第10夜 卒論狂騒曲

 皆さん。

 こんばんは。

 枕崎まくらざき純之助です。


 8月も後半になり、4月から新生活を始めた人たちはそろそろ新たな環境に疲れも感じてきた頃でしょうか。

 新社会人の方は「楽しかった学生時代に戻りたい」と思っている方もいらっしゃるでしょう。

 ……が!

 僕の学生時代は最後の最後で悲惨なドタバタぶりだったので、あの頃に戻りたいとはこれっぽっちも思いません。


 卒業論文。

 略して卒論。

 それは学生を卒業するための最終関門。

 これをくぐり抜ければ晴れて卒業ですが、失敗すれば悪夢の留年。

 まさに生きるか死ぬかの大勝負なのです!(大げさ)

 今夜はその卒論に僕が悪戦苦闘した時のお話をいたしましょう。


 あれは僕が22歳の冬でした。

 卒業を間近に控えた1月。

 この年の年末年始は僕にとってはまったく楽しくもなく、のんびりすることも出来ない怒涛どとうの日々でした。

 なぜなら卒論の〆切しめきりが1月上旬にあり、最後の追い込みでヒィヒィ言いながら卒論制作の作業を進めていたからです。


 卒論のテーマはありふれた英語学のことについてなのですが、同級生たちの選んだテーマと比べても特別難しくない平凡なテーマでした。

 ただ、それまでの人生で論文なんてまともに書いたこともなかったので、僕は随分ずいぶんと苦戦をいられました。


 そもそも卒論は教授の指導のもと、4月からテーマ決めなどの下準備を進めていくものなのですが、僕は夏くらいまでは「余裕余裕。まだ数ヶ月もある。秋から本気出す」とたかくくっていました。(典型的なダメパターン)

