平成二年 七月二八日(土) 夜《2》

 ※

 水門で争っていた誠と拓也は、花火が打ち上がる音が聞こえると、揉め合うのをやめて空に目を向けた。

「あーあ、馬鹿ばかしい。もう、やめた!」

 拓也が鉄格子に寄り掛かって座り込むと、誠も腰を下ろす。

 二人は自分の魂が抜けて空に昇って行くのを見ているように、ぽかんと口を開けて打ちあがる火の玉を見ていると、真っ赤な火の粉が大きな音を立てて空に広がる。

 河川敷の方に耳を傾けると「おぉ!」と、人々達の歓声が聞こえた。

「由美子の言った通りだ。ここから見る花火、綺麗だな」

 牡丹の火花が消えた後、空に残る葉落を見て「あぁ、大きい線香花火みたいだ」と、少し変わったことを呟く拓也の感性に、誠は可笑しくなった。

「よく考えたら、マコトは由美子が好きなのに、里美の所に行けって言うのもおかしいよな」

「由美子が好きとか、そういうことじゃなくて、ただ本当に謝りたかっただけなんだよ……」

 誠は拓也から目を背けると、空に向かって独り言のように呟く。

「おまえ、やっぱり素直じゃねぇな」

 川の向こう岸に巨塔のようなマンションが一棟建っているのが見えるだけで、それ以外は高い建物の少ない町の空はとても広々としていて、黒い画用紙に二十四色の絵の具を使って描いたような花火が打ち上がると、この場所から観ている自分達は、打ち上がる花火と同じ高さにいるのではないだろうかと、錯覚を起こしてしまう。

 誠は今よりも幼かった頃に、花火を観ながら父が呟いていた言葉を思い出した。

『空に打ちあがる花火は、同じように見えるけど、どれも違って美しい……まるで花火は、人間みたいだ』

 そんな父の言葉を聞いて、『まぁ、ずいぶんと詩人なのね』なんて母は茶化していたけれど、今の誠はその言葉を思い出して、たとえ同い年の拓也でも、気持ちの違いはあることを感じ取れば、口では素直になれなくても、心では非を認められる。

「なぁ、みんなもいるだろうから、下に降りようぜ」

 拓也が誘いかけると、もしかすれば由美子もみんなと花火を観ているのかもしれないと誠も思い、二人は階段を下りて河川敷へ向かった。

 河川敷は夕方よりも人が増えていて、人だかりを避けながら歩いていると、堤防の上を歩く先に芳子達の姿が見えた。

「あれ、マコト、里美はどうしたの?」

「だから、行かないって言っただろ。おまえこそ、里美に言わなかったのかよ」

 しつこいことを言っていても、こちらが聞かなければ諦めると思っていたから、この場に里美がいないことには誠も気にかかる。

「ちょっと、じゃあ里美は一人で橋にいるの?最低!やっぱりこんな奴やめた方がいいって、里美に言ってくる!」

 自分たちにも落ち度があることを棚に上げて一方的に誠を批判すると、芳子、陽子、あさみの三人は、慌てて堀切橋に向かって走り出した。

「おれ達も一応、行った方がよくね?」

 誠がその呼びかけには気乗りしない顔を見せると、里美のことになると目の色が変わる拓也は、じっと睨みつけて威圧感を与える。

「わかったよ、わかった、行くよ。行けばいいんだろ」

 また苛立たせて揉め合いになるのだけは勘弁してほしいと思う誠は、やけっぱちになるように歩き出すと、拓也は清々し笑顔を浮かべながら後を追いかけた。


 ※

 花火を観ている由美子の表情は、周囲の和やかな雰囲気とは裏腹に、真剣な面持ちであった。

「ねぇ、この橋を渡りきる所まで競争しようよ、勝った方がマコちゃんに好きって言うの」

 そんなことを唐突に言われても、里美は茫然としてしまうだけであり、由美子の申し出に返す言葉などない。

 私はあなたのように、誠の近くにいることもできない。競争と言われても、由美子が既にスタートラインに立っているのなら、私は準備運動すら済んでいないようなこと。

 そんな自分が勝負をしても勝てるはずがないし、仮に勝ったとしても誠に『好きです』なんて言えるわけがないと、里美は思ってしまう。

 そもそも運動会となればいつもリレーの選手であった由美子に、五〇メートル走ではいつも鈍尻の里美が敵うわけもなく、それこそ兎と亀の話と一緒であり、条件そのものが不公平なこと。

 そんなことを里美が考えていると、由美子は続けざまに溜息をついて、「いつまでウジウジしているの?弱虫!臆病者!」と、激しく叱咤する。

 弱虫という言葉が、里美の頭の中で火打石を強く打ち付けたような癇癪を起すと、そもそも強いということは何なのかと、里美は思う……好きだとはっきり言えることが強さなら、由美子だって言えてないじゃないか。

 誠も由美子が好きなことに付け込んで、ただ側にいるだけじゃないか。それに比べれば、自分は二人の姿を見て、ずっと我慢していた。

 誠と仲が悪くなっても好きな気持ちを絶やすことなく、今日まで思い続けていた。我慢できることも、強さの一つではないのか……その気持ちを由美子の言葉は否定しているように聞こえると、溜めこんでいた思いは理性の壁を決壊するように溢れ出す。

