海と空は迷子たち
裏瀬・赦
1日目-1-
眩しい朝焼けだ。雲の中間に切れ目が走り、陽光がいくつもの梯子のように伸びて広がっている。曙光がその下の海面に反射して柔らかく広がり、荘厳な雰囲気を湛えている。
まだ自動車もまばらな海沿いの道を一台のクロスバイクが風を連れて走っていた。スピードを出すためではなく、平坦な道を長く走り、荒れ道や山道も越えていく持久力と耐久力を持ったマウンテンバイクに寄せたクロスバイクだ。しっかりと筋肉のついた脚がペダルを踏むと、がっちりと地面を噛んだホイールは速力を上げる。
駆けるように道を行くのは少女だった。暑さよりも防護や動きやすさにと、伸縮性のある化学繊維の長袖に、スポーツ用のショートパンツと黒いタイツが引き締まった身体を浮かび上がらせる。背中に固定されたザックが身体の1つのように見える。
顔は小柄ですっと鼻筋が通り、少年のように細い。切れ長の目は鋭さを感じるが、楽しそうに口角の上がった口元は親しみやすい笑みを浮かべている。進路を見据える瞳は、光の角度で海の青色にも見える深い黒色。首元でばっさりと整えられた瞳と同じ色の髪をヘルメットの隙間から風に泳がせて、軽快に風を纏って走って行く。
バイクはカーヴに差し掛かる。顔を正面から左に動かせば、下には海から戻ってきた船とそれを受け入れる港、その上に広がる町並みが見える。まだ起き出したばかりの町は、欠伸をするように海からゆっくりと風を吸い込んだ。
道はカーヴを連ねながら下降し町へと降りていく。バイクは時折の風にも負けず町を目指して降りる。だが、もう手前というところでその足が止まった。雲が晴れて朝陽が射し込み、眩しいくらいに世界を照らしている。山の緑、海の青、雲の白。空には薄っすらと下弦の白い月。半月もあればすっかり消えてしまうだろう。
少女が思わず見惚れていると、雲が切れて太陽が昇りきり、空が青へと染まっていく。彼女の口から残念のため息が漏れる。写真に撮る機会を逃してしまった。そんな高価なカメラは持っていないがスキャナーフォン(頭に装着もできるタイプ)でも充分な景色は写せるのだ。
それでも空は綺麗で、茜色に染まっていく世界の一瞬を切り取って彼女はバイクにまたがる。坂道は太陽に照らされて行く道を飾っているようだ。
バイクが坂を下りる。車道は自動車も少なく、シャララと音を立ててホイールが回転し、坂を一気に駆け降りる。風の中に身体を割り込ませて押していく感覚が気持ちよく、再度ペダルを踏んでは足を止め、ホイールが回るままにまかせる。
「気っ持ちいい!」
身体全体で風を受け止めて、少女は再びペダルに足を乗せた。
うねり道が終わると一気に見晴らしがよくなる。最初に目に入るのは小さな港だ。漁船の1つ1つがはっきりと見えるようになってくる。少し離れたところにある小さな砂浜は誰もいない。
上を見ると、中心を大きな道路が走り、町を左右に分けている。中ほどになれば道は細くなって家々に飲み込まれその辺の路地と変わらないだろう。さらに上は完全に山になっていて緑色が広がっている。それだけの小さな町だ。
バイクの速度はそのまま、目線と水平線が近づいていく海を見ながら、少女は少し微笑んだ。楽しそうな場所だ。朝の陽ざしにきらめく水面がまぶしい。
既に町は目の前。道路は海とほぼ水平に角度を落としていた。隣には岩場が、その向こうに海面が横たわっている。港からはまだ遠いせいか船は近くに来ないが、水面から飛び出す影が魚がいることを教えている。思わず少女の腹の音が鳴る。
(朝からやってる飯屋があったらいいな)
コンビニがあるかさえ不明な場所だ。上から見る限りホテルのような大きな建物の姿は無い。民泊、あって小さな割烹か旅館だとすると、ちょっと外を歩けば物がある便利な環境では決してないだろう。ただ、それなら朝から開いている食事場所があってもおかしくない。市場があるならなおさらだ。
期待を胸に少女は最後の坂道を滑るように降りていく。道はほとんど平坦になり海も間近になっていた。何の気なしに軽く海を見た。