 ですが作業すればするほど自分の論文のあらが見えてきて、書いてはやり直し、書いてはやり直しの繰り返しで時間だけが過ぎていきます。

 考えてみれば小学生時代も僕は夏休みの宿題が8月31日の夜9時になっても終わらずに、泣きながらやっていたほど計画性のない子供でした。

 22歳にもなれば自然と成長している……はずもありません。


 そんな感じで年が明けても作業は終わらず、いよいよ〆切しめきり前日です。

 当時1人暮らしだった僕は、家賃を捻出ねんしゅつするために働いていたバイトもこの日は休み、徹夜で作業を進めます。

 数日前までも夜遅くまで作業が続いていたのですが、だいたい寝落ちして朝後悔するパターンが続いていました。

 ただこの日はさすがに〆切しめきりまで24時間を切っていることもあり、追い詰められていた僕は意識がギンギンに冴えた状態で〆切しめきり当日の朝を迎えます。


 期限はこの日の夜8時。

 作業は佳境かきょうに差しかかっていましたが、間に合うかどうかは正直ビミョー。

 小学生の頃のように半泣きになりながらパソコンにかじりつきます。

 時間は無情に過ぎていき、すぐに太陽は西から赤い光を投げかけてきます。


 あの太陽が沈むとき、わたしの命も終わるのね。

 なんて馬鹿なことを言っている場合じゃありません。

 僕の脳裏に浮かぶのは『留年』の2文字。

 この日の約3週間ほど前、12月の半ばにあったある出来事が僕の記憶に鮮烈によみがえります。


 その日は卒論の指導をして下さっている教授の部屋に、僕を含めた数人の生徒たちが集まり、最後の追い込み指導を受けていました。

 その際に教授がある1人の女子にお説教をしていたのです。


「君、このままじゃ間に合わないよ。最後まであきらめずにがんばらないと」


 どうやらその女子の作業の進み具合は相当にヤバかったようです。

 4年間の在籍中、僕は一度もしゃべったことのない女子でしたので、彼女がそんなにも卒論に苦しんでいたことは知りませんでした。

 しかしお説教を受けた彼女は感情の糸が切れてしまったのでしょう。

 いきなり立ち上がると、あろうことかこう言い放ったのです。


「もういいです。留年しますから」


 そう言って彼女は部屋を出ていってしまいました。

 僕をふくめた同級生たちは唖然あぜんとしましたが、教授はため息をついたきり、彼女を引き留めることはしませんでした。

 おそらくそれまでも何度もそういう生徒を見てきたのでしょう。

 そもそも大学の先生はそんなものです。

 学ぶ意欲のない生徒に無理に学ばせることはしません。


教授「それでいいのか! 悔しくないのか!」

女子「悔しいです!」


 そんなラクビー部みたいな熱いやり取りはありません。

 その後、彼女が本当に留年したのかどうかは分かりませんが、僕には他人のことを気にかけている余裕はありませんでした。

 親に学費を払ってもらっている以上、「てへっ。留年しちゃった☆」などと親不幸なことは口が裂けても言えませんから。

 そんなこともあり、留年への恐怖から僕は必死に卒論制作に取り組んできました。

 だというのに最終日までもつれこむ自分のドタバタぶりが本当に嫌になります。


 時刻はすでに夕方5時。

 8時の〆切しめきりまで3時間を切りました。

 家から学校まではドアtoドアで40分近くかかりますから、とにかく7時には家を出なくてはなりません。

 そして午後6時30分。


「お、終わった……」


 いや、僕の人生が終わったとかじゃありませんよ。

 作業がついに終わったのです。

 卒論の完成です。

 喜びと疲労とで倒れ込みそうになりましたが、倒れているひまはありません。

 提出期限まで残り1時間半。


 即座にこの原稿をプリンターで印刷しなければなりません。

 当時はまだ書面での提出が当たり前でしたので。

 僕は7年使っていた古いプリンターに用紙をセットしつつ、印刷を開始しました。

 僕が苦労して書いた文書がプリント・アウトされていきます。

 喜びもひとしおです。

 しかし……。


「んっ? あれ?」


 唐突にガガガッと音を立ててプリンターが沈黙します。

 順調に進んでいたはずの印刷が途中で止まってしまいました。

 

「ど、どうなってんの?」


 僕は思わずあせってプリンターに手をかけます。

 ふたを明け閉めしたり、電源をオンオフしても印刷は再開されません。


「おいおい。カンベンしてくれよ。どうしちゃったんだよ」


 あちこちプリンターをいじくり回しても状況は改善されず、僕はとうとうプリンターをバンバン叩き始めます。


「直れ! 直ってくれ!」


 昭和です!

 昭和のテレビを直すやり方です!

 それでもプリンターはかたくなに動き始めません。

 唖然あぜんとして立ち尽くす僕ですが、ふとそこでパソコンの画面に目を留めました。


「あれ?」


 その画面上にはプリンターのインク切れを知らせる表示が映っていました。

 な、何だぁ。

 そういうことかぁ。


 バンバン叩いてごめんよプリンター。

 痛かったろう?

 無知な僕を許しておくれ。

 なんて言ってる場合じゃありません。僕はそこでふいに青ざめました。


「か、替えのインク……あったっけ?」


 僕はパニックになりそうな頭の中を整理しながら、補充用のインクを持っていたかどうか不安を覚えて部屋中を探し回ります。


「マジかよマジかよ~! こんな時に何なんだよ!」


 僕はこの切迫した状況をのろいますが、すべては自分の準備不足です。

 神に祈る気持ちで部屋中をひっかき回した僕は……奇跡的にインクを発見しました。


「あ……あったぁぁぁぁぁ!!」


 幸いにも未使用の補充用インクが押し入れの中に入っていました。

 当時所有していたプリンターは古く、注射器型のインク注入キットを使ってインクカートリッジにインクを補充するタイプでした。

 九死に一生を得た僕はプリンターからインクカートリッジを取り出します。

 時間は刻一刻と過ぎ去っていきます。

 それまでの人生でこんなにも1分1秒を惜しんだことはありません。


「あっ……」


 そのあせりからか、僕は補充用のインクを床に落としてしまいました。

 そのはずみで、フローリングの床に黒いインクがバーッと広がっていきます。

 な、何てこったぁぁぁぁぁ!!

 恐ろしい光景です。

 地獄絵図です。


「く、くっそぉぉぉぉぉぉ!」


 僕はインクで手が真っ黒になるのも構わずに、補充用のインクを拾い上げると、かろうじて残っているインクをカートリッジに注入していきます。

 この時点で時刻は7時を回ろうとしています。

 本当ならばもう家を出なくてはいけない時間です。

 僕はとにかくもう急ぐことしか出来ません。


 インクの補充が終わってようやくプリンターが再び動き出し、紙を吐き出していきます。

 ですが……インクの補充が不十分だったのか、それともカートリッジにまだインクが馴染んでいないせいか、紙面に印刷される文字はメチャクチャ薄い、薄墨うすずみのような頼りない文字でした。


