「カレタセカイジュⅡ」

 煙突から煙を噴き上げながら。

 重低音の汽笛と共に、大型の客船はゆっくりと港へ入る。

 船舶の管理会社のスタッフたちはにわかに慌ただしく、その出迎え作業を開始して――そんな景色を横目に、見上げる客船のテラスを見上げると。


「!! おおおおお~~~~~~~~い!!!」


 ――薄紫色の長い髪、そのてっぺんに狼のような獣の耳をぴこぴこ揺らしている女の子が、声を上げて手を振っているのが見えたのだった。


 ああ、変わらない。

 三年前と同じだ。この日をどれだけ待ち詫びただろう。万感の思いでそれに応え、そして船を降りてくる人を歓迎する人々の輪の中に、僕らも駆け込んでいく。



 *



「――アヤ! アヤ~~~~~~~っ!!!」


 そして、久々の再会。

 姉さんのいつもの通り遠慮なしのハグが僕の目の前で炸裂していた。

 ……いいなぁ。……いいなぁ……!! 僕は血涙を堪え、一定の距離を保つ。理性で本能に打ち勝てるのが人間の強さだ。僕は強い。よし。


「ほらほら、ゼレスもおいでよ! 久々の再会なんだから!」

「エッ! いや、その僕はほらあの……!」


 揺らいだ。

 危なかった。

 油断したら僕も抱きつきにいくところだった。

 しっかりしろ。負けるな僕の理性。ここで全部台無しにするつもりか。


「リィフ。ゼレスくんが困ってるでしょ。やめなさい」

「はぁい。ちぇーっ」


 アヤに窘められ、姉さんはすごすごと引き下がる。

 ……………………。

 ……別に、残念とか思ってないからね。勘違いしないでよね。


「ん。久しぶり、ゼレス。元気してた?」

「あ、あぁ、勿論だよ。そっちはどうだった? ここまで来るの随分大変だったでしょ」

「そう! そうなのよーっ、ものすっっっっごい大変だったんだからっ! 色んな人に頭下げたり、色んな資格取ったり、色んな試験でいい点取ったり! 遊ぶ暇なんてほとんど無かったんだからーっ! もっとみんな私のこと褒めてーっ!」

「あ、あははは……、凄い凄い、アヤは偉いよ」




 ――アヤは、人狼族である。

 その姿はリィフよりやや年下に見えるが、リィフとは同い年であり、ゼレスから見れば彼女もまた「お姉ちゃん」だった。

 人当たりと面倒見の良い性格である一方、自分自身の目標に対し真っ直ぐ真摯であり続ける芯の強さを兼ね備えたその人柄に、ゼレスはいつしか好意を抱くようになっていた。ちなみに呼び捨てにしている理由は、「アヤちゃん」か「アヤ」のどちらかを、彼女に選ばされたからだ。ちゃん付けよりかは目上への尊敬の気持ちも篭もるだろうと思い、頑張って呼び捨てにしている。


 今の時代、獣人への偏見や差別はほとんど無いと聞いているが、それでも歴史ある学問の世界などではやはり、評価を受け難いところが無いわけでもないという。

 そんな中で彼女は、帝都の名門大学にて考古学を学び、今日の式典に参加する虎の子の招待枠を力尽くで勝ち取って来たのである。その苦労は容易に計り知れるものではない。


「この式典のスポンサーなんだっけー。アヤの通ってる大学の運営って」

「そうなのよ。お陰で、何とかこうして記念式典に来られたってわけなのです。ふんすっ」

「よしよし。アヤちゃんみたいな出来の良い孫娘がいて、リィフお婆ちゃんは鼻が高いぞえ~。モフモフ」

「ふにゃんっ、尻尾はやめてぇっ、くすぐったいからぁ!」

(いいなぁ…………)


 ちなみに彼女の今期の学内ランキングは、学年で四位だった。

 四位でもまぁ十分立派なものではあるのだが、ここできっちりトップスリーに入れないところが、彼女らしいといえば彼女らしい。

 机にかじりつくのが大の苦手で、知識というものは本や授業だけで得るものではなく――まして誰かの評価を求めて解答用紙の空欄を埋めるためのものでもないと信じている現場主義の彼女にしては、本当によく頑張ったものである。

