③ 世界で一番柔らかく綺麗な物




***




「はぁ、……はぁ、……はぁ!」


 ホムラは膝を地面に付けて蹲っていた。


 老執事のキョンシーを連れたメイドとの交戦は、ホムラの活動能力へ致命的なダメージを与えていた。


 どうにか退ける事には成功したが、視界がぐらつきその場から動けなくなる。


 パチパチ。ホムラはまばたきをした。視界の明暗にはほとんど変化が無い。目の前にある自販機の明かりが微かに分かる程度だ。


 折れた左腕を無理矢理動かしてポケットからビニール袋と数枚の紙幣を取り出す。


 とにかく、栄養源を買わなければ成らない。


 何よりもココミのために、自分とココミが一緒に居るために。


――立ち上がれ、立ち上がれ、立ち上がれ。


 脚に命じ、震えながら立ち上がる。


 地面がグラクラと揺れている様にホムラは感じた。だが、ギリギリ残っている三半規管の機能が揺れているのは自分の脚だと判断する。


 動かなければ、速やかに目的のジュースを買ってこの場から立ち去らなければ。


 早く逃げなければ。


――何処に?


「……あれ?」


 ホムラは愕然とした。何処に逃げようとしたのか忘れてしまっていたからだ。


 この場から離れなければならないことは分かる。だが、何処へ逃げれば良いのかが分からなくなっていた。


 記憶が熱で融解していく。


 距離も形も判断が付かない視界の中でホムラは愛しの妹を探した。


「ココミ、ココミ、何処に居るの?」


 ココミは自分の後ろに居た筈だ。守るために。守れる様に。それだけは確信があった。


「ごめんなさい。眼がもうほとんど見えないの。お金を渡すからココミが買ってくれないかしら?」


 返答はしばらく無かった。


 あれ? とホムラは眼を凝らすが、僅かばかり像がはっきりとするだけで、薄暗い夜闇の中では意味を成さない。


――ココミ!


 そう叫び出す直前、ホムラの頬を柔らかい何かが挟んだ。


「……」


 そこに居たのはホムラの頬を両手で挟んだココミだった。


 瞬間、ホムラの視界は鮮烈な薔薇色に包まれた。視界の他全ては滲んで揺れていたが、ココミの姿だけは、そこだけははっきりとしていた。


 これは愛の力だ。ホムラは確信する。自分の愛がココミを見ているのだ。


 ココミの柔らかく滑らかな手が慈しみを持ってホムラの頬を撫でた。


「どうしたの? ココミ? 大丈夫よ。ちょっと休めば元気になるから。ただ、ごめんなさい。今は上手く体が動かないだけで、本当にすぐに良くなるから」


 真っ赤な嘘だった。ホムラの体は活動出来ているだけで奇跡だった。休んだからと言って回復は難しい。根本的な修理が身体中至る所で必要であり、それをホムラ自身認識していた。


 だが、ホムラはココミの姉だった。ココミを愛し、ココミを守るために自分は存在していると、ホムラはそう自分の在り方を定めていたのだ。


 妹を心配させたくない。少しでもこの子が幸せに穏やかに暮らせる世界にしたい。たとえ、この逃亡劇の幕切れが惨めな物に成ると分かっていたとしても、ギリギリまで幸せであって欲しいのだ。


「……」


 ココミの手は一定のペースでホムラの頬を撫でている。


 触られた場所が熱い。ココミが触ってくれた場所からじんわりと陽光の如き暖かな熱が広がって行き、落ち掛けた意識が戻ってくる。


 実際は温度上昇などしていない。ただの錯覚だ。


 されど、暖かな幻想がホムラへ立ち上がる力を与えた。


「……良し! 元気が出たわ! ありがとうココミ! これでわたしは大丈夫よ!」


 ホムラの声に活力が戻る。これでまだまだ動けそうだった。


 それならば、とホムラは自販機へ向かおうとした。いつの間にか左手に持っていたこの紙幣でカロリー源を買うために自販機へ振り向くのだ。


 けれど、ココミの手がホムラの頬から離れず、ホムラは動くことができなかった。


「ココミ?」


「……」


 蘇生符の奥、ココミがジッとホムラを見つめている。


「大丈夫、大丈夫よ。本当に元気に成ったの。元気百倍よ。また、いくらでも動けるわ」


「……」


 ホムラが何かを言ってもココミの手は離れなかった。


 決して強い力ではない。しかし、ホムラには振り払えなかった。


 そもそも、愛しの妹の手を振り払うと言う選択肢がホムラには無い。


 ココミの望む事をしてあげたい。


 ココミが嫌がる事はしたくない。


 矛盾する二つの思考がホムラの動きを固まらせる。


 その時、ココミがスーッとホムラへと距離を詰めた。


 二体のキョンシーの頭の距離が百センチ、五十センチ、十センチと短くなっていく。


「え? ココミ、可愛い顔を近付けてどうしたの?」


 互いの息が届く距離にまでホムラとココミの顔は近付いた。


 黒曜石の瞳にココミと全く同じ顔が映っている。


 愛しさと戸惑いにホムラは瞬きをした。


 ココミの瞳の中に自分が映っていることがホムラには気恥ずかしかった。


 その時、ホムラの記憶領域からとある映画のシーンが火花の様に浮かんだ。


 どの様な映画だったのかは覚えていない。前後性も、キャストの顔も曖昧だ。


 ホムラの頬を両手で挟み、ココミが顔の距離を詰めていくこの光景。


 それはとても映画的なシーンだった。


「ココ――」




 そして、二体のキョンシーの距離が零に成る。




「ん」


 接触点はだった。


 世界で一番柔らかく綺麗な物がホムラの唇へと触れている。


 ホムラはあまりの驚きに眼を見開き、


「……おねえちゃん」


 愛しの妹の肉声を初めて聞いて意識を落とした。

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