「カレタセカイジュⅢ」



 世界が滅ぶ夢を見た。

 夜中に飛び起きた私は、恐ろしくて、泣いた。

 そうしたらお母さんが、優しく抱き締めてくれた。


『大丈夫よ』


 そう言って……力強く、包み込んでくれた。

 その腕の中は、この世界のどんな場所より暖かくて。



『私が守ってあげるからね』



 私もいつか、そういう人なりたいと、強く思った。




 *




「…………ぐすっ」


 ……頭が痛い。

 昨日、はしゃぎ過ぎたのが原因だ。

 やっぱり調子に乗って川に落ちたのがいけなかったのだ。

 それとも、その少し前にかき氷の早食い対決なんてやったのがいけなかった?

 或いはみんなで一緒にいるのが楽しくて、つい湯冷めするまで夜更かしに興じてしまったのがいけなかったのか――

 考えても、やむなし。すぐに体調が戻るわけでもなく。ぐぬぬ。


「――あ、リィフ。大丈夫?」

「アヤぁ……頭が重いよぉ……。割れて中身がこぼれちゃうよぉ……」

「そんなわけないでしょ。こんな時に風邪をひくなんて、相変わらずよねリィフは」

「あ、相変わらずなの……?! 私そんなドジッ子じゃないよ!? けほっ!」


 薄紫色の長い髪を揺らし、アヤは、やれやれと言った様子ではにかむ。


「ゼレスと薬を買いに行くわ。帰るまで大人しくしてるのよ?」

「……ぐすっ……。薬はあるから、大丈夫……ふたりで、楽しんでおいでぇ」

「でも……」


 ……と言い掛け、すぐに私の言いたいことを察したのだろう、アヤは改めて「わかったわ」と答えた。


「……ありがとね、リィフ。じゃあ、お言葉に甘えちゃう」

「ん。がんばってねぇ……わたしゃあ、ねるぅ……」


 ――パタン、と静かにドアを閉めて、アヤは部屋を後にする。

 取り残された私は、それから数回、身震いしながらくしゃみを繰り返すのだった。


 はぁ……やれやれ。

 せっかくのお祭りの日に自由行動ができないのはちょっと痛いけど……どうせ今日は何とか理由をつけて、ゼレスと二人きりにしてあげようと思っていたところだ。

 なので、これはこれで、結果オーライってやつかな……。


 ……薬。

 どこに置いたっけ……。

 取りに行くのも今は辛い……ぐぬぬぬぬ……。




 *




「リィフは大丈夫みたい」

「そう。まったく……仕方ない姉さんだ」

「ふふ。そうね」


 屈託なく笑うアヤ。つられて笑うゼレスの顔は、少しだけ赤い。


「さて。じゃ、いこっか。今日も楽しもう♪」

「うん……あぁ。姉さんの分まで、たっぷりとね」





 二人は仲良く家を出ていく。


「ふふふ……がんばりたまえ若人たちよ……きみたちのたたかいは……これから……だ……がくっ」



 それを、最後の力を振り絞って二階の窓から覗き見ていたリィフは、その後すぐに力尽き、枕に頭を沈めるのであった……。




 *



 とは言ったものの、である。


「…………」

「…………」


 気付けばゼレスとアヤの間には、気まずい沈黙が流れていた。


 二人きりであることを意識してしまうと、途端に何を話せばいいのか分からなくなってしまう。

 そんな表情を相手に悟られないよう、互いに顔を背けたまま、二人は賑やかな広場を歩くしかない。

 間にリィフといういい意味で無神経な女がいないだけで、まさかこんな風になってしまうとは思わなかった。

 ……いや、嘘だ。本当は少し思っていた。もしかしたらこうなるかも知れないということは、二人とも薄々わかっていた。だから、なんとかしなければ、と思い立つのも同時だった。


「「あ、あの……あっ」」


 そして、痺れを切らし声を上げるタイミングもばっちり同じ。

 気が合うのだろうなぁと思えば嬉しい反面、余計に気まずくなったりして。その相性の良さが、今は逆にちょっと恨めしいのだった。


「な、なんか……二人しかいないと、ヘンな感じ、だね……あはは」

「そ、そうだね。はは……」


 意識し過ぎだ、馬鹿! と、ゼレスは脳内で自分を責める。

 せっかく二人きりになれたというのに。でも、だからこそ緊張しているのか。リィフがあの様子ならば、今日の夜、日付の変わる時にもきっと二人きりだ。またとないチャンスが都合良く転がってきた。まるで運命の神が味方をしてくれたとしか思えない。

 そんな思いを巡らせていると――前を歩いていたアヤが、不意に振り返った。


「ねぇゼレス!」

「っ! な、何?」

「その……もっと静かなところに行かない? 二人だけになれる場所……」

「え? ……え!?」


 もっと静かなところ……。

 二人だけになれる……場所?


「……。あ、……ち、違うよ!? 変な意味じゃなくてその! あの……!」


 自分が何を言い出したのかに気付いて、顔を真っ赤に染めて否定するアヤ。


「そうじゃなくて……せっかく島に帰ってきたんだし、ゼレスさえ良ければ、なんだけど……もっと、この島らしい空気を懐かしみたいなって……」


 帝都暮らしのアヤにとって、人が大勢集まって流行りの食べ物が食べられるなんて、大して珍しいことではない。ゼレスやリィフにとってはアヤをもてなす絶好の材料だったが、むしろアヤにとっては昨日のように、三人で島の中を散策している時の方が楽しかったのだ。

