「最終決戦じゃん」
はてさて何処まで漕いで行けばよいのやら。
ところが川を下り終え、後は寄せる波に逆らうだけ――というところで改めて抱いた億劫な気持ちと裏腹に、当初の目的は存外にあっさり達成されることになった。
「あ」
白い髪。
黒い角。
ボロボロの装束を身にまとう、幽霊少女。
見間違うはずもない――シマを閉ざす諸悪の根源、ウグメである。
いつからそこにいたのか。忽然という言葉は、まるで彼女のために存在していたのかと思われるくらい、彼女は船の先端に、重さも感じさせずふわりと舞い降りていた。
「誰が来るのかと入江で待っていてみれば。よほど、セイバーズは人材に困っているようね」
「……それはどういう意味かしら」
「村での生活は楽しい? おまえの計画を未遂に終わらせた私に、ちゃんと感謝してる?」
「してるわ。少しね」
「素直な子は嫌いではない。ならば特別に、この私がどんな質問にも一つだけ答えてやろう」
「じゃ、このシマから出る方法」
「ない。質問は終わりね。では、さーらーばーだー」
「…………」
そうしてウグメは再び姿を消し、イルフェは一人、取り残されるのであった。
……。
「…………いやいやいや!! この下らない掛け合いでマジで帰るやつがあるかっ!? 待ちなさいウグメ!! うおおおおおお結局これ沖まで出る必要があるのかふっざけんじゃないわよおぉぉぉぉぉおおおおおッ!?」
かくして折角のチャンスを棒に振ったイルフェは、全力で波を乗り越える羽目になったのだった……。
*
ウグメが再び姿を見せたのは、イルフェの息もだいぶ上がってきた頃だった。
「『今度は何の用だ?』みたいな顔してんじゃないわよっ!? 誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるわけ!?」
「……あぁ、それはすまない。素直に感謝されていると分かると、なんだか照れ臭くてな。思わず逃げ帰ってしまったのだ。許せ、人の子よ」
「その抑揚のない言葉遣いをどこまで信用したらいいのよ!」
「一から十まで、全て信用してくれて構わない。私は嘘が嫌いだ。故に、一切の虚実なく、あらゆる追求も真実のみで煙に巻いてみせよう」
「余計に厄介なことするんじゃないわよ!」
「そいう滾るな。みなまで言わずとも分かっている。海からシマモノが現れた件についてだろう?」
「ちがっ…………わなかった! えぇそうよ! それ以外ないでしょ!?」
急に話の腰を折り、本題へ移るウグメ。
そう、海から来たシマモノの話。それがしたくてこんなに疲弊する羽目になっているのだ。何か実のある話が聞き出せなければ、到底割に合わない。
「呪神メロウが守っている限り、海からシマモノは来ないはずなんじゃなかったの?」
「その認識は、概ね正しいと言えるだろうな」
しかし絶対にとは言い切れない。ウグメはそう続ける。
例外はある、ということだ。例えば――
「メロウに、何かあったとか?」
「いや。特に何も。性癖以外は至って正常だ」
「……いつも通りってことね。じゃあ何? 海のシマモノが進化して、メロウの力で抑えられなくなったとか?」
「それな」
「同意されても困んのよ。え? さてはあんたも知らないの???」
「知っているかそうでないのかと言われれば、今は関係者の情報を精査している段階でありまして、ここでその答えを述べることは難しいと考えております」
「知らないなら知らないって言えば!? え? じゃあ何? 私完全に無駄足だったってこと!?」
「そうかもね」
「むきーーーーーっ!! 帰る!!」
引き返そうとするイルフェを、まぁ待てとウグメは嗜めた。
「土産話くらいは用意してあるから聞いていけ」
「ヒマじゃないんだからさっさとしてよね」
「とりあえず今は海底から新たにシマモノが上がってくることはない、ということを私の名において保証しておく。少なくとも、今はな。安心していいぞ」