瞬間、前の方で影が落ちた。鳥かと思って目を凝らすと、もっと大きなものだ。瞬間、足がペダルを踏んだ。もっと近くに行けば見えるかもしれない。吹き始めた風とその思いが身体を突き動かす。
見えたのは人だった。海の上を歩いているように見える。まさか。驚きが脳に再考を促すが、その姿は人以外の何物でもない。船の上でもないのに水の上にいる。
その足取りは青海波の絨毯の上を踊っているようだった。下に岩場があるのだろうか。蜃気楼みたいな自然現象何かのトリックか。浦風が吹き抜けたように彼女の心がざわついた。
だが、その姿が見えたのは一瞬のこと。耳をつんざく下品なクラクションに急かされて少女が目を離したすきに影は消えてしまった。港には返ってくる船しかない。
残念、と運転を再開する。前から来るトラックとすれ違う。後ろからトラックが追い抜く。往来の音が活発になっていく。排気ガスを撒き散らしながら魚と潮の臭いが遠くへ旅立っていく。それがこの町の朝なのだろう。海の上を歩く人など、そこには含まれていないに違いない。
山から下りてくる道との交差点で止まると信号の上に町名標識がある。「海来町(かいだいちょう)」とあった。
交差点を直進し、少女は港へたどり着く。バイクを止めて海を見て、スキャホのカメラモードを望遠にして海を見て、何か変わったものが無いか探す。あの人影の正体が気になっていた。見間違えの可能性は充分あるというのに、どうしても正体を知りたくてたまらない。
(人。なんで人。どう考えても人。それ以外に考えられない)
じっと目を凝らし水平線の向こうまでも貫かんとする視線。しかし、その目は近いところには向いていなかった。
「嬢ちゃん、何かあったのかい? 落とし物でもしたか?」
「えっ! あっ、いや、これは」
その姿を怪しんだのか、はたまたこの場にそぐわない少女というピースに惹かれたのか、船から上がったばかりの中年の男が彼女に声をかけた。小柄ながらもがっしりとした肉体、荒波や海風に負けない大きな銅鑼声、角ばった顔に意外と大きな目。頭には帽子が乗っかっている。どこの漁港にでもいるような漁師だったが、突然のことに少女には驚きが強すぎた。
「にゃっ!」
ざっと身体を引いて全力で遠ざかる。それは見事な足さばきでタイヤを押しつつ後退して、また手はバイクのサドルにかかりいつでも逃げ出せる体勢を整えている。だが、相手を認識すると少女の顔は急変した。
(やっちゃった……)
明らかに傷ついた男性の顔を見て、少女は心の中で気まずい声をだす。だが、沈黙も一瞬。
「どうした。メシ行かねえのか?」
「ああ、いや、ちょっと。この嬢ちゃんがぼうっとしててよ」
漁師が増えた。最初の漁師よりも身長は高いし全身を服で覆っているが、発達した筋肉で覆われた重装甲のような身体は2人が同じ類に属していると雄弁に語っている。そして、彼も同じく少女に興味を惹かれたようだった。
「見ねえ顔だなあ。そのバイク、旅でもしてんのか?」
少々訛りが入った声は低く重く、そして鐘を思いっきり撞いたように大きい。
「え、えと、」
「こンな場所にいたって面白れえもんなんざなんも出ねえぞ。道ィまちげぇたか?」
「だから変だと思ったのよ。今日日自分探しも流行らないし自殺とかやめておくれよ」
「そんなことは無いのでして、その、」
こればっかりは少女を責めるのは酷というものだ。いかつい顔をした男2人に囲まれて悲鳴を上げないだけマシである。だが、視線は男の顔を行ったり来たり。引きつった顔に嫌な汗が流れ、今にもここから離れたいと足先が逃げ場を探している。
そこに救いの手が現れた。
「おまんらなーに女の子いじめとるね!」
ごいん、と鈍い音を立てて背の高い方が沈んだ。次の動作で背の低い方が横殴りに倒れる。
「だーいじょうぶ? こいつら悪気が無いんが悪いんよ。陸育ちのお嬢さんに怖い目あわせてーるって気づくほどの頭も無いしーさ」