 そのことを察したゼレスは、分かったと首を縦に振る。


「姉さん抜きで良いなら、そうしよう」

「――うんっ」


 そして人混みを離れていく二人を、咎める者は誰もいない。

 想い合う二人が、互いに手を取って歩み始めるのを、果たして誰に咎められようか。

 いない。

 いるはずがない。

 たとえ誰かの頭の中であっても、もはや二人の恋路を邪魔する者は――どこにも存在しない。


 昨日は立ち寄れなかった小道。脇道。獣道。

 フィールドワークに慣れているアヤは、久し振りの島の自然の中でも迷うことなく歩いていく。流石は獣人、狼の亜人――だなんていうと、昨今では差別発言として切り取られてしまいそうなので、ゼレスは思っても口にしないけれど。実際、獣人の身体能力は、基本的には人間のそれを凌駕しているというのは、揺るぎない事実ではあった。


 リィフがいないのは相変わらず物足りなさがあったが、それでもやはり歩いているだけで三年前までの日々を思い出せて、懐かしさには十分に浸ることができた。

 この島らしからぬお祭りの場を練り歩くよりかは、こうしている方が思い出話に花が咲くということも分かった。それにリィフがいない間に、この三年間、島でどんなことがあったのかとか、色々と聞き出せたのはなかなか愉快であった。

 そして、幸せだ、と思った。

 こうしているだけで本当に。

 頑張ってきたのは無駄じゃなかったと、報われたような気分だった。

 ……けれど。

 アヤがゼレスを連れ出したかった理由は、それだけじゃない。

 本当はもっと大事な目的があって、喧騒から離れたかった。

 ……ただ、それを果たすのに少なからず心の準備が必要で……気付けばアヤは森の奥深く、昔、三人で遊んでいた秘密の場所――『大世界樹』へと辿り着いていたのだった。


(変わらない、大きな樹。……見てると、安心する)


 まるで全てを包み込んでくれそうな、一本だけひときわ大きく育った世界樹。

 その幹に触れると――力が流れ込んでくるような感覚があった。


(……うん。……なんだか勇気が、貰えた気がする)


 意を決して振り返る。

 アヤの表情は真剣そのもので。


「ねぇゼレス。……私の、大事な話。聞いてくれる、かな……?」


 その問い掛けには、首を横に振ってはならない。

 ゼレスにそう思わせるような、不思議な熱を帯びていたのだった。





 *





「…………ずっと。……ずっとね」


 誰も来ない、僕らだけの秘密の場所。

 島中を遊び場にしていた僕らだけが知っている、特別な場所。

 乱立する世界樹が、まるでその一本にだけ敬意を払い、場所を譲っているかのように――ひときわ大きく、雄大に聳える世界樹の大樹があるところ。

 その根元でアヤは、静かに語り始めた。

 それは……僕が知らない、彼女の過去の話。

 四年前、父さんと母さんに連れられ、初めてこの島にやってきたあの日よりも前の……アヤという少女の、生まれてから今日に至るまでの、空白の物語……。


「いつか言わなくちゃ、って……思ってた。……ゼレスにだけは、知っていて欲しかったから」


 ――今の世界に、亜人、獣人への差別や偏見は、ほとんど残っていない。

 ……そう。

 ……。

 はつまり、、だ。

 誰の想像にだって難くはない。そして、なのに、誰もが見て見ぬふりをする。

 この世界の片隅の、ごく限られた狭いコミューンの中で行われている、聞くも語るもおぞましい、それは紛れもない、の話……。

 アヤの口から語られる全ての言葉が、僕のあらゆる行動を縛り上げていた。

 何も言えない。何も、何もしてあげられない。何もできない。彼女の口から語られる全てが真実なのだとして、僕は彼女に、どんな言葉をかけてやれば良いというのか。そんなもの、僕に分かるはずもない。だってそれはこの世界で最も、答えのない問題なのだから……。


「…………だからね。私、……二人には本当に、助けられたんだよ。ゼクさんと、フリムさんにも感謝してるけど……それ以上に、二人と過ごした一年間で、私は救われたの。どれだけ感謝してもし切れない。二人が私を好きでいてくれたから――私も、私を好きでいられるようになった。それを、ずっと、伝えたかったんだ」


 ――その感謝の言葉を告げるためだけにする話としては、それはあまりにも凄惨で、壮絶で……未だ大人と子供の狭間を生きているゼレスが受け止めるには、途方もなく、重い。

 けれど、それでも。アヤは話すことを選んだ。そうすることで何かがこじれてしまうこともあるかも知れない。そんなことは、分かった上で。




「あの一年の準備期間の後、ゼクさんの助けを借りて、私にはようやく人並みの生活が保障された。一人の人間として、町で暮らせることになった。……そうしたらね、本当はもう二度と、この島には戻ってこないはずだったの」


 悲惨な境遇にあった彼女を偶然発見し、保護したのはフリムだった。その際、彼女への支援として各方面に手を回したのがゼクで、およそ半年ほど、アヤは二人の庇護下にあった。

 島での一年間の生活は、単に帝都で暮らすのに必要な各種手続きの準備期間。実はその中には今のアヤでさえ知らない、決して表沙汰にはできないような血の匂いの濃い話も含まれていたりするのだが、それはまた別の話として……。

 フリムと過ごした約半年、それから島で暮らした一年間で多少なりとも前向きな気持ちを取り戻した彼女は、ゼクの紹介で帝都の高校に編入し、ゼクの友人の管理する集合住宅の一室を借りて、そこで一人で生きていくこととなった。

 二度と島には戻らず、一人の人間として平和に生き、今度こそ自分の幸せを掴み取っていく――そのはずであった。


 しかし彼女は、この島に再び戻ってくる道を選ぶ。

 どれだけ険しい道のりであろうとも、絶対に成し遂げてみせるという強い決意をもって……そして彼女はその決意の通りに、狭き門をくぐり抜けて今日、ここにいる。


 島は一部観光地として開放されてはいるが、一方で観光客として訪れるのにはかなりの地位とお金が必要となっている。

 何せほぼ全域が歴史調査のための特別な区画なのだ。近辺の海域に領有権を持つ帝国が、今のところ各国を代表して監視と入島規制を行い、それをパスしない限り一般人は島に上陸することさえ叶わない。