「それもどこまで信じていいのやら」
「先に言った通り、全幅の信頼を寄せていただいて構わない。何せ今はポンコツのメロウに代わり、私が視ているのだから。端的に言えばおまえたちをシマから出さない結界と同じモノを海面に敷いている、とでも考えてくれればよい」
「なるほど」
それはとても頼りになる。皮肉にも。きっと誰も出られまい。
「ただし」
ウグメは人差し指を立て、忠告する。
「そもそも海底のシマモノの動向などは本来、私には何の関係もない。シマに間借りしている人間がシマの掟によってどうなろうとも、私にとっては管轄外の話である。故に、今回の措置には時間制限を設けることにする」
「ずぅっと面倒は見てくれないってことね。いいわよ別に。で、いつまで?」
「明日の昼までだ。それまでにメロウが新しい結界術を習得し、海底のシマモノ対策を強化できなければ、いずれまた今日のような……いや、今日よりさらに酷いことも起こるだろう。ふふふ。どうだ。残酷な仕打ちだと私を罵ってみるか?」
「ふん。何を言ってるやら。いっそ信頼できるわ。だいたい
ウグメの存在理由は、あくまでもシマの人間を外へ出さないこと。
だから、それ以外のことに関して、彼女は一切、人間を特別扱いしない。
この閉ざされたシマの中でどう生きてどう死ぬか、それは全て人々が選んで決めていくこと。本来ならばこのような一時的な措置すら、ウグメにはする理由も、義理も、義務も、何一つ存在しないのである。
しかし、他でもないウグメがそれを言うのだから、今現時点での安全については返って不思議な説得力が感じられた。それにたった一日だけでも人間にチャンスをくれたというだけで十分なのだ。文句などないし、残酷な仕打ちだなんて、欠片も思わない。
「そうか。強いな」
ウグメはそう呟いて、視線を村の方へ向ける。
その横顔には、初めて出会った時とは違う、人の感情のようなものが微かに滲んでいた。
――ちなみにここでは黙っていたが、本来何も関係ないはずのウグメがそれでも動いた理由は、未来から来たあの不死鳥のことを、多少なりとも気にかけていたからだった。
(いっそシマモノの襲撃で、正体不明の犯人ごと島民が全滅してしまえば、それが一番手っ取り早いのだが……しかし私を守るために暗躍しているロゼを見殺しにするのも寝覚めが悪い。……私ともあろうものが、余計な感慨を抱くようになったものだ)
明日の昼までという時間制限についても、ウグメなりの理由や根拠があったりするのだが、どうせ誰に何を説明したところで、理解も納得もされやしないだろうし。
せいぜい嘘は言わない。
持ち合わせる情報の全てを逐一開示もしない。
言いたいことだけ言って、何かを仄めかせ、それで終わり。
いつものように。
その結果、誰にどう思われようとも、構いはしない。
そういう距離感でいいのだ。
どうせ人間とは、文字通り、住む世界が違うのだから。
「せいぜいメロウを応援することね。あの子が間に合わなきゃ、【居住区】とやらも、いつまでも平和な場所ではいられない」
「それはそうなんだけど、一つ言わせてもらってもいいかしら」
「なぁに?」
「居住区が平和な場所だなんて思ってるのは、きっとあなただけよ」
――それもそうか。
と、ウグメは不意の指摘に感心しながら、くすりと笑う。
「……ウグメも、笑うことってあるのね」
「? 何の話か分からないけれど。用はこれで済んだな。ご苦労であった。特別に浜まで送るから、さっさと戻って加勢するといい」
「え? 加勢って?」
なんだ、知らなかったのか? と、ウグメはきょとんとした顔でしれっと言う。
「明日の昼までおかわりは無いが、今朝までにメロウの網を突破したシマモノは百匹以上いたからな――今まさに村が戦火に包まれているところだが、それともここで一緒に村が壊滅するのを鑑賞していくか?」
「――そういう重要なことはッ、一番初めに言いなさいよぉっ!?」