 前々回は上位三十名にすら入っていなかったというのだから、本当に、大したものだ。


「ほんと……頑張ったんだよ」


 リィフから逃げるように、アヤは、ゼレスの胸元に頭を寄せた。

 彼女の背は低い。

 彼女がそうすると、ちょうどその狼の耳が、頬にすり寄るような格好になる。

 恐る恐る、ゼレスは手を、彼女の頭の上へ。できるだけ優しく撫でてやると、耳はぴくんと反応した。


 ゼレスはまだ知らないことだが。

 ゼレスがアヤを好いているのと同じくらい――アヤはゼレスのことが好きだった。

 リィフはそれが分かっていたから、ずっと、それとなく、お節介を焼いていたのだ。


(ふひひ。二人揃ってロマンチストなんだから)


 でも、ここであんまりベタベタされても困る。

 普通に人目が多いので。特にゼレスが彼女の頭を撫で始めた辺りから、なんだか周囲の注目が集まっている気がするのは、きっと思い過ごしではない。


「はいはいお二人さん、おアツい逢瀬は一旦その辺にして、早くお祭りに行きましょうねー!!」

「っっ!! そそそ、そうね! お祭り楽しいもんね! そうだ私、金魚掬わなきゃ! 金魚!!」

「あ、あぁ! 僕もそう思ってたところだった! よし、金魚を掬いに行こう!!」

「いや、流石にそういう出店はないと思うけど……」


 今日は確かにお祭りだが、方向性が違う。


「――ま、いっか。万に一つくらいは掬える金魚もいるかもしれない。よーしっ、それじゃさっそく楽しいお祭りに、しゅっぱーつ!」

「「おー!!」」



 *



 金魚掬いは見当たらなかったが、それはそれとしてお祭りは既に大盛り上がりだった。

 どこかの国の有名な楽団らしき人たちが、派手な楽器を抱えて派手な音楽を奏でながら練り歩いている。その周りでは都会のテーマパークでしか見ないようなお洒落な焼き菓子の店が点々と並んでいて、あちこちから空腹を刺激するいい香りが漂っていた。


「こんなの初めて食べたよー、これが都会の味……!」

「熱々の甘い揚げ物なんて予想外だね。これは試したことない味だなぁ」

「どっかの伝統料理らしいよー。最近帝国に入って来て、大人気なんだー。二人は島でどんなの食べてるの?」

「昔と変わんないよぉ。お魚とか、木の実とか?」

「後はほとんどパンと野菜ばっかりだね。食べる物が変わらない分、食べ方は色々試してるけど。組み合わせを変えたり、調理法を変えたり」

「お陰でゼレス、そういう料理テクの切ったり貼ったりがどんどん得意になっちゃったよね」

「ここじゃあ、今そこにあるものを楽しむしかないからね」


 都会の流行りモノと比べれば、どうしても地味に見えてしまうだろうが。

 料理のバリエーションの豊富さはむしろ、自然豊かな島暮らしの方に案外、軍配は上がるかも知れない。帝国などの都会は確かに繁栄しているが、自然から遠ざかっている分、食材のほとんどを輸入に頼らざるを得なくなったりしているのだから。


「今そこにあるものを楽しむ……か」


 ゼレスの言葉に、アヤは深く頷いてみせる。


「私、思うんだよね。帝都は確かに栄えてるけど、なんだか、顔が無いなぁって」

「顔?」

「うん。帝都といえばこれ! っていう何かが、思いつかないんだ。何でもあって、どこの町よりきっと楽しいのに――他の町だったらみんな持ってるような、当たり前の何かが、すっぽりと抜け落ちてる感じ」


 帝都にはいつも流行の最先端がある。それはそこに住む流行に敏感な人たちが、外で面白そうなものを見つけては見境なしに帝都に持ち込んでいるからだ。

 だから新しいものは次々に入って来るけれど、代わりに古いものはすぐに飽きて捨てられてしまう。

 変わらないものが、無い。

 一本、通った芯のようなものが、足りない。


「……まぁ、そういうのが別に悪いってことではないとは思ってるけどね。私にはなんとなく物足りないなってだけで。ただ、」


 やはり、というべきか。

 三年振りに島の大地を踏んで、思う。

 ――帰って来た、という感覚。

 別にここは、故郷でも何でもない。

 たった一年間、暮らしていただけの場所なのに。


「この島は、なんだか、すごく落ち着く」


 まるで何かに、導かれているかのように――。


「島には顔がある?」

「うん。なんとなく、そう感じる」




 私は、いつかこの島に帰ってこなければならない


 ずっと


 そんな気がしていたのだ





 *




「……。何かしら」


 各国のトップが集まる会合の場。今は談話の合間、昼食のための休憩時間だった。

 テーブルの上には、様々な高級料理がところ狭しと並んでいる。しかし集まっているのは各国のトップエリート集団。それらに品も無くがっつくような者は、流石に一人もいない。