 相場はだいたい、数年前に打ち上げが成功し、今この瞬間も雲より遥かに高いところを漂っているという宇宙基地を訪問する権利とほぼ変わらないという。

 つまり大企業の社長クラスでもなければ、島と関係ない人間が来島するのはほぼ不可能なのだ。

 そのため記念式典に訪れているのも、内訳の大半が政府の要人やその関係者、或いはどこぞの大富豪の一族、その一族に特別に選ばれ招かれた一流モデルや人気俳優、世界的な由緒ある王族だとかで――『本物の一般人』は、ほぼ皆無である。

 仮にいたとしても、運良く人気テレビ番組の視聴者プレゼントに当選した者くらいだろう。島へ向かう客船の中で、自分たちがいかに場違いな存在であるかを思い知りつつ――きっとその幸運を噛み締めていたに違いない。


 そういった情勢と、ゼクとフリムにこれ以上の我儘を言いたくないという気持ちがあったために、アヤが島へ戻る方法は、事実上一つに限られた。

 それが、孤島調査の専門機関へ出資し、また自らもその調査に関与している帝都の名門大学へ入学し――そこで結果を出して、その資格を手に入れるという道だ。


 きっと、観光客として島を訪れるのと比べれば、幾分かは簡単な道だっただろう。

 ……しかし、一人の人間がそれを決意した瞬間から先の時間の全てを費やしたとしても、決して容易ならざる茨の道だったに違いない。

 彼女はそれをちょっとした苦労自慢くらいに飄々と語るけれど。

 その本質は決して、他人の想像など到底、及びもしない。

 文字通り、想像を絶する。

 そんな孤独な戦いを、勝ち抜いた。

 全ては、今日。この日のために。それだけのために。


「………………驚いた? これが、私なの。……これが本当の、私」


 ――生まれも育ちも、ろくな人生ではなかった。

 失って怖いモノなんか、島の外には一つもない。

 だから――なんでもやった。……勿論それは、人として、人の道を踏み外さない範囲で、だけど。……それでも勝利のためにあらゆる努力を払い、群がる敵の全てを打倒して、沢山の人から尊敬されると同時に、あまりにも多くの敵を作り、それらを片っ端から叩きのめして――そんなことを繰り返していくうちに摩耗していく心を、この島へ帰ってくるという夢だけで支え続けて来た。


 壊れた体を、壊れた心を糸で結んで、無理矢理演じた人形劇。

 その果てに欲しかった、たった一つの願いのために。

 命さえ燃やし尽くしても。

 まだその糸の先に、あなたがいると信じて。

 エゴだけで突き動かされてきた、醜い人形……。

 それが、アヤという女の、正体。

 誰がなんと言おうと、それが真実。

 ……。

 だけど。

 ――だけど、それでも。


 それでもアヤには、叶えたい夢がある。


 だから――確かめなければならないのだ。

 自分にはまだ、その資格はあるのか。

 誰かを愛し――誰かに愛される資格が……この体のどこかに、壊れずにまだ、残っているのか。


 私の、長い長い旅は……今夜、終わる。

 それがどのような結末になろうとも、今宵、全てが終わる。

 その瞬間に、私は夢を果たせるだろうか。



「…………ありがと。最後まで、聞いてくれて。これで私は、次に進める」



 想いの全てを、吐き出した。

 少しだけ、心が軽くなったような気がする。

 あとはもう……その時を待つだけだ。


 やるだけのことは、全てやった。

 運命のダイスは私の手を離れ、転がり始めた。

 どんな目を示そうとも――私はそれを受け入れよう。

 結末は、神のみぞ知る。



 ……あまりに衝撃的な吐露を受けて、ゼレスはまだ、何も言えずに立ち尽くしていた。

 ……でも、それでいいのだ。返事を聞くのは今じゃない。

 全ては今宵。

 時計の針が、終わりと始まりを結ぶまで。


「……ここからも、花火はよく見えそう。きっと、すごくきれいなんだろうなぁ……」

「………………あ、アヤ……僕は、」

「ごめんね、ゼレス。私の我儘に付き合わせて。重たい話、聞かせちゃったね」

「いや……全然、その……」


 ――僕は気にしてない、とでも言おうとしたのだろうか。

 しかしその言葉が紡がれるより先に、アヤが割り込む。


「……あのね。実はこの後、大学の研究チームと合流しなきゃいけないんだ。……だから、えっと、……その……また今夜、ここで、二人だけで、会えるかな……?」


 アヤはただの観光客ではない。あくまで大学の伝手で来島しているのだ。だから滞在中、ずっと一緒に遊んでいられるわけではない――というのは、ゼレスも薄々考えていたことだった。

 ……だが、それは嘘。

 アヤが手に入れたのは、大学が特別に手配した、観光客としてのチケット。

 つまりこの滞在期間中、彼女が大学の規則で行動を制限されることは、無い。

 けれどアヤは一旦、ここで距離を置きたかった。この話をして、ちゃんとゼレスに、一人で考えてもらう……そういう時間が必要だと思っていた。だから敢えてそんな嘘を言って、この場を離れることにしたのだった。


(だって、フェアじゃないもん。……私ばっかりが全部知ってるなんて……フェアじゃない)


 彼も知っておくべきなのだ。

 テーブルの向かいに座る、相手のことを。

 互いによく知って――その上で出した答えでなければ、認められない。

 用意された現実に沿って、誘導されるがままに出された答えなど――他の誰が認めようとも、私が私を、赦せない。だから。


(あなたが、幸せになる資格があるかどうかを賭けた、その運命のルーレットに……私は私の、あなたに愛される資格を、賭ける)


 全てをつまびらかにして、挑む。

 ……恋は、決闘。

 互いの心を見据えた、真剣勝負。


(私のベットは、釣り合うかしら。あなたの心を変えてあげられるくらい、私もちゃんと、賭けられた……?)