そんなわけでウグメの不思議パワーで浜までワープしたイルフェは、全力ダッシュで村へととんぼ返りするのであった……。
――最初は村を殲滅しようとしていたくせに、随分丸くなったものである。
しかしまぁ、それはたぶん悪くないことなので、それでいいのだ。ウグメはそう思いながら――ふとイルフェの言葉を思い出した。
「……笑う? 私が? …………」
……最近、思う。
世界が終端に近付くにつれて、自分の中に、人間の感情のようなものが芽生え始めている、と。
メロウがいつも通りぎゃあぎゃあ煩いのを、ちゃんと煩いと感じるようになったのは、いつからだったろう。未来から来たなどと珍奇なことを言う歪んだ【Law】の持ち主と、毎日会って話をするようになってからだろうか……。
人間と関わるのが、そう悪くもないことだと思い始めている自分が、心の何処かに……
「馬鹿なことを。それを認めれば、私は死ぬしかないというのにな」
*
「最終決戦じゃん……」
大急ぎで村に戻ってきたイルフェが見たのは、自分が手を下さずとも結局は燃え盛ってしまった村と、それを包囲し蠢く数多のカニ型、ヒト型シマモノの混成部隊。そしてそれらがヒトツメ病院に到達しないように奮闘するセイバーたちの姿だった。
ただ、建物の被害は甚大だが、状況はむしろ優勢に見える。
ヒト型シマモノは確かに強力だが、それでも研鑽を積み重ねたセイバーの連携による各個撃破は決して不可能なことではなく、確実にその数を減らしていっているからだ。
戦闘員の士気も悪くない。むしろ押せ押せムードだ。調子に乗って油断して死ぬようなヘマは勘弁願うが、絶望感が無いのはいいことだった。
こんな面白そうなお祭りに乗り遅れたことの方が勿体無いと感じる程度には、余裕が見える戦況だと言える。
――それも恐らくは、気持ち悪い覆面をつけた誰かさんの采配に違いない。
村人の命を優先し、村そのものは敢えて放棄したのだ。その判断が功を奏したと言えるだろう。守る範囲が少ないことで、密度を高めた最大戦力をぶつける形になっている。まさしく個々の性能で劣っていても勝てる兵法のお手本だった。
ただしこんな戦い方をしたら、よその国であれば指導者の責任問題である。滅茶苦茶になってしまった村を、どうするつもりなのだろうか。
「村を守るためならマジで容赦しないとは聞いていたけど……ここまでやるのね」
『生きてりゃ何度でも立て直せんだよ。人間様をナメんじゃねぇ』
脳裏に、あの覆面男なら言いそうな言葉が思い浮かぶ。一度もそんなこと言われた記憶はないのだけれど。
でも本当にこれが解決した後に村人たちの前で言いそうな気はする。
スパルタなんだよなぁ。
戦闘に駆り出されているセイバーたちにとってもそうだ。ここでの戦闘はきっと、シルバー級以下の戦闘員の戦士としてのステージをまた一つ押し上げるだろう。
命ギリギリの実戦に勝る経験は存在しない。これも覆面をつけた変態の言いそうなことである。名言のつもりなのだろうか。そんな誰でも知っている当たり前のことが。
まぁ、当たり前だからと言って誰でも簡単に出来ることではないのだけれど。
「……さて、何処に加勢したらいいかしら」
敬愛するフェルエルの姿を探しながら、イルフェもまたその戦場に飛び込んでいく。
彼女はまだシルバー級だが、それはあくまでも加入した時期の問題。実力はゴールド級にも決して劣らない。彼女の加勢によりシマモノの軍勢が後方から瓦解していけば、そこから戦局は一気に人類の勝利へ向けて傾いていくだろう。
――と、金髪エルフ娘が村の端っこの方に戻ってきた頃。
村を防衛する最大戦力となるはずだった
「――なぜここが分かったのです?」
一番派手な戦場からはだいぶ遠く。
ここにいれば絶対に安全だと思われる、僻地。
なのに覆面男は狙いすましたように現れ、シマモノの前で今にも剣を抜こうとしている。