妙に間延びした、しかし早い口調でやってきたのは、男たちと同じくらいの年齢の女性だった。手には魚が跳ねている箱を持っている。まさか、これで殴ったのではないよね、と少女は心の中で冷や汗を垂らす。
しかし、自分も殴られたような衝撃で彼女の頭は正常を取り戻している。
「大丈夫、です。何もされてない……こともないですけど、少なくとも身体には触ってませんし」
「当たり前よー。指の先っちょでも触れてたら、海に叩き落としてるわー」
一番過激なのはこの人じゃないか、というかここの人は全員こんな感じなのか、と少女の顔が再び引きつっていく。
「あてて……」
「いきなりぶつなや!」
しかし、助かったはいいもののその場を離れる機会を逸している間に倒れていた男たちが復活する。むしろもっと酷くなった状況に、少女は思考を放棄しかけていた。
「いじめとるんーがよくないね! ほれ、こっちきぃ」
「え? あ、」
ぐるぐると回る頭に差し込まれる手。気が付けば、少女の手は女性に引っ張られている。いつの間にか魚が入った箱は男たちに押し付けられている。女性の手は振りほどくこともできないほど強く、抵抗も無意味に無理矢理陸の方へと連行していった。
あとに残ったのはいまだ衝撃が冷めやらぬ漁師が2人と主人を見失ったバイクのみ。
「これどする?」
「ンったく、こんな場所に置いてちゃ錆びッかもしれんし……盗まれんこともないが、届けんと」
背の低い方が魚の箱を持ち、背の高い方はバイクを担いで2人の後を追いかけていく。
***
「あ、も、大丈夫! 自分で歩けます!」
少女が女性の手からようやく逃げられたのは市場の建物の中に入ってからだった。人と海産物でごった返した建物はそこまで大きくはないものの、空間を目いっぱいに使って狭い中にも商品や人が詰められている。
船から揚げられた魚介が氷と共に箱に詰められ並び、瀕死の息で弱々しく動いている。魚を買っていく人たちが細い通路を縫うように動き、売る方は気を惹こうと大声で声をかけ続ける。ひと時も停滞の無い空間は清々濁々を併せ吞んで数瞬前と全く違う形となって動き続けていく。
その中を2人は奥へと進む。手を離してからもどこか引っ張るように目線を後ろの少女に向けている。監視されているようで気分がよくない。
それでも進んでいくと、プレハブ小屋のような場所に着いた。事務所が入っていて、女性は管理人に声をかけて誰もいない部屋の中に入っていく。
「こーんなところまですまんねー」
「いえ、大丈夫ですから……」
少女は驚きを残しつつもだいぶ落ち着きを取り戻していた。とりあえず、そもそもそっちが引っ張り込んだのでは? とは口が裂けても言わない分別は戻っている。
「あ、そうそう。名前なーんていうの? あたしは
「
「んで、高遠さん、大丈夫っした? ちょーっとあいつらの前から離そーと思ったんけど、やりすぎちったかしら」
「いえ……助かりましたし。バイクも後で回収すればいいですし」
丁寧に答えている少女──深空の脳内は、態度とは裏腹にどうやってここから去ろうかと考えている。ここにいても仕方が無いし、そもそも用は無いのだ。かといって何か用のある場所があるかと言えば、流しの一人旅行なので無いのだが。
これも何かの縁かと考えればいいのか、とあきらめ気味の彼女の心中は全く気にせず、陽花は軽い口調で言った。
「まーあたしが目ー光らせてれば変な奴は寄ってこないけどさー、いつでもそんなことできないわけよ。取引相手以外の外からの人って珍しいーし、こんな若い女の子だしさ。それにあいつらが怖いのは生まれつきー、子供ん頃からあんな顔よー。だから、あいつらや他のやつらのこと悪く思わないでくんな」
頭を下げる。あの漁師、ひいてはこの町の漁師への誤解を解きたいようだった。自分たちはそういうものは使わないが、変なことがあれば即座に拡散される。そんな思いが読み取れる。深空も驚きが大きかっただけで元より悪いイメージはほんの少ししか持っていないし、もうそれも解けつつある。