 だから、相手が賭けているものと同じくらいの心を賭けて挑まなければ、失礼というもの。


「じゃあ……私、行くね。夜、楽しみにしてるから……」


 そう告げて、悠然とアヤは去る。

 振り向くことは無い。

 それはさながら、戦場に赴く戦士のよう。

 次に会う時こそ、決着の時。

 それまでは顔を合わせまいと、背中で語って。

 そして――それを見送るゼレスは。



「待てよ、アヤ」


「……へ?」



 アヤが、全く微塵も、考えもしない行動に、及んでいた。



「そんなことで……。いいか? いっそハッキリ言うよ。でッ、僕が、僕の決意が、揺らぐと思ったのか!?」


「!?!?」



 ざくざくと力強く、落ち葉を、枯れ枝を踏み砕きながら。

 大股で迫り来るゼレスの、伸ばした腕。

 アヤは咄嗟に躱そうとするが――それすら彼は許さない。

 逃げようとしたその右腕をがっしりと掴んで――引き寄せる。

 顔が、ぶつかるんじゃないかというくらいの力で。


「確かに重過ぎる話で、僕は正直そこそこドン引きしたよ。かなり驚いた。ぶっちゃけ全く意味が分からない。でもそれは、何でそんな話を今したのか、じゃない。どうして君が、そこまで僕に対してフェアであろうとするのかの方だ!」

「…………ッ……!」

「もっと、ズルくたっていいだろ……。だってアヤは、そんなに重たい過去を背負ってたんじゃないか。僕なんかより全然、分の悪い勝負をしてきたんじゃないか……! 何で誠実であろうとするんだよ! 何でもっと狡賢くなれないんだよ!? 大学で、他の奴らを蹴落としたみたいに――僕に対してもっと本気で勝ちに来てよ!」

「……う、……っ……」


 男子三日合わざれば刮目せよとはいうが――三年。

 こんなにも力が強かったのかと驚かされるには、十分な腕力が備わっていた。

 真っ直ぐに瞳を覗き込まれ、アヤは何も答えられない。まさか。まさかこんな行動に出るなんて。あのゼレスが。


「……僕は三年前、後悔した。……死ぬほど後悔したんだよ。わかるか?」

「な、なにを……?」

「――君をッッ!! この島から出ていく君を!! ただ見送ってしまったことをだ!!」

「ッッ!?!?」


 ――それはまだ心が弱くて、本心を何も言い出せなくて、ただただ新生活へ赴こうとする彼女が甲板から手を振っているのを、同じように手を振りながら眺めていることしか出来なかった、あの三年前の弱かった自分との、決別。


 思い出せ。あの日、確かに誓ったはずだ。もう二度とこんな悔しい気持ちはごめんだと、胸を掻き毟って血が流れた程に、何日も何日もいいや何年も後悔し続けて来たあの日々を!


 いつか彼女を迎えに行く、その日のために牙を研ぎ続けて来たのではなかったのか!? ああ、だとしたらなんという無様な男だ! 迎えに行くどころか結局彼女の方が島に戻って来てしまうなんて! 主導権は完全に奪われた! それでいいのか? 受け身なままで? 彼女が与えてくれた絶好の機会を、ただ受け取って利用するだけで満足なのか? 挙句、彼女の口から凡そ人に語り聞かせたくないであろう話まで長々と語らせて!?


 ああ愚かしい、なんたる無能! だから貴様は愚かだというのだ! だからいつまでもあの姉に独り立ちさせて貰えないのだ! いつだって誰かに主導権を奪われたまま、自分からは何も切り出せない負け犬なのだ!!


 悔しいか? まだ一人前に悔しいなどとほざく元気はあるか?

 ならば走れッ、追い掛けろ! 我に向かって幸せになるなどと啖呵を切ったのはどの口だ!! 掴まえて、そして二度と離すでないわ、このッ、愚か者が――!!


 …………頭の中で。

 そんな激しい、罵倒にも似た叱咤激励が果たしてあったかどうかは――彼のみぞ知る。



「僕はッ、君のことが、好きだ……大好きなんだッ、友達としてじゃない、家族としてでもない、僕は君に恋をしていて――そしてずっと愛している……!!」


「〜〜〜〜〜〜っっっ?! え、っと、や、しょ、しょんなっ……?!!?」


「――そうやって、いつもはお姉さんぶっていて、でも追い込まれるとテンパって変な声を上げるところとか、最高ですッッ!!」


「にゃっ、にゃにを……ぜ、ゼレスくん!?」


「狼っぽいのにたまに猫感あるのとか、死ぬほど萌えますッッ!!」


「い、いっかい引っ叩いていいかなぁ!?」


「そんなのご褒美だろ常識的に考えてッ!? 来いやぁ!! 僕はそのために三年間、鍛え続けて来たんだッ!!」


「だとしたらなんて無駄な三年間を! そんでキャラちがうくない!?」


「それは姉さんにもよく言われます」


「さっきからなんか敬語だし! ちょ、ちょっと待って一旦落ち着こ?! お茶でも飲んでさ!?」


「敬語なのは――ずっと我慢してたからですよッ!! 呼び捨てにしてって、会話ももっとフレンドリーな感じで接してくれって、アヤさんが僕に命令したんじゃないですか!!」


「うひぃっ!? ぞわっとした! やめて、さん付けしないで! 私にそんな価値ないからぁっ!! お願いだから敬わないでぇ!! 私、正真正銘の日陰者なのっ! 日の光を浴びると溶けちゃうのぉっ!!」



 へなへなと力が抜けていくアヤを支えるために、あろうことか、ゼレスはとうとう一線を越える。散々、自ら姉にやめろと言い続けて来た禁断の奥義――全力のハグである。

 そして、そうするとちょうど頬のあたりにやってくる彼女の耳元で。


「――溶けたら、僕が支えます」


「イ ケ ボ ッッッ!!!!」


 ――この日のために三年、特訓してきた渾身のイケボが、炸裂したのであった。


 その破壊力の凄まじさたるや、世の女性の方々が聞けばほぼ確実に腰が砕け、たとえ相手が男であろうとも魂の内側に眠るメスの部分を強制的に呼び覚まされる危険性があると、特訓に付き合わされたリィフは語る。