 上品に、優雅に、一番いいところだけを選び、食す。

 ――孤島で暮らすゼクとフリムからすれば、それは確かに無駄を省いた美しさがあるようにも見えるが、同時にとても勿体ない行為に思えた。

 赤ワインを嗜んでいたフリムは、どこぞの国の最高指導者のところに一人の黒服が駆け寄って耳打ちしている姿を、視界の端に捉える。


「やれやれ、揉め事かな」

「これだけの人が集まる場ですもの。些細な問題の一つすら起こすな、なんて酷なことは言えないわ」

「それもそうだな。少し話を聞いて来るよ。ホストとして、お客様の面倒ごとくらい、多少は引き受けてやらないと格好もつかないからな」

「行ってらっしゃいあなた。気を付けて」

「おまえはあんまり飲み過ぎるなよ」


 席を立ち、ゼクはその最高指導者のところへ向かう。


 ……どうやら、その国と、ある海域に眠る海底資源の占有権を巡って小競り合いをしている別の国の海兵たちが、港で揉めているとのことだった。

 永世平和特区に指定されているこの島の中で、そういう行動は慎んでもらいたいところである。まして人類史に残る一大イベントを二日後に控えているのだ。一週間くらい、仲良くしていてくれないと、こちらの顔が立たない。ゼクは他人に見られないよう配慮しつつ、大きくため息をついた。


「――ったく。何年経とうが、ニンゲンはニンゲンだな」


 話を聞き終え、足早に人気ひとけの少ないところへ向かうと、スーツの懐から小型の通信機を取り出し、どこかへと連絡を取る。


「リーア、ナイン、聞こえるか。俺だ。その近くで海兵がモメてるらしいんだが、そこから見えるか? ……。……よし、分かった。じゃあ上手く宥めて、適当に引き離しといてくれ。頼む。それじゃあ」


 ゼクとフリムには、が数名ついている。

 彼らの力があれば並大抵の問題は片付くのだ。それが人間レベルの問題であるならば、なおのこと。


 この世界の平和は、いつも綱渡りだ。

 まるで争うことを宿命づけられているかのように、世界各地で睨み合いが続いている。

 人間同士が平和を保っていたのは、むしろ大昔の魔王降臨の時代くらいのものである。共通の敵がいなければ、人間の結束などこんなにも脆いのかと、ほとほと呆れてしまう。

 本当に、嫌になる。

 せめて後、ほんの一日半くらいは、大人しくしていてくれ。

 そうすれば――







「――どうせ、みんな死ぬんだからな」







 そう呟いたゼクの顔に、凡そ人間らしい表情は見えず。

 ただただ、全てを見限ったような、昏く濁った瞳がうっすらと開いている――それだけだった……。



 *



 ゼレスたち三人は祭りの喧騒を離れ、孤島の散策を楽しんでいた。

 久々の帰郷である。

 正確にはこの島はアヤの故郷というわけではないが、しかし彼女はたった一年だけ過ごしたこの島を、それでも特別な場所だと思っていた。

 だから、帰郷でいいのだ。

 ここはアヤの帰ってくる場所で。

 だから船から降りて来たアヤを迎える時も、二人は自然と、「お帰り」という言葉を選んでいたのだから。


 あれから三年。

 ここは何も変わっていない。

 一緒に遊んだ森も、川も、何もかもがあの時と同じ。

 だから、思い出すのは簡単だった。みんな、あの頃よりも大人になってしまったけれど――それでもあの頃と同じようにはしゃぎ合う感覚は、心の奥底に沈んでいた思い出の箱の中から自ら飛び出してくるかのように、すぐに戻って来てくれたのだった。