「ええ、大丈夫です。だからそんな風にしないでください……」
「いいんかー?」
陽花は顔を上げる。そこでようやく深空は彼女の目を見た。申し訳なさそうな、それでいて守るものがある強い光を放つ目だった。ようやく深空も彼女のやっていることが飲み込めてきた。
この町の玄関口とも言える漁港のイメージを守って旅行者や他の街の人に悪い印象を持たれないよう必死に守っているのだ。人の口に戸は立てられないし、人の手が広める噂も止められない。若者というだけで、旅行者としては歓迎しても余所者としては不安と猜疑を誘発される対象となる。
深空はできるだけ笑顔を作って、明るくするよう大袈裟に口を開く。
「はい。特に気になることも無かったですし、変なところにいたのは自分の方なので……」
実際、変だったのは場所じゃなくて自分の目の方だったのかもしれない。それか海の方か。
しかし陽花は疑う様子もなく話を変える。彼女にとっては、深空が今後どんな行動をとるかの方が重要だった。
「そーいやチャリンコ置きっぱだったねー。ちょっと待って」
言うなり懐から携帯電話を取り出した。深空が驚きに目を開く。ゴーグル程度の大きさのヘッドセットが一般化しているこの時代に於いて、折りたたんでボタンを押す画面の小さな携帯電話は古代魚が泳いでいるに等しい。まだ電波使えるんだ……と感動にも似た感覚が脳を走る。
「あ、おまんらどこ? あーチャリンコどーし……こっち持ってきてる? そりゃ手間省けたーね。そんじゃ本部の前に持ってきてよー。壊すんじゃないよ」
ふぅ、と通話を終えて電話をポケットにしまうその動作にすら未知を見た深空は、しかしチャリンコと聞いて口を開いた。
「バイク、持ってきてくれるんですか」
「アタシらの後追って来てたみたいでー、でも見失ったって言ってたから丁度良かったよー。すぐに着くから外でましょ。あ、お詫びに朝ごはん一緒に食べないー? 安くするし」
深空の目が光った。元々は朝食を探そうとしていたのだ。それに、完全に奢りではないもののお金を節約できる機会。この誘いを無視できるほどの懐の豊かさは無かった。
「──是非」
「んじゃ、はよ行かね」
道を戻って小屋から出る。その前に立つ大小の男2人。先ほどの漁師だ。バイクを持って落ち着きがなさそうに目をきょろきょろとさせている。
「……アンタら暇なんー?」
「暇じゃねっけどよ、これほっとくわけにもいかねだろ」
ぐっと押し付けるようにバイクを渡されて、咄嗟に深空は点検に入る。ヘルメットはかかっている。軽く持ち上げてバランスを確認。地面につけてホイールのハリを確認。次に目視でフレームに歪みが無いか、汚れが無いか、軽くではあるが丹念に確認していく。
「なんもしてねえぞ」
呆れたように背が高い方が言うが耳に入っている様子はない。結局、それから5分もしゃがみこんだままバイクの点検を止めなかった。漁師2人は呆れ顔のまま自分の作業に戻っていく。深空が立ち上がった時、目の前には陽花しかいなかった。
「そんじゃ行きましょかー」
都会の子供は変わっている、と言いたげな目は深空の目と交差しない。深空の目はバイクに向けられていて、歩き出した陽花にも数秒気が付かないほどだった。
ずんずんと市場を進んでいく陽花を追いかける。混雑した場所は避けてくれているが、人と狭い通路で動きづらい場内だ、どうしてもバイクを持っていると動きづらい。陽花の足も速く、時折止まっては深空を待っている。
そうやって向かったのは市場の外だった。てっきり同じ建物の中に飲食できる場所があるのかと思っていた深空は陽花に話しかけた。
「どこに行くんですか?」
「アタシらは食堂ーって呼んでるけど、ただの居酒屋だよ。朝は適当なご飯作ってくれるのさー」
「へぇ……」
その土地の食事を楽しむのも旅の醍醐味だ。居酒屋も、こんな田舎の地元のものならば、大衆チェーン店のようなコピペ料理ばかりではないだろう(偏見)。
市場を出る。