 そんなものが至近距離で直撃したのだ。アヤが顔を真っ赤に染め上げ、耳の穴から煙を吹き、目を回して崩れ落ちてしまうのも、無理はない……。


 力なく倒れるアヤを優しく支えているゼレスの姿は、さながら永遠の眠りに就かんとする姫君を抱きかかえた騎士のような恰好で。


 だけどその辺りでちょっと冷静さを取り戻したゼレスも、同じように赤面して若干、顔を背けていた。


「……ごめんなさい、ちょっと調子に乗りました」

「…………。……ほんとだよ。なんてことしてくれてるの……まったくもう」

「すみません……今離しますので……」

「……いい」


 ぎゅう、と。アヤはゼレスの袖を掴む。


「離さなくて、いい」



 ゼレスの胸に、とても見られたものではない顔を、隠すように押し付けて。

 アヤはしばらく何も言わず、ずっとそうしていた。

 ゼレスも、彼女が次に口を開くまでは、じっとそのまま何も言わずに彼女を抱きしめていたのだった。

 言葉なんて、要らないのかも知れない。


 昨日よりも、ずっと。鼓動が聞こえる程の近い距離。

 そこにいることを許されている、その事実だけで。


 欲しかった答えなんて、もう全部出ているじゃないか。

 目を閉じていても分かる。何も見る必要さえない。

 だからもう……何も、言う必要はないのだ。




 *





 ――そんな重たい話をしたら、選ばれる可能性は極めて低くなることくらい分かっているはずだ。

 なのに彼女はそれをして、そして再びこの場所で落ち合う約束を交わそうとした。

 運命のルーレットに、わざわざ自分が不利になる可能性を置いたのだ。

 その理由は、僕にだけは分かる。たった一年間を一緒に過ごし、その後三年間を思い続けただけの僕だけど――それでもこの世界の中で他の誰よりも彼女の気持ちを推理し続けて来た僕だからこそ、理解できなければならない。


 彼女は誠実な人だ。

 僕は、だから彼女を好きになった。

 でも、その誠実さは――この世の理の全てに平等で。

 表と裏、愛と憎しみ、真実と幻想――それらがどちらか一方に偏ることを、彼女は極度に恐れている。

 中立にして中庸……全てを認め、全てを受け入れる。


 本当は選ばれたい。選んで欲しい。愛して欲しい。そう思っているのに。

 それと同じくらい、選んで欲しくない。愛される資格が無い。そう思っている。


 僕が脳内でもう一人の僕と二分している相反する感情を――まるで彼女は、自分一人で成り立たせているかのようで。

 人間とは。心とは。とても、複雑だ。

 時には自分の感情さえ読み切れないこともあるのに、他人の心を垣間見ようだなんてどうかしている。なのに――そうしたいと思わずにいられない。

 物事をもっと簡単に考えられたなら、どれだけ幸せなことだろう。

 操り人形のように、与えられた台本にだけ従っていれば、どれだけ楽だろうか……。

 だけど僕らは人間なのだ。

 誰かが置いた駒じゃない。

 自分の頭で考えて行動できる……人間なのだから。



 昔。三人で森で遊んでいた時。うっかり足を滑らせて、僕が怪我をしたことがあった。姉さんが慌てて救急箱を取りに戻ったところまでは覚えている。けれどその後のことは、分からない。

 もしかしたら、その時。

 その時、アヤは……もう一人の僕に会っている。


 何を話した?

 どうせろくでもないことだろう……。

 その日を境にアヤの態度が少し変わった気がしたのは、怪我をしたことが原因だと思っていた。でも、たぶん、違った。あいつが余計なことを言ったんだ。僕が意識を失っている間に、僕の口を勝手に使って。……アヤを、困らせるようなことを。



『――シマを去れ、と言ってやったわ。



 ……なんで、そんなことを。



『どれだけヒトに近付こうとも、我らはヒトにはなれぬからだ』



 おまえの言ってることも、やってることも、いつも意味が分からなかった。

 だけど今日聞いたそれは、歴代で一番、意味が分からないな。



『…………。いずれ分かる時が来る。或いは。……そんな日が永遠に、来なければそれでい』



 ……怒る気は無い。昔からこいつはずっとそうだったから。今更、怒ったりしない。

 ただ。

 どうしてこいつはいつも、何も教えてくれないのだろう。

 どうしていつも。そんなに寂しそうなのだろう……。






『………………我とて。……知りたいのだ』






 頭の片隅で、あいつは小さく呟いた。

 けれどそれはあまりにも遠い囁きで。

 僕には、何を言ったのかは、分からなかった。



 *




「うーん……この辺にあると思ったんだけどなぁ……」


 ゼレスとアヤが人知れずいい感じの雰囲気になっていた頃。

 ベッドを抜け出したリィフは、薬を求めて戸棚を漁っていた。

 しばらく眠ったお陰で多少はマシに動けるようになったものの、頭が重い。

 風邪を引いているという感覚はないが、頭の奥がズキズキと痛んでちょっと熱っぽい。

 あまりにも痛むのでその原因を考え始めた辺りでようやく、先日、川に落ちた時の不思議な体験を思い出したのだった。


「あー……そうだ。これはきっと知恵熱ってやつね。あんまり頭使うの得意じゃないのに、珍しく頭を酷使したから――あいたた……頭痛薬なんて、あったかなぁ……」


 戸棚を漁る。その隣も漁る。台所の収納も片っ端から。冷蔵庫も覗いてみたり。覗いたついでに水分を補給したり。部屋中あちこち、探しても探しても、薬はおろか、救急箱らしきものさえ見当たらず。


 途方に暮れ、ベッドに戻る気力も失い、居間の壁際に座り込んだ。

 テーブルを見上げる不思議な視点。それはまだ背が低かった頃の――



『なぁ、薬箱ってどこにあるんだ?』


『そっちじゃないのだわ。下よ、下』



 ――声が聞こえたのは、その時だった。



『薬箱は、床下の蔵の中』


『あぁ、こんなところに』



 リィフは目を見開いた。

 突然、頭の中に聞こえてきた、馴染みのない女性の声。

 体調をこじらせたせいで、とうとう幻聴まで聞こえたのか?