それはいったいなぜなのか――気になって仕方がなかったので、眼の前の本人に、直接聞いてみることにした。
果たして言葉の通じる相手なのかどうかは不明だが。
「なんだ。言葉が通じるのか。やりづれぇな」
すると、ちょうど同じことを思っていたらしい彼はそう言って後頭部をかき、ため息をついた。
「俺は種族や見てくれでヒトを差別しねぇからな。意思の疎通が可能なら、シマモノだろうが
「心優しい人間は、心優しいかどうかの答えを他人に委ねることはしないと思いますがね」
「くっくっく。そうかもな。優しいだけじゃ、世の中やっていけねぇこともあらぁ」
「……最初の問いには、黙秘ということでよろしいですか?」
「あ? あぁ、何だっけ。なぜここが、か。まぁ端的に言えば、酒、かな」
「酒……ですか」
「それも、そこそこいいヤツな」
「なるほど……」
全然分からん――と大ボス個体のヒト型シマモノは思ったが、面倒なのでそれ以上は話を広げなかった。どうせ、出会ってしまえば殺し合うより他になし。それがヒトとシマモノの宿命。さっさとこいつを始末して、村を落とす次の手を講じなければならない。それが、シマモノの中で極めて稀な、知性を持って生まれた特別な自分の、果たすべき役割なのだ。
「俺からも一つ聞かせろ」
「なんです」
「おまえらシマモノは、どうしても人間を殺したいのか」
「……殺したい? ……。……我々はただ、還りたいだけですよ」
「……そうか。難しいな。分かり合うのは」
「簡単ですよ。分かり合うなんて」
「羨ましいね。ご教授願おうか」
「それは死ぬことです」
「禅問答かな」
「――死は、すべてを平等にする」
「悪平等にも程があらぁ」
――大ボス個体のヒト型シマモノには、確かに言葉を理解するだけの知性がある。
増援の望めぬ限られた戦力の中から斥候部隊を繰り出し、シマの戦力を推し量り、思考し、作戦を立て、実行に移すだけの知能がある。
なぜ、自分だけが特別なのかは、本人にさえ分からない。
ただ海の底で生まれた時から、ずっとそうだった。そして、その力をもってシマに蔓延る人間を抹殺しなければならないという、明確な使命感があった。それは疑問を挟む余地すらない絶対の感覚で、理性と本能を束ねて超越した己の存在意義のようなもので、だからウロノスに「どうしても人を殺すのか」と問われても、それが問いとして成立していることを認識することさえできず、一瞬、答えあぐねた。
――それを。
果たして本当の知性と呼べるのだろうか。
ウロノスは思う。
彼は、したいことをする。したくないことはしない。自分の意思というものを最優先に置き、後はまぁ、他人から殺されるほど恨まれるようなことにならない絶妙な線引きの内側で、勝手気ままに振る舞っている。
シマから出るという最大の自由を奪われたこの地で、それでも自由であることを叫び続ける。
決して、誰かの意思を代行するようなことはしない。たとえ大事な仲間が志半ばに倒れようとも、その思いを背負って代わりに何かをすることは、絶対にない。
だがこの喋るシマモノはどうだ。確かに言葉は通じるし、意思の疎通もできる。最低限の知性らしいものはあるような感触がする。しかし……こいつも結局は他のシマモノと同じで、本当の意味で知性があるわけではない。自分のやろうとしていることが、本当に自分の意思によるものであるかどうかに、疑問さえ挟もうとしない。他人の命を奪うことの意味をまるで理解していないし、しようともしていない。
結局、その黒い外骨格に包まれた瞬間に全ての自由を奪われ、誰かの手先に成り下がっているだけ。何らかの大きな意思が目論む、見えざる目的を遂行するための
つまり喋れるだけで、他のシマモノと何ら変わりはない。
そんな操り人形など、どれだけ強かろうが、ちっとも怖くない。
ウロノスは半身に構える。世界地図の片隅に載る小さな島国に伝わる、抜刀術。『カタナ』なる異剣は鞘に収めたまま、その柄に右手を添えて。