朝陽が射し込む町並みはまだ夢の中のように見える。何人かが道を歩いていても朝の光の中では影と同じで、しかし海に近づくにつれてはっきりとしていく。
だが、空が違った。
短い時間で空は火の燃えるが如く赤が広がり、海を朱に染めている。波が作る影は黒。砂で描いた影の絵のような光景に、深空は見惚れていた。
深呼吸をするように風が吹いた。遮るものの無い場所で深空を直撃する。身体が押されて立ち止まってしまうほどの強さだ。しかし、冷たいものを含んだ空気は夏の暑さを吹き飛ばす爽快さを感じさせる。潮風が眠気を押し流すように町を流れ、木々を揺らし山へと昇っていく。
それを感じた者はほとんどいなかった。この時間、そろそろ起きてくる人がいても家の中での作業に忙しく、外に出るとしてもごくわずか。朝ごはんの匂いだけが漂っていく。
2人は町の中心を貫く大通りの始点にいた。海から見て右側のカドに、海に正面を向けた店がある。大きめな二階建ての建物で、看板を見れば削られた流木に黒字で『うみお屋』と書かれている。横開きのドアは半分開いていて、魚の煮えるいい匂いを見せの外まで垂れ流していた。匂いと共に人の声も聞こえてくる。
通りの方には道にはみ出して大きな箱がいくつも積まれ、その向こうに裏口がある。そこからも匂いが漂ってきているようだった。
「二人、大丈夫ー?」
陽花が先に中に入る。おーう、と声がかかり陽花が店の中から深空に手招きする。
「バイクはどうすればいいんですか?」
「外置いときなー。この町で盗みなんてできっこないから大丈夫よー」
店の前にバイクを置いて深空は店に入った。
瞬間、アルコールと魚の臭いが鼻を通る。何十年もやってきて染みついているのだろう。だが、すぐに熱く濃厚な魚介の匂いが押し流す。
中は広く、カウンターも含めて席は30はあるだろう。4人がけの机が外側に、カウンターが真ん中に、調理場がその奥にある。深空が店に入って、陽花が調理場に声をかけた。そのままカウンターに座り、深空にも席に着くように促す。
「宗さーん、あら汁とご飯二人前、それと適当につまめるもの」
はいよ、と威勢のいい声がかかる。ちょっと間を置いてカウンターから顔が出た。浅黒い細身の老人だ。背が高く、年季の入った青いエプロンをつけている。話をしている間も鍋をかき混ぜ魚を捌く手は止まらない。
「陽ちゃんが二人連れってのも珍しいな。しかも若い子なんて」
宗さんと呼ばれた老人は眼が悪いのかじっと目を細める。その目が向いた時、深空はなぜか夜明けの海を思い出した。太陽が昇る前、ほんのりと白い空が見せる暗くたゆたう海。そんな深い目の色だった。
それも一瞬のこと。はっとした時には陽花が彼と話しをしている。
「旅行で来たんだってさー。馬鹿二人が怖がらせちゃってねー、そのお詫びなんよ」
「馬鹿二人っていうと
「まーた老眼が進んでるんじゃないの、男じゃないよこんな可愛い子を捕まえてさ。──ま、あの馬鹿の顔が怖いのは確かだけど」
「女あ? へぇ、都会っ子は分からんぜ……」
驚いたように目を見開く。そんな老人の様子に深空は首筋の髪を撫でる。ショートカットだったりバイクに乗ってたりボーイッシュだとは自覚していても、男性そのものに間違えられるとは思ってもみなかった。少し衝撃的である。
だからといって、髪を伸ばしてスカートをはいてマニキュアを塗って口紅をして、集団になって愚痴混じりの世間話をしながら男のことを考える──いわゆる女性らしいことをしようとは思わない。それよりも外に出て風に当たっている方が好きだ。
だから、性別を間違われても特にどうするということもない。むしろ陽花の方がまた迷惑をかけたと気にしているほどだ。
「大丈夫です。こんな格好だから、間違われることだってありますよ」
「そうかい? まあー……そうね、それならいいけど」
若干含んだところのある視線が胸と太腿に向いたが気にしない。スレンダーだしバイクに乗っているから脚に筋肉はつくのだ。気にしない。
「へいよ」