 いいや、それにしては、あまりにも。

 ……リィフは恐る恐る、部屋中を見渡す。

 

 まさか。この家にそんなものがあるなんて、知らない。

 でも。……まさか、ひょっとして?

 這うようにして台所へ向かい、そして床に密着してずっしりと重いマットを、ゆっくりとめくる。

 重いと言うか、まるで接着されていたような感触だ。

 ……そして露わになった床には、今日までずっと隠されてきた、謎の蓋が確かにあった。


「……床下の、……」


 ごくりと息を呑む。

 蓋は、今のこの家の状態と同じように新しくなっていて、リフォームの際にちゃんと取り替えられていたことが分かる。つまり、この床下収納が存在することは、少なくともゼクとフリムは知っていたということだ。知っていて、この重たいマットを敷いて、隠していた。

 なぜ? なんのために?

 …………。

 ……いや。

 それは別に、おかしな話でもない。

 例えば子供が触れないように、お酒でも隠しているのだ。或いは島の調査研究のなにか重要な資料とかが保管されているとか?

 もしも収納が思ったより大きければ、間違って転落して閉じ込められてしまう事故が起きないとも言い切れない。

 だから、必要になるまでは黙っていた。この重たいマットも、意図して剥がそうと思うまでは、剥がせるものであるということさえ知らなかったし……。


 色々考えてみたものの、次第に面倒になってきた。頭が痛い。

 マットを退けた感触からして、相当な年月、この収納は開かれた形跡がないように見える。

 だとすれば仮にこの中に薬箱があったとしても、薬の使用期限などとっくの昔に終わっていることだろう。

 だから今、この蓋を開く理由があるとすれば――それはやぶをつついて蛇を出すような、余計な好奇心だけ。


「――というわけで、開けちゃうんだけどね。うふふ」


 ……私がこういう性格だから、きっと隠してたんだろうなぁ。

 自分の行いを振り返り、少し反省するリィフであった。しかし、だからといって蓋を開こうとするその手を止めるには至らない。頭の痛さも、好奇心の前には無力だ。


「うわ……蜘蛛の巣? ……埃だらけ……」


 いったいいつから放置されているんだろう。

 蔵の中は、そこだけ百年前くらいから放置されているかのような有様だった。蜘蛛の巣なのか何なのか分からない、ねばっこい埃の糸がチラついている。

 広さはそこそこ。汚いから嫌だけど、入ろうと思えば入れそうだ。床下なのだから、そのまま外にも出られるのかも知れない。どこかに穴が空いていればだけど。


 手を伸ばせば届くギリギリのところに、小さな箱が見えた。

 それがやたらと興味を引いたので、頑張って穴の中に上半身だけ突っ込んで、左腕を伸ばして手に入れることにした。


「……あっ!」


 ……のだが、箱を引き抜く際にどこかに引っかけたのか、髪留めが一つ弾けて、こつーんと暗闇へ落ちて行ってしまう。お気に入りの、金色に光る小さなピンだったのだが、こうも暗くては流石にもうどこへ行ったのか分からない……。


「あーぁ…………やっちゃった。嫌な等価交換だなぁ……はふぅ……」


 これはもう、箱の中身に期待するしかない。

 せいぜいあの髪留めの分だけでも楽しませてもらわなければ。


 箱の表面には見慣れないレリーフ。

 その文様は部屋に飾ってある様々な民芸品のどれとも一致しない。

 孤島調査の第一人者として、だいたいいつも世界中を飛び回っている両親の買ってきたお土産の類ではないのかも。

 つまり、これはひょっとすると、かつてこの小屋に住んでいた者の『遺品』なのだろうか?