姿勢はやや低めの前傾。しかし膝はそれほど曲がってはおらず、見る角度によっては棒立ちのようにも。まるで本気の立ち振る舞いとは思えない脱力感。この程度の相手に本気になることはないとでもいうのか。それともその脱力にこそ、剣技の秘奥は宿るのか。
――少し前、村でケンゴが応戦したヒト型シマモノの実力は、ゴールド級セイバーの半分に満たない程度だった。
必要以上に警戒していなければ、実際ケンゴもそこまで手間取るような相手ではなかったはずだ。それについてはやどりが派手に吹き飛ばされた方に問題がある。ケンゴは気付いていなかったが、やはりあれはやどりが足を引っ張ったのだ。彼女が油断しなければ、ケンゴも正しく敵の力量を見極められただろう。たとえ合体してパワーアップするところまでは予測できなくとも。
それと比較して現在、ウロノスの眼前にいる大ボス個体のヒト型シマモノの実力は、低く見積もってもゴールド級セイバーが数人掛かりでやっと倒せるかどうかの領域。
シマモノの体表を覆う黒い外骨格――
中途半端な知性を獲得したことによって、自ら最前線に立たず手駒を使って村を攻めるなどという小賢しい行動を取っているが、そもそも最初からこの個体が剛気に攻め込んでいった方が、村の受ける被害はより大きなものになっていたのは明白なのだ。
それだけの力を有する個体は、流石のウロノスでも看過しない。
かつてイルフェによる村殲滅計画を未然に防いだ時のように、だから彼はここに来た。
――斬る。
やるべきことはとてもシンプルで。
難しいことは一つもない。
分かり合うことと比べれば、なんと簡単なことだろう。
「剣術、ですか……。フフ……果たして斬れますかね? この私の呪殻を、人間の刃物なんかで」
「斬れるかどうかなんつぅ下らねぇ疑問は、カアちゃんの腹ん中に置いてきたぜ」
相手を斬るのは、意思の力。
剣の速度でも重さでも、技でも膂力でも、ない。
斬ったという未来を選び、掴み取る、揺るぎなき絶対の意思が――その刀に神威を宿す。
「教えてやるぜシマモノ。大事なのは心だ。心の強さが、てめぇを斬る」
「――面白い。意思だの気持ちだので、この絶対的な実力の差が覆るというのなら! 是非ッ、見せてもらいましょうかッッ!!」
構えたウロノスは動かない。だからシマモノが先に仕掛ける。抜刀術の間合いに入ることに躊躇はない。どうせ斬れやしないのだ。地上のシマモノよりも遥か強固な呪殻を持つ海底のシマモノの中でも、さらに神に選ばれたが如き密度の力を誇るこのボディに、地上の武器で傷の一つなどつけられるわけもない。まして技術でも力でもなく、気持ちで敵を斬るなどという絵空事を抜かす、変態覆面男の剣術などで――!
――ザキンッ!
……響き渡る鈍い金属音。
すれ違い際、凄まじい衝撃が一瞬、視界を大きく揺らした。
顔面の皮ごと剥ぎ取ってやろうと覆面に向かって振り下ろした手は空を切り、そこに剣を構えた男の姿はない。
着地し、素早く反転。
覆面男の姿を探す。どこだ。
――いた。
こちらに背を向けて立っている。
なんというスピードだろうか。
今の一瞬で攻撃を回避し、すれ違うように背後に回り込んでいたのだ。
しかも予告通り、きっちりこの胴体に一太刀を浴びせながら……!
見えなかった?
否。人間にしては思ったより素早くて、ちょっと吃驚しただけ。
次は問題ない。
きっと反応できる。
いや、反応してみせる。
……なるほど。これが。この決意こそがあの男の言う意思の力。
成せるかどうかではない。成すのだという覚悟こそが――
「なるほど、どうやら勉強に――」
――そう口にした瞬間。気づいた。
体がおかしい。
声帯の震えが体を伝わる感覚に、今まで感じたことのない大きな違和感。
自分の体がどこか、ところどころがまるで、自分のものではなくなっているかのような――
……あれ?