2人分の食事が出てくる。味噌の色の汁は魚の香りに包まれていて、菜のものと一緒に魚の身が見え隠れしている。ご飯は少し多く感じるがバイクに乗っていた身にはありがたい。
そして、適当につまめるものとして出てきたものが予想だにしないものだった。
「これ、いいんですか?」
「いいのいいの。アタシが出すからー」
いつの間にか奢りということになっている。しかし深空にはそれすらも気づかない。
小さく切られたブリの照り焼き、柚子の皮で香りづけされた豆腐とシソとイカの刺身、マグロと小ネギとミョウガのたたき、タラのから揚げ──とても余りものだの適当だのと言えるようなものではない。
「形の悪い部分、骨の間の身、端切れ、余りもの。どれも残すようなもんじゃねえよ」
言い直せば、売り物にならない部分を使っているから大丈夫ということだろう。
恐る恐る深空はあら汁を飲む。お椀に口をつけて汁を飲むと、煮込まれた魚の身が口の中でほどけた。繊維の一つひとつが汁の中に溶けだして、触感と呼べるものがほとんど感じられない。濃い目の味噌の味に負けず魚介が存在を主張していて、時折口休めのように野菜が舌と歯を通り過ぎる。気が付けば、半分ほどを飲み干していた。
次はブリに手を伸ばす。半分にすれば一口大だが、口の中で広がった匂いはまるまる一切れを口にしたようだ。息が詰まりそうなほどにむせ返るような魚介の香りは口と鼻を圧迫し、渋滞のように留まって動かない。
あまりの感覚にご飯を食べた。すると、濃い味と油を炊き立ての熱と甘みが持ち去ってくれる。本来はお酒と一緒に食べるのだろう。しかし、白米でも充分なように調理方法を少し変えているのだろう。
口が温まったらマグロのたたきをご飯と一緒に口に運ぶ。熱の残りでも溶けないほどしっかりとしたマグロの身はネギとミョウガの苦みで甘すぎないようになっている。それに、もう一つの甘み。
「これ……醤油ですか?」
「お、気づいたか? こりゃあただの醤油じゃなくて魚醬を使ってるんだ」
ともすれば臭みを強くしてしまう魚醬が控えめな甘さとなってマグロを支えている。ご飯の味と合わさることで嫌な魚臭さが消えている。
タラのから揚げには塩を振って、豆腐とイカは口直しに少しずつ。アクセントをつけることで手は止まらなくなっていく。
それから深空は夢中で箸を進めた。陽花はあまり手を出さず、それぞれの皿から一口二口取るだけで終わりにしている。その代わりにあら汁とご飯は既に三杯目だ。
食べながら周囲の会話を耳に入れる。漁獲量や売り上げといった漁に関することから、女房がどうの旦那がこうの、息子と不仲だの娘の彼氏が気に入らないだの、世間話を集めていく。そうやって得た情報はほとんど使わないが、たまに役に立つ時がある。そんなことをしていたらある程度の地位が転がり込んでいた。これだからやめられない。
「──ごちそうさまでした」
皿から食べ物が無くなったのは食べ始めてから15分程度だった。間も置かず食べに食べた深空はようやく一息つく。
「美味しかったー?」
「はい!」
ご満悦の様子に陽花がほっと胸をなでおろす。これでお詫びになっただろうか。満足してくれたならいいのだけれど、と内心はまだ不安が残っている。陽花は少し探るように深空に話しかける。
「ところでさー、どうしてこの町に来たのー? そんな有名な場所も無いし、楽に来られる場所でもないと思うんだけどー」
深空としては、美味しいものがお腹いっぱい食べられた上に全部おごりと聞いて満悦だった。だから、質問には素直に答える。
「えっと、そんな難しいことじゃないですけど、適当というか海があるところに行きたかったんです。それで適当に海沿いの道を走って、高速はバイク無理だから放浪って感じで適当に。そしたらこの町に着いたって感じです」
またまた陽花が呆れ顔を晒した。しかし、今度は理解の放棄もしている。会話が耳に入った老人も「若者は分からねえ」と言いたげな顔であら汁をよそっている。