「だとしたら、百年……いや、それよりもっと前のものかもねぇ?」


 わくわくしてきた。

 これは高く売れるかも知れない。

 ……勿論、ゼクとフリムの許可は必要だが。

 そんなことを考えながら、箱を開くと……。


 そこには『宝石のついた指輪』と、数枚の紙きれが入っていた。



「あれぇ……薬箱じゃないんだ。……何だろ、これ……」



 この世界において、宝飾品は単なるアクセサリーを意味しない。

 それらはほぼ例外なく、特別な魔法の道具だ。何らかの魔法が込められた、武器――もしくは最悪の場合、兵器であることも考えられる。

 だからリィフも一目で理解する。箱の中から出て来たそれが、自分が想像したよりも遥かに価値の高いアイテムであるという可能性を。


 指輪には触れず、紙きれを手に取る。

 そこには特に珍しくもない黒のインクで文字が書かれていた。

 紙に劣化は見られない。良い紙を使っているのだろうか。それとも、何かの魔法? まぁ、そこにはさほど興味はない。重要なのは中身だ。


「これ……手紙、だ……」


 一行目。達筆で記された『親愛なる友へ』。

 なんとなく、女の人の字だ、と思った。



「――『あなたが』……」



 『あなたがいつか、後悔する日が来たら』

 『この指輪がきっと、あなたの助けになるでしょう』



「……『これが私の、この世界に残せる、最後の魔法』」



 『森の魔女が、あなたのために残す、最後の魔法』



「……『願わくば』」



 『願わくばこの箱が、永遠に開かれんことを』

 『あなたに、永久の幸福を』


 『――あなたの友 森の魔女より』

 『――わたしの友 永遠の翼へ』




「森の……魔女」



 ――その名を再び口にした瞬間。

 頭に、激痛が走った。

 脳裏を駆け巡る膨大な情報の――その一端が弾けて溢れ出したように。

 次々と浮かぶ景色は。

 どこかの。

 いつかの。

 だれかの。


 とても、とても、大切な……

 なにかの、記憶――……



「……ミリ……エ……………………?」




 『この体』は、果たしてこの時、何を思い出したのだろう。

 溢れた涙が意味するものを……彼女リィフはまだ、理解できない。


 その身に宿す真実も。

 かつてこの島で何が起きたのかも。

 そして。

 惨劇はまだ、終わってなどいないということも。


 今の彼女は知らないから。

 頬を伝う雫の意味を、彼女はどうしても、理解できない。


 ……そして。

 この先の未来に。

 彼女がそれを知る機会は――与えられない。









 *



 そんなの、与えるわけがない。

 だって、私が目覚める時が来たのだから。



 *




 世界樹最大の魅力は、なんといっても百年に一度のサイクルで花を咲かせるという極めて稀な性質であろう。百年に一度しか花を咲かせないのだから、人間の平均寿命から考えると、一本の世界樹の開花に立ち会える確率は、まさに一生に一度あるかないかというところ。

 そういう希少価値が人々を魅了するのであって、世界樹そのものはといえば、割と至る所に生えていてさほど珍しくはない。


 最果ての孤島が人類によって発見されたのを皮切りに、様々な調査機関がこの大地を踏み荒らしてきた。

 島に生息している動植物の調査や、行方不明者の捜索など、とにかくたくさんのことが調べられた。

 その過程で分かったのは、この島に自生する樹木はそのほとんどが世界樹であるということ。そして次の開花が、百周年セレモニーの日に概ね一致するであろうということだった。


 一週間という開催期間は、この世界樹が一斉に花開く歴史的一瞬に皆で立ち合うためだ。

 それはきっと誰も見たことの無いような幻想的な光景で、まさに式典を盛り上げる最高の演出となるだろうと、誰もが思っていた。だからこそ、これだけの人数が集まったのだ。百年の節目に、一生の一度の絶景をその目に刻み付けたい――人々はそう願わずにはいられなかった。

 中継カメラが何百台も設置され、それでも足りないとばかりに各局の飛空艇が島の上空を飛び交っているのも、全てはその瞬間を映像に残すため。正直、それさえ叶えば、式典の様子などどうだっていい――そう考えている報道関係者も少なくない。


 別名、星の宝。

 世界樹の花は、宝石のように淡く透き通った、大きな花弁が特徴的だ。

 それが一つの樹に何千何万と花開く。

 そして、その一つ一つが周囲を漂う魔素と反応し、うっすらと金色に輝くのだ。もしも開花が夜だったなら、それはもう、筆舌に尽くし難き絶景となるだろう……。

 花の寿命は短く、二日以内に全て枯れ落ちてしまう。

 世界樹はそれからまた百年、静かに次の開花の時を待つ。


 あともう、ほんの少しの時間で訪れる、記念すべき日。

 その日に、もしもその花が咲くならば。

 それはきっと、神の祝福に違いない。

 神様が見ていて――この想いに応えてくれたと信じたい。


 もうじき夜がやってくる。

 夕焼けの赤い空が、青い空を彼方へと追いやって――やがて全てを真っ黒に染め上げる。ここから二人で花火を見上げよう。そして……永遠を誓うのだ。やっと出会えた大切な人と、もう二度と離れないことを……。


 アヤは。

 ゼレスは。

 互いにそんなことを思いながら。

 二人だけの時間を、大切に過ごす……そして。




 *








 ――帝国軍人として警備に当たっている、あの鳥の亜人。この島で、不在がちなゼクとフリムに代わってご子息の面倒を見たりしていたティキという男は、一言で言えば、怪物である。

 ちょっとしたごろつきが武装して数百人束になった程度では、彼に手傷一つを負わせることすら叶わない。もし彼が帝国を裏切って突然暴れ出したなら、それを制圧するのには最低でも軍艦三つ分の戦力が要るのではないか、などと噂される程の、正真正銘の化け物である。

 そして本当ならば、軍人として大人しく上官の命令に従っているような男ではなかった。彼の人生に何事もなければ、彼は今頃、裏社会で相応の地位を手にしたマフィアの頭か何かにでもなっていたはずであった。

 しかし、そんな彼の人生に、何かがあったのだ。だから軍人になってその力を、正義のために振るうことになったのだ。全ての真実は本人と、そして彼を帝国軍に紹介したフリムだけが知っている。

 まぁ、その辺のことはどうでもいいとして。今やただの観光地といえど、帝国にとって重要な領地の一つを任されるだけの実力と実績が、彼にはあるのだった。


 そんな彼が、その戦闘能力以外に上層部から重視されている能力がある。

 それが、直感力。鳥の亜人ならではの第六感だ。魔素や電磁波の異変を素早く察知するその能力が帝国軍を大いに助けた場面は、少なくない。



 ティキが、ぴくりと瞳を揺らしたのは、日が暮れ始めた頃だった。

 次第に明かりが灯り、広場が昼間とはまた違った雰囲気に包まれ始めている。昨日と同じように、夜はまた一層、賑やかになるだろう――なんて思っていた矢先のことだった。


「……………………」


 なにかがおかしい。

 だが、それが何なのかは分からない。ただただ嫌な感じがする。首の周りを何かが這いずり回っているような悪寒がする。漠然とそんなことだけを思い、彼は周囲に目を向ける。

 周りの者に、特に変わった様子はない。

 誰も、何も感じてはいないらしい。

 気のせいだったのだろうか、と空を見上げる。

 ほら、やっぱり何もない。昨日と同じ赤く焼けた空に、黒く染まった雲の影――が。

 ……瞬間、一つの怪物の形を成し――吼えた。

 二度も見間違うことは無い。

 瞬きすら必要ない。

 それは雲などではなかった。

 突如として上空に現れたのは、真っ黒い、大きな、空を飛ぶ怪物――!!