 それでももう印刷するしかありません。

 プリンターの設定をいじっている時間はないのです。

 7年目の年老いたプリンターはおじいちゃんがゆっくりと散歩をするように、えっちらおっちらと印刷を続けています。

 とても見ていられません。


「早く……早く印刷終わってくれぇぇぇぇぇ!」


 僕は運を天に任せて、インクで汚れた手を洗い、最低限の出発の準備を整えます。

 そして、ようやく全ての印刷が終わりました。

 刷り上がったその原稿は、文字がひどく薄く、インクで汚れた手で触ってしまったために、ところどころ僕の指の指紋がついたとんでもなくミジメなものでした。

 ですが今の僕にはもうこれしかありません。

 このミジメな原稿が今の僕なのです。


「行くぞっ!」


 僕はインクをブチまけた床もそのままに原稿を手にすると、身なりも大して整えずに家を飛び出しました。

 時刻は……7時を大きく回り、すでに7時15分に達しようとしています。

 必死に駅までの道のりを走りながら僕は時間を逆算します。


 自宅から最寄り駅まで走り続けて約7~8分。

 あらかじめ頭の中に記憶していた7時台の時刻表で次に来る電車にギリギリ間に合うかどうか。

 そして電車に乗っている時間が約20分。

 電車を降り、学校の最寄り駅から走り続けて、指定の教室まで辿たどり着くにはどう考えても10分はかかります。


 1本でも電車に乗り遅れればアウトです。

 万が一、電車が遅延していてもアウトです。

 すべての歯車がうまく合致してくれればギリギリ間に合うという状況でしたので、たった1つの狂いが生じれば全てが終わってしまいます。


 僕は駅まで無我夢中で走り続け、何とか電車の時刻に間に合いました。

 そして電車の中で、もっと速く走れと祈り続けます。

 ようやく学校の最寄り駅についた僕は、そこからさらに走り続けます。

 そして……その10分後。

 



「君ねえ。ギリギリにもほどがあるでしょ。1分前だよ1分前。君が最後だよ。どうしてもっと余裕を持って来られないの」




 僕は教室で待っていた受付の教授たちにお説教をされていました。

 そう。

 本当にギリギリでした。

 7時59分。

 冗談でも脚色でもなく、|〆切《しめきり》時間の1分前に僕は文字通り、卒論の受付へと駆け込んだのです。


「少しでも遅れていたらどうするつもりだったの」


 教授たちからは他にも色々と言われましたが、僕は心身の疲労で呆然としていたため、まったく頭に入って来ません。

 それでも卒論を提出し終えたという事実を僕はみしめていました。

 安堵あんど感と虚脱きょだつ感を抱えて、僕はフラフラとしながら家路につきます。

 帰り道のことは漠然としか覚えておらず、気が付くと僕は家の前に立っていました。

 この時になって気付いたのですが、部屋の電灯はつけっぱなしでした。

 さすがに戸締りはしていましたが。


 ああ。

 わずか2時間前。

 僕はここで崖っぷちのドタバタ劇を演じていたんだなぁ。

 そんなことを考えながら家のとびらを開けると、部屋の中には汚れた紙が散乱し、インクが床の上にぶちまけられたままでした。

 

 な、何だこのひどい有様は。(おまえのせいだ)

 どっと疲れが吹き出してきます。

 幸いにして自宅の床は水気を弾くタイプのフローリングでしたので、き取って事無きを得たわけですが、その日は疲れているはずなのに気がたかぶって遅くまで眠ることが出来ませんでした。


 こうして僕の見苦しい卒論狂騒曲は幕を閉じたのです。

 すべては自分の準備不足と見通しの甘さが招いたことですが、その後も僕の人生は万事こんな感じです。

 え?

 それで卒論は無事に合格点をもらえたのかって?


 ええ。

 読み返してみると我ながらひどい出来でしたが【優、良、可、不可】のうち、ありがたくも【可】をいただき、卒論はギリギリ合格となりました。

 え?

 じゃあもう卒業の心配はないなって?


 ハッハッハ。

 いやあ、それが人生そう甘くなくてですね。

 その1カ月後。

 2月のことです。


「先生! お願いしますよ! もう一度課題をやり直しますから見て下さい! 僕この単位を落とすとせっかく卒論を提出したのに、卒業できなくなっちゃうんですよ」


 教授に必死に懇願こんがんする僕の姿がそこにありました。

 実は僕、2年生で修得しておくべき必修科目を2つも落としておりまして、それを修得しない限り卒業できなかったんですね。(アホ)

 4年生にもなって何をやってるんだ、とか言いっこなしですよ。

 

「この課題じゃダメだよ。単位はあげられないな」

「もう一度やり直しますから、そこを何とか!」


 もういい加減しろ、という声がどこからか聞こえてきますが気のせいですかね。

 この後、僕が留年せずに卒業できたかは……まあ、それはいいじゃないですか。

 言わぬが花、ともいいますし。

 

 さて、長くなってしまいましたが、今夜はこの辺で。

 もし読者の皆様の中に学生の方がいらっしゃるなら、今日の話を安心材料にして下さい。

 こんな行き当たりばったりの僕でも、その後の人生をそれなりに楽しく生きていますから。

 きっとあなたも大丈夫。(適当)


 では、おやすみなさい。

 またいつかの夜に。

 今宵こよいもいい夢を。

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