平成二年 七月二八日(土) 夜《1》

 平成二年 七月二八日(土) 夜


 薄明りの夜空には菊先、牡丹、型物と、立て続けに打ちあがるスターマインが、河川敷に集まる老若男女の目に映ると、全ての人が空を見上げる。

 建物の窓に明かりがついているのを見ると、今はあの町で暮らす人々も、それぞれの場所から花火を観ているのだろう……家の庭やベランダ、子供部屋の窓、停車した車の中、赤信号で立ち止まる人々だけでなく、犬小屋の犬や、屋根の上の野良猫も、きっと同じ夜空を見上げているのだろうと想像が膨らむ。

 堀切橋の上では、花火が打ち上がる度に、「玉屋、鍵屋」と威勢の良い掛け声が飛び交っていた。

 堀切橋で誠を待つ里美も花火を観ていたが、今の里美にとっては、まさに上の空のこと。頭の中は誠のことばかりが駆け巡り、目に映る景色は意識の外にある。

 小学三年生の夏に浴衣姿を誠に揶揄われたものだから、今日は淡い桃色のワンピースを着て、唇には艶やかな色の口紅を塗っている。

 芳子の言いつけ通りにやって来たが、人々の目が花火へ釘付けになる頃になっても、誠は来ない。

 右を見れば小さな子供を肩車する父親と、微笑んでいる母親の仄々とした家族の姿。

 左を見れば、浴衣姿の女子中学生の四人組が、団扇を仰ぎながらキャッキャと笑っている。

 その間に挟まれて佇んでいると、傍から見れば一人で花火を観に来ているような状況が切なさを誘い、空回りの結果を思い知らされる。

 誠に可愛いと思われたくて着てきたはずの桃色のワンピースが、今はまるでピエロの衣装に思えると、胸を高鳴らせて浮かれていた時の自分を振り返って恥ずかしくなる。

 冷静に考えれば分かることだった。由美子を敬遠するようになってからは、誠との仲も険悪な状態である上に、ここへ来るように交渉したのが芳子であれば、尚更のこと話を受け入れるはずがない。

 誠と二人で花火を観るなんて、そんなエイプリルフールの嘘みたいな話でも、『恋は盲目』と言う言葉を辞書で調べれば、自分のことが用例として書いてあるような気持になっていた。

 いたたまれなくなった里美は、その場から去ろうとして歩き出すと、行く先に一人の少女が立っているのが見える。それは誰なのかを月あかりの中では認識できずにいたが、打ちあがった牡丹の火花が夜空を紅色の光で包み込むと、微笑みながらこちらを見ている由美子の姿を照らし出した。

「里美、久しぶり」

「由美子!本当に帰って来ていたんだ」

 幻を見ているのか確かめるように駆け寄った里美が、目を見開いて驚いている顔を見て、由美子はくすりと笑っている。

「花火大会なのに一人でいるなんて、みんなはどうしたの?」

「いゃ、別に……」

 由美子の問いかけに言葉を詰まらせる里美は、話を誤魔化すように眼を逸らした。

 由美子を目の前にすると、里美はどうも素直な気持ちになれない。今日は少し背伸びをしてみたつもりの洋服だが、由美子が同じ色のワンピースを着ていることに気づくと、彼女の大人びた雰囲気に比べれば、似たような衣装を身に纏っても、自分では服に着られていると思わされて劣等感に苛まれる。

 昔から友達というよりも、由美子はお姉さんのような存在であったが、一年ぶりに会えば、その撫で下ろしたように艶やかな髪、頭を撫でてきそうなほどすらりとした高い背丈、やや膨らんだ胸元を見ると、自分は彼女より女性としての魅力が劣っていると感じる。

 由美子を敬遠していたのは周囲に合わせたことではなく、その以前から口では友達だと言いながら、心の中で感じていたのは嫉妬だけだった。

 同じ女性としての嫉妬、誰からも好感を得る人柄への嫉妬、そんな彼女に誠は魅かれていることへの嫉妬。

 相手にされない自分が誠の側へ近づくには、由美子と一緒に居ることしか術はなかった。

 誠の側に居たいから由美子と一緒にいたものの、独占欲から彼女を退けようとすれば、誠も離れていった。

 里美からすれば、自分と由美子は兎と亀みたいなものだ。由美子が足の速い兎ならば、自分はのろまな亀。誠のことに関しても、由美子は自分に自信があるから、あぐらを掻いているように見える。

 だが物語の亀は、居眠りする兎を起こすまでしなかったものの、自力で勝った。それに比べて、自分は周囲の連中と一緒になって由美子を無視していたから、兎に勝つために集団で罠を仕掛けたのと同じだ。

 だから今、感じているのは嫉妬ではなく、由美子への罪悪感と、卑怯で醜いと思う自分への嫌悪感である。

「由美子、私、ずっと謝りたかった……だけど」

 涙ながらに訴えようとする里美を見ると、由美子は黙ってかぶりを振る。

「大丈夫、私は何も気にしてないよ。だって、あの時は私が悪かったんだから」

 いつも我が身のことばかりを考えていた自分と違い、由美子の大らかな気持ちに人格の差を感じると、初めから自分では敵わぬ相手であったことを、まざまざと思い知らされる。

「マコちゃんは?」

 由美子が訊ねると、里美は「知らない……」と言いながら、嘆かわしそうに首を横に振る。その様子を見て由美子は、ガードレールに腰を掛けると、呆れているような顔を見せながら溜め息をついた。

「あーあ、私が引っ越したら、マコちゃんは里美に取られると思って心配していたけど、何だか馬鹿みたい」

 先程まで大らかな様子であった由美子が、まるで別の人格でも現れたように様変わりした態度で話すものだから、里美は驚きのあまり涙が止まる。

「言っておくけど私、今でもマコちゃんのこと好きだよ。だけど里美はいつもはっきりしないから、今日は、はっきりさせようよ」

「えっ、どういう意味……」

「好きなんでしょ?マコちゃんのこと。だからお互いに、マコちゃんへの気持ちをはっきりさせようって言っているの」

 さらりと話す由美子の言葉を受け入れられぬまま、里美が動揺していると、空には黄金やしが舞うように打ち上がった。

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