『カロ……ギャロロロロロロォォォオオオオ!!』


 それはあまりにも非現実的な光景で、誰もが一瞬、夢か幻だと思った。

 瞬きをすれば次の一瞬にも消えてなくなってしまうに違いないと思えるくらいに、今のこの世界では有り得ないはずの景色だった。

 でも、現実として『それら』は、そこにいた。

 舌を乱雑に打ち鳴らすような奇怪な鳴き声をこぼしながら……空から降って来たのはまるで巨大な爬虫類。トカゲのような頭には、零れ落ちそうなくらい大きな目玉がギョロギョロと辺りを見回していて――。

 人々がそれに気付いてから、パニックが始まるまでに――三人もの人間が、その長い舌に絡めとられて宙を舞っていた。


「う……うゎぁっぁあああああああああああッッ!!」

「きゃあぁぁぁあぁぁああああああーーーーーーーッ」

「なっ……なんだ、アレは……!」


 黒い魔物。大トカゲの怪物――!

 あんなもの、大陸では一度も見たことがない!

 この世界にはいわゆる魔物と呼ばれるものはいないわけではないし、様々な文献にもその姿が詳細に記されている。獰猛な野生動物に気を付けるのと同じくらいに、魔物に対して誰もが一定の知識は持ち合わせている。

 なのに誰も、この状況を理解できなかった。

 誰の予測も理解も超えた惨劇が――突如として始まったのだ。


 ティキが最初に発見した大型の黒トカゲ以外にも、あちこちに同種と思われる黒い魔物が出現して人々を襲い始めていた。

 魔術協会に所属する魔法使いや、軍人と違い指揮系統に依存せず自由に戦える雇われの傭兵らが、果敢にもそれらに挑んでいる。形も大きさも様々。小型の魔物は、既に何体かが早くも討伐されている様子だった。

 その亡骸を見るに、魔法で作られた実体なき仮想生命でないことだけはハッキリと分かる。これは間違いなく人類にとって害となる――敵だ。


「――てぃっきー!」


 遠くからティキを呼びつけたのは、彼と同じく島に配属されている帝国兵の同輩だった。


「本部指令! 緊急事態エマージェンシー! この黒い魔物を直ちに掃討せよ、だってよ!」

「緊急事態……了解した! おまえはどうするんだ!?」

「おれらは下で合流しながら、湾岸方面に向かって避難経路を確保する! てぃっきーにはここを任せるぜ! 上からのお達しだ、存分に暴れてこい!」

「……オーライッ、死ぬなよ!」

「てぃっきーもな!!」


 二人は同時に頷き、同時に背を向けて走り出す。

 互いに帯刀した剣を抜き――それぞれが倒すべき黒き魔物に飛び込んでいく。

 ちょうどティキの視線の先では、魔術師たちの炎熱魔法が大トカゲの頭に直撃し、爆音を轟かせているところだった。

 しかし威力が足りないのか、炎を突き破り、奇声を上げながら大トカゲは猛然と走り出す。その先には――


「まずい……記念碑だ……!!」


 その先には孤島開放を記念する巨大なモニュメント。

 或いは島に眠る者を供養するための、墓標が聳えている。

 高さも重量もこの島の人工物の中では最大級だ。

 もし倒壊でもしようものなら、大惨事である……!


「いかせるかよッ……!」


 魔物から逃げようと、荒れ狂う大波のように押し寄せる人々。その怒涛のうねりを飛び越え、ティキは一気に間合いを詰める。鳥人種である彼は、背中の翼で空を自由に飛ぶ――とまではいかないながらも、高い跳躍力とそこからの滑空により、かなりの距離を高速で移動することができる。それも着地の際、その全体重を乗せた渾身の一撃を放ちながら……!


「間に合っ……たッ!!」


 帝国式剣術が、大トカゲの後ろ脚に届く――そして一撃の下に両断する……!

 絶叫と共に横転する大トカゲの体の上に飛び乗り、頭まで駆け上がる。もがく短い手足では彼を捉えることはできない。まさに一瞬の早業と呼ぶに相応しい。極限まで無駄を省いた正義の刃は、最初の一太刀から次にその首を切り落とすまでの間に、相手に一呼吸の余裕すら与えない。


「……っ……ふぅ……! ッてぇな……!!」

「「うっ……うおおおおおおお! さすが帝国兵だ!」」


 絶望に彩られつつあった雰囲気が、一気に反撃の色を帯び始める。その機を逃さず、ティキはトカゲの上で剣を天に掲げ、声を張り上げた。


「みんなッ、落ち着いて行動してくれ! 退路は帝国兵が確保している!! このまま焦らず、冷静に湾岸部まで避難を!!」


 その言葉に従い、人々は広場から続々と避難していく。


「我々は残ろう。どこまで役に立てるか分からないが……こんな時に魔法を使わず、いつ使うというのだ」


 魔術協会に所属する魔法使いたちが数名、ティキの周囲に集まっていた。本来ならばそのような助力は承認できないところだったが――『緊急事態』であると、既に通達されている。今は体裁を気にしている場合ではない。一人でも多くの戦力が欲しいところだった。


「感謝する。共に戦おう!」


 この孤島に何かがあった時のために、当然、避難経路は用意されている。まずはその経路の安全確保が最優先だ。そのために彼の同僚が今、全力で戦っている。ならば自分のするべきことは、そこへ至る道の安全を守ること。一匹でも多くの黒い魔物を、倒すことだ。

 魔術師たちを連れ走り出そうとした……その時。

 『あるもの』が彼の目に、不意に留まった。


 それは、この惨劇にあまりにも不釣り合いな……



「世界樹の……花が」



 美しい花が一斉に、咲き始めている光景であった…………。






「花が……開く………………」















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