「うーーーーーー…………わ、私としたことがぁ……」

「姉さん……さすがにはしゃぎ過ぎだよ……」

「あははははっ。ほんと、変わんないね、リィフは」

「むぅ……返す言葉もない……へくちっ!」


 島の景色を一緒に懐かしんでいるうち、調子に乗ったリィフは足を滑らせて川に落ちていた。

 すっかりずぶ濡れになってしまったついでに、そろそろ家に帰ろうかということになった。

 気付けば空も、夕暮れの色。

 伸びて並んだ影を眺めながら林道を歩くのもまた、懐かしい光景だった。


 ゼクとフリムは今日は戻らないので、三人だけのお泊まり会。

 この日のために磨いてきたという料理の腕を振るうゼレスと、手伝うと言いながら盛大に足を引っ張るリィフを見て、笑うアヤ。


 ――ああ。

 ――こんなにも、楽しかったのか。

 三年前と変わらないはずの、この時間は。

 思い出は美化されるなんていうけれど、そんなことはない。

 今、僕はあの時よりも大きな幸せを噛み締めている。

 きっとそれは僕があの時よりも大人になったからだ。

 何が本当に大事なことなのか、それが分かるようになったから――今この瞬間を、他の何よりもかけがえのない時間だと、感じることが出来るのだ。

 ずっと子供のまま楽しく生きていきたいという幼稚な願望もあったけれど。

 存外、大人になっていくというのも、悪くないかもしれないと思った。


 この世に、永遠に続くものなんてない。

 だから、こんな日常が永遠に続けばいい、なんて無理難題は願わない。

 ただ、ほんの少しだけでいい。

 たった一秒でもいいから……

 出来るだけ、長く続いて欲しい。

 そう考えずにはいられない。


 ……いいや。

 続けてみせる。

 どんな運命が道を阻んでも。

 僕は必ず、それを打ち破っていく。

 そういう覚悟をしたはずだ。

 明後日……この島で迎える、百年目のカウントダウン。時計の針が、終わりと始まりを重ねる瞬間。そこで盛大に打ち上げられる花火を、二人で観ながら…………そこで、僕は、伝えるのだ……彼女に、この気持ちを。





『――




 …………誰かが、はっきりと言った。

 その声が聞こえていたのは、ゼレスだけだった。




『……五月蠅い。黙れ。それはおまえが決めることじゃない』


『あるさ。分かるだろう――。これは他でもない俺自身の言葉ではないか。悪いことは言わぬ。やめておけ。この罪に塗れた体で人並みの幸せを掴もうなど、赦されるはずもなかろう』


『違う。知らない。それは、俺の罪じゃない……』


『違わない。貴様が一番、誰より知っていることだ。これは――我らの罪である』


『やめろ、黙れッ……!! 何なんだおまえはッ、いつもいつも僕の頭の中で勝手なことばかり言いやがって……ッ! 僕は人間としてこの島で幸せに暮らす、それの何が悪い!? 誰にも迷惑なんかかけてない! なんでそんな風に言われなくちゃいけないんだよ!?』


『それも重ね重ね、幾度となく言ったはず。我らには決して償えぬ罪がある。故に、裁かれ続けねばならぬのだ。永遠に。無限に。未来永劫。この身は既に贖罪のためだけに存在している。他の誰が赦されようと、我らだけは幸せなど追求してはならぬのだ』


『…………だからッ……、それが意味分かんないんだって、いつも言ってるだろッ……! 頭の中にいる変な奴からそんなことを言われて、ハイそうですかって諦められるわけないだろ! いい加減、僕の頭の中から消えろッ! 罪があって、裁かれなきゃいけないんなら、おまえが一人で勝手に背負って、消えてなくなれッ!!』