もしかして、もう。
終わって、いる……?
「い、い、意思の、……力、ですか……」
駄目だ。あまり強く発声すると……滑り落ちてしまう。
上半身が、斜め下に……だから、あまり体を震わせないように、静かな声しか出せない。
「この……大嘘つき、め……。何が、意思の力だ……」
――こんなの、意思の力でもなんでもなかった。
一瞬でも勉強になったなどと思った自分が恥ずかしい。
これはただの、チカラと、ワザだ。
一個の人間が到達し得る、極限まで磨き上げられた剣の奥義の、さらに先。
もし最初から人間がここまで成長できるようにデザインされているというのなら、正直、人間のことを侮っていたと認めざるを得ない。それほどまでの、化け物の、御業。
「これほどまでの、実力があれば……い、意思など、関係ないでは、あ、ありませんか……」
「あん? なぁに寝言抜かしてやがる」
――ウロノスは、刃を鞘に納め、言う。
「実力なんざ、前提だ」
パチン、という小気味のいい納刀音が引き金となり、ついにシマモノの体は、とっくに両断されていたことを思い出し、ずるりと滑り落ちる。二つに分かたれた体は、地面に横たわった弾みでさらに左右に半分ずつ、合計四つの肉塊となるのだった。
シマモノはすれ違いざまに一太刀を浴びせられたと思っていたが、実際は二度斬られている。
抜刀による切り上げの一太刀目を素早く翻し、そのまま逆袈裟を見舞うことで敵を十字に切り裂く、単純明快な連続攻撃だった。
一連の動きは剣術の初歩のような技だが、飛び抜けた天才が使うと、武器破壊と本体への攻撃をほぼ同時に行う神業と化す。敵が、二度斬られたことを自覚すらしない程の。
「おーつかれぇ。やー、流石に化け物だねぇ、プラチナ級」
決着を迎えたのを確認し、草陰から白い毛玉がひょこんと顔を出す。
「くっくっく。本物の化け物サマが寝言抜かしてやがるぜ。寝てんのか?」
「いやいやー。アレ結構強かったと思うよ? ニンゲンが勝てる相手じゃなかったはずなんだけどなぁ?」
「対戦席にもつかず自分は安全地帯から指示出してるような腰抜けなんざ、俺様の敵じゃねぇんだよ。用も済んだしとっとと帰るぞヨハネ」
「ん? 死体は回収しなくていいのかい?」
「いくらシマモノでもヒト型なんざ食えるかバカ野郎。中身がカニでも御免だね。ったく、食えもしねーのに無駄に力つけやがって」
「でっしょー? クソデザだよねぇ、ゲームってものがまるで分かってない! やっぱりシマモノは僕が制御してこそなんだよねぇ! あっははは!」
「食えたとしてもクソデザなのは一緒だろが」
「酷いなぁ? まぁ事実だからいいけど」
謎の毛玉、ヨハネを頭の上に乗せたまま、ウロノスは村へと徒歩で帰る。
急ぎ戻る必要はない。ヒト型シマモノは油断しなければ倒せる相手だし、何よりも村には同じくプラチナ級の怪物、フェルエルがいるのだから。
「さぁてウロノス、今夜は良い月見酒ができそうだ。ボス個体の場所を教えてやったんだから、その分しっかり最高のお酒を堪能させてもらうからね」
「おー、それは期待しとけ。うちの隠し酒造に眠る最高級品を開けてやらぁ。雑な感想言ったらぶった斬るぜ」
「プレッシャーかかるなぁ? トリミングは間に合ってるんだよ、これから寒くなる季節なのに」
ウロノスの活躍は、誰も知らない。
彼は何も言わないし、今回の不在について問われても、いつものようにサボってましたと公言する気だろう。そしていつものように続けて言うのだ。気に入らないなら俺を倒して村長の座を奪ってみせろ、と。彼は期待しているのかも知れない。いつかそれが果たされる時が来るのを……。
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