「そんなんで行き倒れにでもなったら大変じゃないかねー……」
「そういうところは考えてますよ。地図を見ればいいじゃないですか」
地図があったところで助けを求められる状況じゃなければ意味が無いのだが──さらに面倒な答えが返ってきそうだったので、陽花はそれ以降は言わなかった。
代わりに旅の予定を聞くことにする。
「旅って言ったけど何日いる予定なん?」
「特に決まってないですけど……適当に、気に入ったところがあれば長くいるつもりで」
「あんねー、止まるところとか考えてる? 民宿はあるけどホテルなんてシャレたものはないよ」
「お金はそこそこあるし大丈夫ですよ。野宿も得意ですし」
そういうことじゃない。しかし、それをどう伝えればいいのか陽花にも少し難しかった。
「野宿ってもここらの土地は誰かの持ち物だし、山はお寺のものだし。民宿にしてもいきなり言われてもそんな急にはねぇ……」
そもそも民宿とは名ばかりで、たまに仕事で来る人やたまのたまに来る珍しい観光客に対して営業しているだけの、少し広い民家だ。それも予約を取って時期を決めて準備をしてようやく提供できるサービスで──つまり飛び込みには対応していないということ。
そういったことをたどたどしくも伝えた陽花に、深空は笑って言う。
「その時はその時です。この町とは別のところに行きますよ」
あっけらかんと答える旅人の少女に漁町の中年女性は返す言葉を持たなかった。渡り鳥よりも気ままに動くこの少女は自分の手に余る、というより考え方が違いすぎて扱う術を持たないと陽花は悟った。
「──まあ、アンタがそれでいいならいいけどさー。だったら
「げんくう……ですか?」
「そ。いつも町を見回ってるから必ず会えるってわけじゃないけどさー」
「見回っている?」
田舎の風習だろうか、と深空は首を傾げる。それとも散歩か。
「警察さんだよー。小さな町だし誰かが変なことしたらすーぐに皆に伝わるし、悪いことできる人なんていないから、事故が起きないかーってさ。子供たちは夏休みだしねー山で迷子になったり海や川で溺れたりしたら大変よー」
深空は思わず吹き出してしまった。警察に、さん、と付けて呼んだのがおかしかった。
途端にお腹の中身が逆流するような感覚。喉の奥に酸っぱい臭いがして、食べ過ぎた、と深空が感じた時には身体が勝手に上を向いていた。
「ふぅー、はーっ、」
深呼吸をすると、胃の方に新鮮な空気が入っていくような気がした。変な空気は身体の外に出たから、その分を補充したのかもしれない。
「大丈夫?」
「はい」
答えた顔に調子の悪い感じは無い。
「ならいいけどさー。あ、もうこんな時間経ってるの」
「休んでたんじゃないのかい」
「そんなことできるほど暇じゃないよー。ってかそんな暇が欲しいよー」
深空はスキャナーフォンを取り出して時間を見る。もう7時だ。町に着いてから2時間弱。店に入ってからそろそろ1時間になろうとしている。少し長居しすぎたと思う。
「じゃあ、出ますか……?」
「ああいいのよー、どうせ満席になんてならないんだからー、ここで時間潰してても」
「その代わりおっさんとジジイとババアに突っつかれるけどな。今は陽ちゃんがいるから手出ししてこないだけだ」
言われて、ようやく深空は自分に向けられている目に気が付いた。じっと見つめているものからちらちらと窺うものまで様々だが、店の中の大半は彼女に視線を寄せている。その成分は好奇と少しの戸惑い、それに観察。探るような目だ。だが、悪意を持っているものは無い。
「気にしない気にしないー。外から来た人が珍しいのさー。この町にいるならそれくらい受け入れないといかんよー」
「順応性を高めるんだな」
聞きようによっては非常に失礼なことを言っているが、3人とも特に気にした様子はない。この町の住人にとっては当たり前のことで、深空はあまり気にしない性質だった。
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