『…………。…………ふん。それが出来るのなら……そうしておるわ』




 ――声は、すぅっと遠くなり、気配を消す。

 ……昔から、こうだった。

 僕の頭の中には、僕を名乗る悪霊が住んでいる。

 そいつはいつも、僕が幸せになろうとすると邪魔をしに現れるのだ。

 ……といっても、声が聞こえるだけで、具体的に何かを邪魔されたことは一度もないのだけれど。

 いや、頭の中でとはいえ、色んな場面で水を差され続けるのはやっぱり確実に邪魔だ。罪だかなんだか知らないけれど、僕には僕の生き方がある。

 それに、償えない程の罪だって? 生憎この島で育ってきた僕には、そこまで大きな罪を犯せるような状況に鉢合わせたこと自体が無い。

 まったくもって、人聞きの悪いやつだ。


 ただ、そんなやつと脳内で一緒に過ごしてきたからだろうか。対抗心というか、反抗心というか。僕のアヤへの気持ちは、逆により一層、強固なものとなったのだ。あいつがいなければ僕はこの決意をもう少し先延ばしにしていたかも知れない。ずるずるといつまでも、延ばし続けていたかも知れなくはない。だから、僕に決意を急がせたというそのただ一点の功績だけは、感謝してやらなくもない。


 ――罪だの何だの。

 いつまでもそんなのに引きずられているから、成仏できないのだ。

 あいつも、いつまでも後ろを向いてないで、前を向けばいいのに。

 そうしたら僕だって――頭の中でくらい、あいつの居場所を認めてやってもいい。

 ちょっと不思議な関係の、古めかしい口調の、おかしな友人としてくらいには……認めてやってもいい。


(……ちょっと言い過ぎたかな……。アヤが絡むと、つい熱が入ってしまう……)


 ……小さな頃からずっと一緒にいたからか。

 幸せになろうとするのを邪魔する嫌なやつではあるけれど。

 あんまり寂しそうに消えられると、少しだけ、ほんのちょびっとだけ、胸が痛むのだった。

 くそ。

 いてもいなくても、迷惑なやつ……。






 罪、か。

 罪って、なんだ?


 あいつはいったい……過去に、何をした?

 それと僕に、何の関係がある?


 いくら訊ねても、あいつは、それだけは教えてくれない。

 肝心なところは、何も話さない。


 ……話してくれよ。

 ちゃんと声が聞こえるんだから。

 じゃなきゃ……分からないだろ。


 …………。

 ……。





 *



 夜。

 ゼレスは一階で。

 私とアヤは二階の、私の部屋でそれぞれ眠りに就く。


 長旅で疲れたのだろう、布団に入って暫くは談笑をしていたが、気付けばアヤは寝息を立て始めていた。

 私は身震いをしながら布団の中で縮こまり、そして窓の外に目を向ける。

 今日は星がよく見える。いつも以上にたくさん見える気がする。まぁ、それはどうでもいいのだけど。


「…………」


 ――川に落ちた時、頭の中で不思議な記憶を見た。

 泡と衝撃で何がなんだか分からなくなった、ほんの一瞬。

 フラッシュバックするみたいに、脳裏に鮮明に描かれた――私の人生に、存在しないはずの記憶。

 そこには赤い髪の魔女と、それと仲の良さそうな緑のポニテ女と、……父さんと、母さんによく似た、今の私と同年代に見える、男の子と女の子。

 それを見ている、私は、誰……?


 この島で暮らしている間、私は、赤い髪の女の人と出会ったことは一度もない。

 どんなに子供の頃のことを思い出そうとしても――少なくとも物心のついた後には、一度としてなかったはずだ。……じゃあ、それより前?

 確かに視点は周りより低く、見上げるような景色だった。でも。


「……誰、なんだろ……。………………」


 ……無性に、気になる。

 それは何だか、ものすごく大事な記憶だった気がする。

 それを思い出せないことが――何だかとても、悪いことのような気がして……寝付けない。


 ……私はきっと、それを思い出さなきゃいけない。

 懸命に。必死に。ぎゅっと目を閉じて、記憶の、心の、奥底へと……挑む。

 けれど――そんなことで思い出せるなら、初めから苦労などしない。

 ……何か、切欠が必要なんだ。川に落ちた弾みで記憶の蓋が開いたみたいに……例えば、頭でもどこかにぶつけてみるとか……?


「……」


 ……痛いのは、嫌だなぁ。

 ぐるぐると思考を巡らせるうち、いつの間にか意識がうとうとし始める。

 やっと眠れる。そう思って、それ以上は考えないようにした。

 眠れば、ひょっとしたら。

 夢の中で――出会えるかもしれない。

 そんな期待を、僅かに抱いて。


 ……寒い。

 ……なんだか鳥肌が収まらない。

 うぅん……もしかしたら、……川に落ちたせいで……。










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