「煩いわね!私だって、マコトが好きなのが由美子じゃなかったら、好きって言ってるよ!」

 辛い気持ちを怒りに変えて込み上げた感情を言葉にすると、里美の目からは溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。

「だから、はっきりさせようよ。私、負けないから」

 口車に乗せられた罠のようなことだった……里美は由美子の隣に立つと、傍らには花火に目を釘付けている人々が、こちらに背を向けて並んでいる。

 皆が同じ夜空と花火を見上げて、こちらのことなど気に掛けていない様子であり、その光景を見れば里美の心から羞恥心だけは取り除くことができた。

 今頃、花火師は慌てて玉を仕込んでいるのだろうか、空が一時の間、暗闇に戻ると、再び火の玉が打ち上がり、火薬が破裂する音が胸を打つように鳴り響くと、再び空に光を放つ。

 その音を合図に二人は橋の上を勢いよく走り始めた。橋は渡り切ると五百メートルほどの距離がある。里美は百メートルほど全力で走ると、呼吸が乱れ始めて思うように足が上がらなくなるが、父親ゆずりの運動神経を持つ由美子は、息乱すことなく里美の前を颯爽と走っている。

 決して追いつけない距離ではない……もっと腕を大きく振りながら、この足をもう少し前に出して地面を強く蹴り上げればよいだけの話だと、頭では分かっている。

 速く走る方法と同じように、誠への想いも、由美子を詫びる気持ちも、こうすればいいのだと分かっていても、それを心に働きかけることができないだけ。

 だが、今は由美子に言われたことの口惜しさが勢力に変わり、体には血潮が漲っている。負けたくない……その気持ちが高まると、里美は窮鼠猫を噛むというように、踏み込んだ足で地面を強く蹴り上げた。

 脇目も降らずに走る由美子の背後から、迫ってきた叫び声が生暖かい風に乗せて通り過ぎたと思えば、里美の後ろ姿が目に映る。

 いつもは箱入り娘のような里美が、誠を賭けるとこんなにも勇猛になるのかと驚き、由美子は足を竦ませる。

 里美が自分と競争して勝てるわけがないから、最後は自分が負けるように仕立てようと高を括っていたが、そもそも真剣勝負を語っておきながら、そんな気持ちで取り組んでいた時点で彼女に負けていたのを気づかされると、由美子は考えが浅はかであったと省みて自分を恥じらう。

 ならば、その気持ちに応えなければならないと思わされて、一度立ち止まった足を再び踏み出すと、気持ちとは反発するような強い力が、由美子の腕を掴んで身体を引き止めた。

「由美子!」

 掴んでいる手を辿るようにして振り返ると、引き止めたのは母であったことに由美子は驚く。

「お母さん……どうしてここに?」

「どうしてじゃないわよ!一人でこんな所まで来て」

 娘を叱咤する母の表情は、探していた我が子を見つけたことに、安堵と怒気を同時に感じる。

「どうして、一人で勝手に来るの!」

「だって、私……お父さんに会いたかったから」

 空に打ち上がる青牡丹の光が由美子の顔を照らすと、瞼には涙の滴がこぼれ落ちている。

 母が強く握りしめた腕を開放するように離すと、由美子は手のひらで涙を拭った。

「お父さんはもう、ここには居ないから……ここに来ても会えないのよ」

「じゃあ何処にいるの?教えてよ。私、まだお父さんにお別れもしていないんだよ。お父さんと、お母さんは別れたのかもしれないけど、私はまだ別れていないんだから!」

 母は打ち上がる花火を見て、去年の出来事を思い出した。福岡に引っ越す前に、お父さんと一緒に花火を観たいと言っていた由美子であったが、その願いを叶えさせぬまま、花火大会の前日にこの町を出た。

 特に深い意味があったわけではない。ただ子供の思いまで気が回らなかっただけだ。

 花火を観るなんてことは、心に余裕のある人ができることであって、そうでない人間には花火大会がある夜も、何事も起こらぬ夜も、それは辛い一日の終わりでしかない。

 今だって花火を見ても、心が癒されることや、それを美しいと思える余裕が自分には無い。

 目に映る煌びやかな火花の色は、荒んだ気持ちの中でモノクロームに変えられて、乾いた心を潤すことはない。

 幼い頃から、打ち上げ花火の音を聞くと空襲を思い出すから嫌だと言う母のために、花火大会の夜に家族で出かけることなどなかった由美子の母には、我が子が父親と花火を観たいと思う気持ちなど分からなかった。

「由美子、とにかくお父さんには会えないんだから、帰るわよ」

「嫌!私、絶対にお父さんに会って帰る!」

 母が再び腕を掴むと、由美子は捕まった鼠のように激しく暴れて腕を振り解こうとするが、激しく抵抗する娘の姿を見て感情的になった母は、涙で濡れている由美子の頬を平手で強く叩いた。

「お父さんはね、お母さんと由美子を捨てたの!会いに行ったって、嫌がられるだけ。今は自分だけ幸せになって、別の人と一緒に暮らしているのよ。そんな所に行きたいの!」

 そんな筈ない。いつも優しかったお父さんが、私を捨てるはずなどない……由美子の脳裏から笑顔を見せた父親の顔が霞んでゆくと、魂が抜けるとはこういうことだと感じる。

 先ほどまでは全力で駆け抜けるほど躍動感に溢れていた足も、気力が抜けて膝から崩れ落ちそうになると、母は脱力する由美子の体を抱きしめて支えた。

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