がほぼ完了したぞ。エアロキネシスの出力と操作性の検査はこれからだが、きっとB+を超えているだろう』
『……そう、ですか』
嬉しそうに研究所の主任が何かを言っていたが。セリアの耳にその言葉は上手く入って来なかった。
セリアの視線は中央右側の台座に寝かされたキョンシーへ向けられている。
美しいキョンシーは天井を虚無の瞳で見つめたまま、ゆらゆらと頭を揺らしていた。
無意識に唾を飲み込んだ。世界から急速に音が消えていく感覚をセリアは味わった。
セリアは中央右側の台座に進み、そこで天井を見上げたままのキョンシーへ話しかけた。
『……アネモイ。セリアです。私が分かりますか?』
そのキョンシー、アネモイは緩慢な動きでセリアへと視線を向けた。
一、二、三.セリアは黙ってアネモイの言葉を待つ。
ゆっくりとアネモイの眼に光が戻って行き、それが最高潮に成った時、アネモイはニコニコと笑い出した。
『セリア、キャンディは空でオレンジを食べるのも良いね。キョースケ達を呼んで、雨を降らそう。豊作祈願のお祭りは満月だったかな?』
『――。ええ、ええ。そうでしょうとも』
アネモイが何を言いたいのか、何を言おうとしているのかセリアには分からなかった。
しかし、確かにアネモイは今自分に向かって話しかけていて、それだけで満足するべきなのだとも理解していた。
『アネモイ、行きましょう』
セリアはアネモイのレインコートの袖を掴んだ。彼女達が過去に決めた合図。こうしたらアネモイは浮き上がり、セリアと共に動いてくれるのだ。
果たして、アネモイはフワフワニコニコと浮き上がった。習慣づけられた記憶と記録はまだこのキョンシーの中に残っている様だ。
『あ、前のぼくを連れて行くんだ。後少しでこの作業も終わると思うよ。よろしくね、セリア』
部屋を出て行こうとするセリアの背にアネモイの次世代機、アネモイ2が柔らかく声を掛ける。その声は今セリアの右側で浮いているアネモイの物と全く同じだった。
当然である。アネモイ2はアネモイのクローンだ。声帯もほぼ完全にコピーしている。
声も、顔も、体温も、何もかも、この二体のキョンシーは同一だった。
『ぼくは雨でキャンディを食べて、みんなを呼ぼう。雪だるまを崩すのも良いね。セリア、君はスコップで何がしたい?』
言葉が流暢に成っていくアネモイ2、言葉が崩れていくアネモイ。
遠からず、アネモイと話せなくなるだろう。
ココミ達の休憩が終わるまで三時間ある。セリアはアネモイを連れて研究所の前にスタンバイしていた装甲車に乗り込み、そのまま気象塔へと戻った。
平常時ならば歩ける距離だが、この雨風の中で人間が歩くのは無謀である。
気象塔は嵐の中でびくともしなかった。風圧を逃がす構造に成っていて、ありとあらゆる天候の中で立ち続けることができるよう建設されているのだ。
エレベーターに乗り、展望室へ入り、セリアはアネモイと共に中央のソファに座った。
展望室。アネモイが一番好きな場所だ。
モルグ島の何処の気象塔でもセリアはアネモイと展望室に一番長く居た。眼下の町をアネモイが楽しそうに嬉しそうに見下ろして、その傍らでセリアはアネモイとお話しする。
『アネモイ、キャンディです。ほら、食べましょう』
『良い天気だ! これは砂漠で晴天で、きっとみんなが豊作だよね!』
テーブルの上から取り、差し出したキャンディをアネモイは手に取らなかった。セリアが持つこれをそもそもキャンディだと認識していない可能性があった。
『欲しくなったら一緒に舐めましょうね』
セリアは手に持っていたキャンディをテーブルの上に戻し、アネモイを見上げる。
ニコニコニコニコ。
フワフワフワフワ。
音を無くせば、アネモイの姿に何も変わりは無かった。少年の凛々しさと少女の可愛さが混ざり合った愛らしく美しいキョンシーのままだ。
そんな美しい風の神が今、現在進行形で崩壊している。
ヒュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ。
部屋のつむじ風がまた強くなっていた。
完璧に制御できていたエアロキネシスが見る影も無い。
――逃げちゃいますか?
その言葉をセリアは口に出さなかった。誰に聞かれるかは分からない。それに、アネモイはきっとそれを望まないだろう。
『アネモイ、少しお昼寝をしませんか? あなたも疲れたでしょう』
『このまま豊作ならキャンディを食べられるね!』
『……ちょっと失礼しますね』
レインコートの裾を持ってセリアは展望室の脇に置かれたベッドへ向かい、そこにアネモイを寝かせた。
思ったよりも素直にアネモイは体に入れていた力を抜き、瞳を閉じる。
程なくしてアネモイの意識は落ち、微かな寝息が聞こえ出した。
ヒュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ。
つむじ風も、外の嵐も収まらなかったが、セリアにはどうでも良かった。
『アネモイ、インストールが完了するのに後三日ですって』
『……』
研究所の主任達からメールが届いていた。アネモイ2のエアロキネシスは出力と操作性共にB+を記録した。そして、モルグ島から来たマイケルの協力の元、インストール作業終了までの見積もりがとられたのだ。
三日。後たった三日でセリアとアネモイとの時間は終わりを迎える。
『もっと、あなたとお話しすれば良かった』
セリアの脳裏に、キョウカとレイゲンの姿が過る。彼女の様にアネモイと言うキョンシーと絆を深められたらどれ程良かったのだろうか。
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